>>【前編】チョン・スユンさん「波の子どもたち」インタビューから続く
北朝鮮の人たちの素顔が伝わるYA小説
――斎藤真理子さんが『波の子どもたち』を訳そうと思ったのはなぜですか。
北朝鮮の人たちの素顔が伝わってきて、面白いYA小説だと思ったからです。私も、北朝鮮のことを報道でしか知ることができないというもどかしい思いを長年抱いていました。一時期は、支配者一族のことばかり報道する日本のテレビに腹を立てて、とにかく普通の北朝鮮の人々の姿がわかるものを紹介したいと思い、脱北者の韓国での定着の困難さをテーマとした『羞恥』(チョン・スチャン著、みすず書房)を翻訳しました。ここにも10代の少女が出てきます。
韓国で脱北者の手記はたくさん出版されています。北朝鮮と韓国は地続きの国ですが、政府の敵対の歴史があるため、気が遠くなるほどの回り道をしなければなりません。北朝鮮を出た人たちは、危険な長い旅の間、大変な苦労を重ね、ようやく韓国にたどりついています。10代の人の脱北手記には、世界的ベストセラーになったものもあります。
そんな中で、チョン・スユンさんの『波の子どもたち』は、脱北に至る経緯とともに、彼らの日常生活や家族関係などが生き生きと描かれていることがとても印象的でした。実際に10代で北朝鮮を脱出してきた人たちとじっくり付き合い、体験を聞いた蓄積がよく現れています。スユンさんは13年間に100人にも及ぶ若い人たちと交流し、主人公像をつくりあげましたが、そんなふうに愛情を込めたからこそ、彼らの命がけの旅の緊張感や、生き生きとした姿、強い生命力の弾みが伝わってきて、心を揺さぶる小説になっているのだと思います。
生死がかかっている瞬間の生活が描かれている
――好きな場面やエピソードはありますか。
男の子のクァンミンが、ひとりで国境を超えたところで途方にくれ、びしょぬれ、空腹で、食堂の肉まんを食べるシーンが好きです。メニューの字は読めないけど、窓際の男の人が食べている肉まんの皿を指さして注文する。しばらくすると、ぬくぬくした白い磁器のやかんと小さな茶碗が目の前に置かれ、お茶を注いでふーふー吹いて飲む。やがて湯気をもうもうと立てて肉まん3皿が出てくる……。生死がかかっているその瞬間の、生活が描かれているんですね。そこで男の人から話しかけられ、またクァンミンの運命が動いていく……という場面です。過酷な旅の中でも、小説だからこそ、読者にそのときのクァンミンの心情や様子が伝わってくると感じます。
友情からきょうだいのような2冊が生まれた
――チョン・スユンさんのお仕事を以前からご存じだったのですか
スユンさんが編訳された日本の随筆集を読んだことをきっかけに、なんてセンスがある素敵な編訳だろうと思って、それから少しずつチョン・スユン訳を集めて読んできました。いつからかSNS上でつながり、互いに本を送り合うようになりました。トルベゲ社の編集者が、私たち2人はきっと気が合うだろうと考えて、日韓同時刊行を見据えつつ、雑誌『世界』(岩波書店)上での往復書簡の企画につなげてくれました。メールを送り合う中でスユンさんから「今、北朝鮮の子たちのお話を書いているんですよ」と聞いたので、とても楽しみにしていたんです。
2年の往復書簡の間に、スユンさんの『波の子どもたち』が完成し、私のもとに送られてきて、すぐに訳すことを決めて……。私にとっては『言葉の森のかくれんぼ』と、スユンさんの小説『波の子どもたち』日本語版は、友情から同時に生まれたきょうだいのような2冊です。
――チョン・スユンさんの原文は、どのような雰囲気の文章なのでしょうか。
スユンさんの文章は会話のリズムがとてもいいんです。10代の子どもたちがやりとりしている会話なんて、親密さがあって可愛いですよ。ソルが故郷の村に隠れているとき、かくまわれている豚小屋みたいなところに幼馴染たちが集まって、踊ったりキムチ汁を飲んだりするシーンがあります。その会話からは、純粋さと、人間関係の平等さのようなものが伝わってきます。
スユンさんの文章は、オノマトペもとても生き生きしています。翻訳のときに擬音語のことはいつも悩みますが、今回も悩みました。『波の子どもたち』に出てくる10代の脱北者たちは、生まれてから一度も海を見たことがありません。移動の自由がないから、海というものの存在は知っていても見たことがなくて、本当にあるのか?と思っているんですよね。主人公の一人に、兵士のおじさんが海の話をしてくれるとき、波の音をどう訳するか迷いました。最初は「ざぶーん、ざぶーん」と訳していましたが、だんだんもっと違う音がないかと探す気持ちになってきました。
『波の子どもたち』の3人は過酷な旅をしますが、だからこそ、海のシーンではもっと彼らの若さ、軽やかさが感じられる音にしたかったのかもしれません。最終的に「サプーン、サプーン」というオノマトペが湧いてきて、本の中に入っています。
自分を生かすために格闘している中高生に読んでほしい
――本書は、韓国でも日本でもYA小説として出版されています。
『波の子どもたち』は南北朝鮮半島分断の歴史が背景にある物語なので、その経緯を踏まえて読んでもらうために、日本では大人向けの本として出版することもできました。でも、私は、日本でもぜひYAとして刊行して、学校の図書館の本棚にあってほしいし、日本の中学生や高校生たちにぜひ読んでほしいと思いました。
その結果、本書は「スタンプブックス」シリーズ(岩波書店)の中の一冊として出版することができました。同シリーズは、海外のYA小説を精力的に日本に紹介しているいいシリーズです。『波の子どもたち』は初のアジアのYA小説としてこのシリーズの中に入ることになります。
――10代の若者が、未来へ向けて自分を作っていく時期に、ありのままに生きたいという気持ちは、国が違っても同じなのだと、本書を読んであらためて感じます。
ソル、ヨルム、クァンミンの3人は、生まれた土地が背負った歴史を引き受け、自らの心の自由を求めて闘っている、同時代の人たちです。彼らの社会の“生きづらさ”と、私たちの社会の“生きづらさ”に優劣があるわけではないのです。“生きづらさに抗う”というテーマで、日本の読者に本書と出会ってもらえるのは、とても嬉しいことです。ソルはソルの課題に、ヨルムはヨルムの課題に、クァンミンはクァンミンの課題に必死で向かい合った結果が、脱北という物語になっています。だからこそ、先行きの見えない旅路を、必死に前へ進んでいこうとする彼らから、私たちは勇気と励ましをもらうのだと思います。