世界550万部の大ベストセラー
——2019年秋にイギリスで出版されてから、またたく間に世界的ベストセラーとなったアート絵本、“THE BOY, THE MOLE, THE FOX AND THE HORSE”。詩情あふれるイラストに彩られた、少年と動物たちの静かな対話は、コロナ禍のなかで人々の心を揺さぶり、本国では「ハリー・ポッター」シリーズに次ぎ史上2番目に売れた本となった。2021年には『ぼく モグラ キツネ 馬』(飛鳥新社)として邦訳され、大きな話題に。日本でも22万部超と版を重ね続ける本書の翻訳を手がけたのは、数々の映画を作りながら、作家としても活躍する川村元気さんだ。
初めて原書を読んだときに感じたのは、絵とことば、そして手描きの文字のすばらしさ。これらの美しさを日本版でも再現できれば、きっと多くの人の心に届くだろうと確信しました。この1年で、日本の読者の間に本書の魅力がじわじわと広がり、版を重ねることができたことを感慨深く思います。
もともとは、イギリス在住のイラストレーター、チャーリー・マッケジーさんがInstagramにアップしたイラストがきっかけとなって生まれた絵本であり、主人公の少年が、モグラ、キツネ、馬と旅をしながら対話を重ねてゆくという、冒険映画のような構成。チャーリーさんが「まえがき」でも書かれているように、本書が面白いのは、「いつでもどこでも、どこから読んでもらってもかまわない」ところです。ある種の“オープンワールド”的な絵本なんですよね。
読書ってどうしても「最初から最後までちゃんと読まなければいけない」堅苦しさ、みたいなものが付いてまわると思うんですが、この絵本はパッと自分の好きなページをめくって、絵とことばを眺めているだけでもいい。もちろん、頭から通して読んでも、一つの物語として完成されていて感動できる。そういう多様な読み方ができる“懐の深さ”こそが、世界中の読者から支持された理由の一つではないでしょうか。
日本版の出版当初を振り返ると、最初に連絡をくれたのは、とある彫刻家の方だったんですよ。その方は60代ですが、「読んですごく泣いちゃったよ、馬の絵が素晴らしい!」とアツい感想をくださって。他にも「すごくいい本だな、と思って翻訳者の名前を見たら、川村さんだったからびっくり!」とか「夜中に号泣しました」とか、仕事をしたことのある音楽家や俳優たちからも久しぶりに連絡がきたりしました。
仕事柄、ものづくりに携わり、何かを表現する人たちがまわりに多いですが、そうした創造力のあるクリエイターの心に響いたということが、素直にうれしかったですね。「親子で一緒に読んでいます」という感想もよく聞きますし、「8歳から80歳まで、だれでも楽しめる」という原作のチャーリーさんのことば通り、幅広い層の読者に受け入れられているという実感があります。
原作者の“Voice”を伝える
——本書が初の翻訳作品となった川村さん。最後まで調整を重ねたのは、漢字とカタカナ、ひらがなのバランスをはじめ、物語を貫く原作者の声——“Voice”をどう翻訳で表現するかということだったという。
昔からタイポグラフィー(活字の書体やデザイン)が好きなんですが、本書はアーティスティックな手描き文字も魅力の一つ。書家の島野真希さんが、原作の雰囲気を生かしつつ、見事に日本版オリジナルの良さを表現してくださいました。
ぼく自身がこだわったのは、デザインとして見たときの漢字、カタカナ、ひらがなの組み合わせ方。何を漢字やひらがなにして、何をカタカナにするかで世界の見え方がまったく変わってくる。「世界」ということばだって、ひらがなで「せかい」と書くのと、カタカナで「セカイ」と書くのでは、まるで印象が違いますよね。日本の文字独特の多様性は「まったく個性の違うキャラクターたちとどう共存するか」というこの本のテーマともリンクするのではないか、と気付いて、タイトルも『ぼく、モグラ、キツネ、馬』と、ひらがな、カタカナ、漢字が入り混じったものになりました。
