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山と渓谷社・萩原浩司さんをつくった井上靖『氷壁』 完璧な描写を支えた「案内人」

 山岳小説として知られる「氷壁」だが、山の場面は意外に少ない。数えたら全体の2割に満たなかった。しかし山岳描写の完成度は高い。描かれているのは前穂東壁(まえほとうへき)と滝谷(たきだに)という、穂高を代表する困難な岩場。山のエキスパートしか踏み入ることのできない世界だ。

 本格的な登山経験のない井上靖がなぜ「氷壁」を書くことができたのか。その背景には登山家で作家の安川茂雄の存在があった。安川は作家仲間の「月見の宴」を穂高で開こうと企画し、井上らを涸沢(からさわ)へと案内した。下山後、安川は井上に「ナイロン・ザイル事件」を紹介する。前穂東壁を登攀(とうはん)中、強度に優れるとされていたナイロン製ザイル(クライミングロープ)が切れて登山者が墜死した事件である。井上は、この事件をもとに物語の構成を組み立てた。

 安川が紹介したのはそれだけではない。冬の北鎌尾根で壮絶な遺書を残して逝った松濤(まつなみ)明の話。そして、上高地で「松濤の下山を待つ女性」に会ったエピソードなども井上に伝えた。

 登攀シーンにも安川らの助言があったのだろう。それは実際に滝谷を登って実感した。水しぶきを浴びた雄滝(おだき)の登攀、落石にヒヤリとさせられた濃霧のD(ディー)沢(さわ)。小説そのままの光景が目の前にあった。資料があれば一流の作家は見たこともない風景を完璧に描けるものだと感心したものである。

 安川茂雄は編集者でもあった。彼が井上靖に助言したように、山に興味を持ち、山を書きたいと思う作家がいたら、私も喜んで協力したいと思っている。=朝日新聞2021年7月14日掲載

 ◇はぎわら・ひろし 60年生まれ。月刊誌「山と渓谷」元編集長。