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金木犀の香りと若かった日々 小池真理子

え・横山智子

 金木犀(きんもくせい)の花が咲く季節が近づいてきたせいか。作家になる前の、若く元気だったころの夫のことが甦(よみがえ)る。

 三十七年前。共に暮らし始めて間もないころ。ある朝、彼が照れくさそうに「おれが書いた小説を読んで、正直な感想を言ってほしいんだけど」と言ってきた。

 パリ在住だった時に書いた短い小説がある、という話は聞いていた。そのころの彼は、いくつかの雑誌でエッセーを書いてはいたが、小説は発表していなかった。私とて新人同様だったが、素人に毛の生えた程度のことは言えるだろう、と思って引き受けた。

 彼は、読み終えた感想を聞くまで別の場所で待っている、と言った。もともと「ごっこ」のようなことをするのが好きな男だった。私たちは時間を決め、近所にあったホテルの喫茶室で待ち合わせることにした。

 原稿用紙で三十枚ほどの短い作品だった。私は自宅で姿勢を正してそれを読み、待ち合わせの場所に急いだ。コーヒーを前にして待っていた夫が、作ったような笑顔をみせた。彼は可笑(おか)しくなるほど緊張していた。

 「とってもよかった」と私は言った。その理由も述べた。お世辞でもなんでもない、正直な感想だった。嫉妬に狂うほどの作品、もしくは、あまりに酷(ひど)くて呆(あき)れるような作品だったらどうしよう、と思っていたが、いずれでもなかったことが嬉(うれ)しかった。そのことも隠さずに伝えた。

 夫は深く安堵(あんど)した様子だった。私たちは天井の高い、明るい喫茶室でコーヒーを飲みながら、互いがこれから書きたいと思っている小説の話を続け、ケーキを食べた。いくらでも自宅で話せることだったのに、気取って外で待ち合わせ、新人作家と編集者のようにして会ったことが面白く、新鮮だった。

 ホテルを出ると、あたりには秋の午後の長い日差しが射(さ)していた。散歩気分になり、肩を並べてのんびり歩いた。どこからか金木犀の香りが漂ってきた。

 橙(だいだい)色の小さな花をつけた金木犀は、香りが感じられてもどこにあるのか、すぐにはわからない。さほど大きな樹(き)ではないから、民家の塀や立ち木の向こうに隠れてしまう。風に乗って流れてくる甘い香りが、束(つか)の間、ふわりと鼻腔(びこう)をくすぐっていくだけ。

 その時も同じだった。あたりを見まわしてみたのだが、金木犀の樹を見つけることはできなかった。甘ったるい香りだけが、いつまでもあとをつけてきた。幸福な秋のひとときだった。

 夫が発病する前々年、地元のホームセンターで金木犀の鉢植えが売られているのを見つけた。平均気温の低い森の中ではなかなか育たないとわかっていたが、買い求め、庭の日当たりのいい場所に置き、冬場は室内に移して大切に管理した。

 小さな金木犀は一度も花をつけないまま、夫の死後、鉢の中で静かに枯れていった。(作家)=朝日新聞土曜別刷り「be」2020年10月3日掲載

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  小池真理子さんのエッセー「月夜の森の梟」は2020年6月から翌年6月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載された。2020年1月に死去した夫であり、作家の藤田宜永さんをしのぶとともに、哀しみを通して人間存在の本質を問う内容には大きな反響があった。便箋10枚、20枚といった手紙が届き、メールを含めれば千通近いメッセージが寄せられていた。11月に連載をまとめた単行本『月夜の森の梟』(朝日新聞出版)が刊行されるのを前に、追悼を文学に高めたと評されたエッセーの一部を紹介するとともに、その魅力を探っていく。
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「月夜の森の梟」は朝日新聞デジタルで全50回を読むことができます。