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老年期と思春期に違いはない 小池真理子

え・横山智子

 夫に残された時間がわずかになったと知り、或る晩、私は彼の高校時代からの友人A氏に電話をかけた。

 壮年期はそれぞれ仕事に全力投球し、疎遠になったり、近づき合ったり。男同士、互いに妙な自意識の火花を散らしつつ、こまめに連絡することも稀だったが、いざとなれば誰よりも理屈抜きで信頼し合える。二人はそんな間柄だった。

 A氏はむろん、夫の病気の詳細を知っていたが、まさかそれほどのことになっているとは思っていなかったらしい。私の報告を聞いたとたん、電話口で絶句した。声を押し殺して泣き始めた。冬の夜のしじまの中、私たちは互いに言葉を失ったまま、しばし、むせび泣いた。

 夫と同年齢で、昨年古希を迎えたA氏と、先日、久しぶりに電話で話した。

 長く生きてきて、嵐のような出来事の数々をくぐり抜け、突っ走り、おかげで厄介な持病も抱えこんだ。しかし、別に後悔はしていない。とりたてて趣味もない仕事人間だったが、総じてよき人生だったと考え、このまま穏やかにフェイドアウトしていくはずだったのが、思いがけず、十五のころから親しくしてきた友を亡くした。しかもその直後、コロナに見舞われ、残された時間を漠とした不安と共に生きざるを得なくなった。いろいろな意味で、僕にとって藤田の死は、あまりにも大きかった、あれからすべてが変わってしまったように感じる……独り語りでもするかのように、彼は私にそう言った。

 若いころ私は、人は老いるにしたがって、いろいろなことが楽になっていくに違いない、と思っていた。のどかな春の日の午後、公園のベンチに座り、ぼんやりと遠くを眺めている老人は、皆、人生を超越し、達観しているのだろう、と信じていた。ささくれ立ってやまなかった感情は和らぎ、物静かな諦めが心身を解放し、人生は総じて、優しい夕暮れの光のようなヴェールに包まれているのだろう、と。

 だが、それはとんでもない誤解であった。老年期と思春期の、いったいどこに違いがあろうか。生命の輝きも哀しみも不安も、希望も絶望も、研ぎ澄まされてやまない感覚をもてあましながら生きる人々にとっては同じである。老年期の落ち着きは、たぶん、ほとんどの場合、見せかけのものに過ぎず、たいていの人は心の中で、思春期だった時と変わらぬ、どうにもしがたい感受性と日々、闘って生きている。

 ここのところ、風の強い日が増えた。山から森に吹き降りてくる風は、ごうごうと凄(すさ)まじい音をたてながら、まだ芽吹きを迎えていない樹々の梢を大きく揺らして去っていく。

 ミソサザイの鈴のような美しい声音が四方八方から聞こえる。振り仰げば、雲ひとつない群青色の空。あまりに青く眩しくて、どこまでが夢でどこまでがうつつなのか、わからなくなる。(作家)=朝日新聞土曜別刷り「be」2021年4月3日掲載

    ◇
  小池真理子さんのエッセー「月夜の森の梟」は2020年6月から翌年6月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載された。2020年1月に死去した夫であり、作家の藤田宜永さんをしのぶとともに、哀しみを通して人間存在の本質を問う内容には大きな反響があった。便箋10枚、20枚といった手紙が届き、メールを含めれば千通近いメッセージが寄せられていた。11月5日に連載をまとめた単行本『月夜の森の梟』(朝日新聞出版)が刊行されるのにあわせ、追悼を文学に高めたと評されたエッセーの一部を紹介するとともに、その魅力を探る。