鴻巣友季子の文学潮流(第40回) 米国での日本文学人気とミュージカルの現在地
昨年末に『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』(ハヤカワ新書)という新書を出してから、日本小説の海外展開に関する取材が絶えない。ありがたいことだ。私としては日本文学が海外でどのように紹介され、評価され、売れているかについては、ゼロ年代の末から継続的に観測し、それにまつわる記事をときおり発表してきたので、盛り上がっている現状をたいへん喜ばしいとは思うものの、そんなに驚愕はない。今後もこれまでの同じようにリサーチを続けたいと思う。
さて、7、8月にも渡米してきたが、今回の行先は東部で、ニュージャージー州とニューヨークシティに滞在。ニューヨークのお隣のニュージャージーは、映画「プラダを着た悪魔2」でもミランダ編集長にディスられていたが、反政権傾向の強いリベラル州でもある。これについては別の機会にゆずろう。
ニューヨークシティの書店をめぐると、柚木麻子の世界的ヒット作『BUTTER』の英語版(Polly Barton訳)や、ヒーリングフィクションの代表格、川口俊和の『コーヒーが冷めないうちに』の英語版(Geoffrey Trousselot訳)が単独のコーナーをどーんと形成するという状況はやや静まったようだが、ベストセラーの棚や、話題の本の棚には必ず面展示などで置かれている(村田沙耶香、川上弘美、川上未映子などの日本小説も同様)。柚木の次の英訳「Hooked」(『ナイルパーチの女子会』)は、注目本の棚や、「ビーチ・リーディング」(浜辺で読みたい本)などの棚でよく見かけた。
『変な家』の英訳(Jim Rion訳)が、今年のダガー賞翻訳部門の候補になった雨穴のシリーズも、店員のお勧めや、犯罪小説、ホラーなどの目立つセクションに積まれていることが多く、News Picksのニューヨーク支局編集委員の後藤直義さんと話したところ、ブルックリンの住まい界隈の書店にも、「(『変な』シリーズ英訳の)赤と紫と黄緑の表紙がテトリスみたいに積まれまくっている」とのこと。
書店をめぐっていて、気づいたことが一つあった。毎年8月には、英米で「女性作家翻訳文学月間(Women in Translation)」が開催されているのだが、いつもフェアを組んでいる書店を幾つかまわっても、今年は開催なし。これだけ女性文学と女性翻訳文学が興隆してきたため、役目を終えたと思われているのだろうか? アンテナの鋭いある書店によると、「人気のフェアなのでやりたいのだけど、上からの指示で今年はやらないことになった」「来年も4、5カ月前にならないとわからない」「でも、今年はその代わり『プライド・イン・トランスレーション(LGBTQ+翻訳文学)』のフェアをやっています」とのことだった。このコーナーには三島由紀夫の『仮面の告白』(Meredith Weatherby訳)がしっかり積まれていた。(*主要な翻訳系出版社では、今年もWomen in Translationのフェアが行われている。)
もう一つ変化を感じたのは、ブロードウェイ・ミュージカルだ。この数年、観客動員数の伸び悩みや制作費の高騰により、多くの作品が早期閉幕に追い込まれているとか。私は2010年代の初め頃から、トニー賞がらみの主要ミュージカルは大概リアルタイムで観劇してきた物好きな観光客なのだが、主流の作風にはある特徴がはっきり現れていた。そしてこの手の演目は、トランプ大統領に毛嫌いされてきたのだった。
1990年代後半から2010年代にかけて、ブロードウェイには華やかなメガミュージカルに代わって社会派ミュージカルが台頭してきた。たとえば、アメリカ建国の歴史を扱った「ハミルトン」などはその代表格。この作品群には、きらびやかなスペクタクルよりも、現代社会の闇を浮彫りにしたり、歴史を再解釈したりする作風が目立つ。ここにnerdicalなどと称される要素が加わった。
