人はなぜ小説という作り話を読むのだろう。それを時事と論じあわせる文芸時評とはなんだろう。秦邦生編『ジョージ・オーウェル「一九八四年」を読む』(水声社)に、イタリアの作家カルヴィーノのこんな言葉がある。「時事問題のたぐいは月並で不愉快なものかもしれないけれど」「自分がどこに立っているかを、わからせてはくれる」。続けて、古典と時事問題の関係が定義される。「時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である」。裏返せば、「時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが、古典だ」(須賀敦子訳)。
「古典」を小説全般と捉えれば、小説を読む際には時事など控えめなBGMにしておけばいいのに、文芸時評というのは、「そういう問題が社会でも起きています!」と、読者の耳元で不粋(ぶすい)にがなりたてる所がある。あくまで作品の声を聴きつつ、時には窓外の喧騒(けんそう)にも耳を傾けたい。
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中島京子『やさしい猫』(中央公論新社)は、外国人の人権や入管制度の問題改善を訴える作者の思いがうかがえる小説だ。時事的な論点が多く提起されているが、作者ならではの視点の細やかさ、プロットの鮮やかさも存分に堪能したい。東北の被災地で出会った30代シングルマザーの「ミユキさん」と、自動車整備士で8歳年下のスリランカ人男性「クマ(クマラ)さん」の物語が、読者の知らない「きみ」に語りかける形で綴(つづ)られる。
2人の再会から結婚話がまとまるまで、4年ほどの歳月が費やされ、その進みゆきを、作者は日々の小さな出来事に繊細な光を当てながら描いていく。だが、物語半ばで、このささやかな幸せは突然崩れ去る。クマさんが入管施設へ収容されてしまうのだ。先ごろ施設で亡くなったウィシュマさんを思わせる非道な状況も明かされ、後半は一転、法廷小説のような様相も呈する。
その過程において前半で語られたよしなしごとが全て由々しさをもち、有利・不利な証拠として働く。「やさしい猫」とは改心した猫にまつわるスリランカの民話だが、読者はこの小説自体が「気づき」と認識の反転の物語だと思い至るだろう。
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文芸誌では、やはり語りに仕掛けのある乗代雄介「皆のあらばしり」(新潮10月号)が、ユニークさで目を惹(ひ)いた。著者の先行作『本物の読書家』などと地続きの感もある。
小津安二郎の先祖筋に、小津久足という江戸後期の文人がいる。知る人ぞ知るこの人物の稀覯(きこう)本を巡る謎ときを中心に据えているが、作中人物は歴史研究部員の高校生男子(語り手)と、どこからか現れた大阪弁の男性のほぼ2人で、全編が主に彼らの対話から成る。場面の多くは栃木市の皆川城址(じょうし)に設定され、シチュエーション限定の演劇を観(み)ているような読み心地があった。
基本的に現代のリアリズム小説では、人物が登場退場するには文脈説明が求められるが、本作では、気づけば2人はそこにいて、歴史談義の真っ最中だ。その議論の緊密さとスリルに幻惑され、男の正体も調査目的も不明のまま、話に聴き入ってしまう。前作『旅する練習』に続き本作でも、「書く」という行為に内在する時間的な遡行(そこう)あるいは遅延が、作品成立の根底にある。
ここで鍵となるのが、江戸の「文人ネットワークの外」に生きた人物だ。著者は知の深い洞窟の口が突如ひらく瞬間を描いてきたが、この高校生もその口に吸いこまれていく。「知る」ことへの彼らの原動力はなにか。「世の中、もっとおもろないと困るやろ」と男は言うが、SNSウケを狙った写真の一つも撮るわけではない。それは、人々の注目度(「いいね!」)を重視しアルゴリズムに縛られたネット空間の価値観では測れない渇望だ。実在さえ不確かな希書を追うこの幻のような時間を2人と共有することこそ、私には本物の読書体験となり得た。
語りの構造の巧緻(こうち)さでは、ペーター・テリン『身内のよんどころない事情により』(長山さき訳、新潮社)が極めつきの傑作だ。ある男性作家が、自分そっくりの家族と隣人をもつ作家Tを小説に書き、国際的評価を得るが、作者としてある罪に直面する。死後に伝記を書かれることを怖(おそ)れるTと彼の人生が交錯する第一部、作者の手記の第二部、伝記作家の視点で或(あ)る事実が明かされる第三部。蔓(つる)の絡まるような語り、これぞオランダ語文学!=朝日新聞2021年9月29日掲載