nerdicalとは「オタク」「マニア」といった意味のnerdとmusicalを、ある評論家が掛け合わせた造語だ。これらの作品には、個人的な悩みやいじめ、身近な社会的軋轢などから、差別や格差、資本主義下の競争主義や貧困といった問題をあぶり出すものがよく見られる。内省的で知的な思索を伴い、登場人物には、引っ込み思案、コミュ障気味、あるいは人種的、性的なマイノリティが多い。舞台の仕立てはこじんまりして簡素、登場人物も少なめな傾向。
社会批評、クィア、ナード(または陰キャ)。トニー賞作品賞受賞作を挙げてみれば、「キンキーブーツ」、「ファン・ホーム」、「ハミルトン」、「ディア・エヴァン・ハンセン」、「バンド・ヴィジット」、「ア・ストレンジ・ループ」、「キンバリー・アキンボ」など、いずれかに当てはまる。今年であれば、「トゥー・ストレンジャーズ」というキャスト2人の演目がこれに当たり、トニー賞で本命視されていたが、無冠に終わってしまった。この手のミュージカルでは、もはやお客を呼べないという危機感があるのかもしれない。
これらの作品群は言い換えれば、白人、男性、異性愛、マッチョ中心主義社会と歴史を批評的に見つめ直すものばかりだ。それゆえに、強いアメリカをモットーにし、クリティカル・ヒストリー(批評的歴史観)を忌避するトランプ氏にはずいぶんと嫌われていたのだ。彼は「レ・ミゼラブルを増やし、ハミルトンを減らせ」と叫び、ワシントンの国立J・F・ケネディ記念舞台芸術センターを乗っ取る形で、「トランプ・アンド・ケネディ記念舞台芸術センター」に改称するということまでやってのけた(これはのちに司法命令で元に戻された)。
トランプ氏のこの姿勢は演劇に対してだけではない。他の芸術、文化、教育の面でも、リベラルなもの、社会批判的なもの、外国文化に関わるプログラムは、軒並み助成金や奨学金を打ち切られたり、廃止されたりしている。
そんな中間選挙の今年、トニー賞作品賞、リバイバル賞の候補作について、「Them」というLGBTQ+系メディアは「信じられないぐらいクィアなラインアップ」と評した。以下がリストの一部だ。
【作品賞候補】
・「シュミガドーン!」
古き良き名作ミュージカルへの愛と批判をこめたパロディ。Apple TVでおなじみのドラマ第一シーズンの舞台化。作品賞受賞。
・「タイタニーク」
セリーヌ・ディオンの楽曲にのせて送るタイタニック号事件のキャンプ(過剰なセンスをあえて楽しむクィア的美学)バージョン。
【リバイバル賞候補】
・「キャッツ:ザ・ジェリクルボール」
超有名ミュージカル「キャッツ」のボールルーム(1970年代ハーレムに発祥する黒人/ラティーノを中心としたクィアなカルチャー)的再解釈。
・「ロッキーホラーショー」
1970年代、英国ウエストエンド発、トランスジェンター/セクシャルな古典名作の再演。
反体制的な気骨をバリバリに感じるが、大がかりで派手な舞台が多いのと、クィア、キャンプ、ダイバーシティという題材や主題を打ち出すにも、古典を下敷に使うという手法が目につく。
「シュミガドーン!」、「タイタニーク」、「キャッツ:ザ・ジェリクルボール」、すべてそうだ。なかでも巧緻なアプローチをとっているのが、「シュミガドーン!」である。初演はケネディ舞台芸術センター(2025年)で、トランプ政権による運営掌握により公演を持続できなかったが、高度に批評的な内容である一方、古き良きアメリカへの愛も感じさせるため、一刀両断にしにくい面がある。
筋書きはいたってシンプル。倦怠期にある医者の夫婦のジョシュ(アレックス・ブライトマン)とメリッサ(セァラ・チェイス)が関係を立て直そうと、ニューヨーク州郊外のキャッツキル山地へ旅に出たところ、シュミガドーンという町に迷い込んでしまう。ここは、なにもかもが黄金期のミュージカルばりの歌と踊りで表現される異様な世界。物語設定自体が「ブリガドーン!」という「百年に一度、一日だけ霧のむこうに現れる神秘の村」に迷い込んだ夫婦を描く古典ミュージカルから借用している。
たとえば、メリッサが「コーン・プディングってなに?」と訊くと、「あら!」「この人、コーン・プディングを知らないんですって!」「なんてことなの!」みたいな台詞を合図に、アンサンブルダンサーたちがコテコテに華麗な歌と踊りを繰り広げる(「回転木馬」のパロディ)。これらが1940年代から50年代の名作ミュージカルへの絶妙なオマージュとパロディになっているのだ。Apple TVの画面サイズでは歌と踊りが少々窮屈に感じたが、ネダーランダー劇場は比較的コンパクトとはいえ、生舞台でのパフォーマンスは圧巻。
夫婦は真実の愛を見つけるまでこの町から出られないという。メリッサは「サウンド・オブ・ミュージック」や「回転木馬」から出てきたような男性らに惹かれ、ジョシュは「ミュージック・マン」や「オクラホマ!」を髣髴とさせる女性たちと親しくなる。
他にも名作ミュージカルの面影があちこちに顔を出す。「アニーよ、銃をとれ」、「王様と私」(の「シャル・ウィ・ダンス」)、「ガイズ&ドールズ」、そして「ブリガドーン」「雨に唄えば」「回転木馬」などのドリームバレエ風のデュエットダンス……。有名な歌曲群を土台にして別ものに仕上げつつ、本歌のバックボーンを明確に示している。
それから、女性のピクニックバスケットを競売するシーン(「オクラホマ!」からの引用)の「ミス・メリッサに2ドル! 全財産だ」という台詞は、その芝居がかった言い方からして、「風と共に去りぬ」のバトラー船長をほのかに想起させられた。
「シュミガドーン!」はめまぐるしく重層性を畳みかけてくる。
明るく楽しいクラシック・ミュージカルにも見えるし、「突然歌って踊り出すってなんなんだ」というミュージカルへのよくある批判、あるいはそうした疑問への皮肉も感じられる。しかしその層の最奥にあって最重要なのは「米国のモデル的社会とその規範の解体」だ。白人、男性、家父長制、異性愛、健常者、マッチョ中心の社会、つまり黄金期のアメリカンミュージカルの世界観を内部から骨抜きにする。
イデオロギーや人種の多様性や、クィアの主題を昔ながらの歌曲と歌唱法でカミングアウトし、一方、クィアのステレオタイプ的な表現を挫き、「ミュージカルってこういうものだと思ってるだろ?」という観客への批判もあり、最後には「私たちはいかに変われるか」という理念を打ち出して、感動に導くメタミュージカルなのだ。感心するのは、内破した旧モデルの幻影が最後まであくまで美しく聳え立っていることだ。斬りつつ立て、立てつつ斬り、斬りつつそっと抱擁したかと思うと……。
反対派もときにとんちんかんな酷評を繰り出すことになる。たとえば、ニューヨーク・ポスト紙(ゴシップ・スポーツを得意とする保守系の大衆日刊紙)の劇評者は、同作の表裏一体の多重構造を読み解くことを拒否し、「しつこい(cloying)」「ジョークが上滑り(surface-skimming)」「水で薄めたパクリ(watered-down ripoffs)」「昔のミュージカルがこんにちどんな意味を持つのかわからない」などと書いている。
抵抗と目眩ましと深い愛情から成る爆弾。トランプ大統領が目の敵にする「ケネディ舞台芸術センター」から出発したこのミュージカルは、中間選挙の今年、トニー賞に選ばれるべくして選ばれたと言えるのではないか。