苦心したのは、作者のチャーリーさんの“Voice”をどう日本語で伝えるか、ということですね。ぼくの初めての小説である『世界から猫が消えたなら』(小学館文庫)が英米で出版されることになったとき、詩人であり作家でもあるエリック・セランドさんが翻訳してくださったのですが、彼が言った「あなたの“Voice”を訳します」ということばが今でも心に残っていて。日本語でいうと「文体」ということになりますが、「Voice=声」という捉え方のほうが、自分にとっては、しっくりきたんです。
そうした経験もあって、作者のチャーリーさんの“Voice”はどんな感じなんだろう?と考えるところから、作業をスタートしました。チャーリーさんのインタビューや「まえがき」を読んでいると、彼は結構おちゃめというか、稚気あふれるタイプなんですよね。原作では主人公に“the boy”という三人称が使われていますが、「少年は……」という日本語訳だと、堅くてチャーリーさんらしくないな、と直感しました。
三人称から一人称に変えようと思いつきましたが、英語の“I”を日本語に変換すると、ぼく、私、オイラ、俺、わし……いろいろな表現が考えられるわけです。そこで、「少年」を「ぼく」、モグラは「オイラ」、キツネは「オレ」、馬は「わたし」にしてみると、それだけでそれぞれの個性が自然と浮かび上がってくる。ぼくのなかでは、モグラは小さな子ども、キツネは思春期の少年少女、馬は自立した大人のイメージ。自分と他者とを明確に区別する英語に比べると、日本語には「他者との境界の曖昧さ」がありますが、この物語に登場するモグラ、キツネ、馬は、「ぼく」というひとりの人間のなかに存在する多様性の象徴のようにも感じられます。
無意識のうちに影響されているのは、谷川俊太郎さんが海外の絵本を翻訳されるときの視点かもしれません。子どものころは、谷川さんが翻訳したレオ・レオニ作の絵本が大好きでしたが、読むと本当に子どもや動物たちの目線で世界を眺めている感覚を味わうことができる。ぼくは映像畑の人間でもあるので、文章を書くときは常に「カメラの高さ」を意識しているんですね。この物語の「少年の目線」にカメラが付いたなら世界はどう見えるのかというところから、一つずつことばを選んでいきました。
この世界をおもしろがろう
——イギリス児童文学の伝統的な「子どもと動物によるファンタジー」の系譜に連なるともいえる本書だが、川村さんはミルンの『くまのプーさん』などが持つのどかさとは異なった「時代の雰囲気」についても指摘する。
スマホやSNSのおかげで、大勢の人と大量のことばを使ってコミュニケーションが取れるようになったけれど、こんなに人間同士が分かり合えずに分断されている時代もないですよね。他人からのことばを、素直に受け取れなくなっている。本書を訳しながら、同じことばでも動物たちからのものであれば、耳を傾けることができるのではと思いました。
『くまのプーさん』はぼくもとても好きな作品ですが、時代が変わって「プーとその仲間たち」のような屈託のなさが失われてしまった今、この物語の登場人物たちの発言にも、それぞれが持つ傷のようなものが感じられます。たとえば、後半で登場する「馬」がこれまでに発した「いちばんゆうかんなことば」は、「たすけて」というひと言。「自立した大人」のイメージである馬が、自らの弱さをさらけ出す。この時代の“迷える大人”の象徴でもあるのではと。
ぼくが気に入っているのは、作者の「ティーカップの跡」がついたページ。チャーリーさんが紅茶を飲みながら原稿を描いていて、ティーカップを置いたら跡が付いてしまったので、それを月に見立ててみたというシーンです。仕事でも人生でも、うまくいかないことは必ずありますが、このページは「トラブルやミス、バグみたいなものこそ、面白さに変えられるのだ」ということをぼくたちに教えてくれる。一般的に考えたら「失敗」であるティーカップの跡が、逆にこの本の“エクボ”に見える。今の世の中では、「一度でも失敗したらおしまいだ」といった切迫感や、ちょっとしたミスも許されないような空気がありますが、そうした息苦しさをこのページが救ってくれるような気がしています。
そして、見開きの次のページのことばは、“Be curious”。ぼくは「この世界をおもしろがろう」と訳しました。自分のことも“we”で捉える日本語では、世界というものは私であり、あなたであり、あなたたちでもある。自分と他人を含めた世界を丸ごと楽しもうよ、という気持ちを込めました。
家にずっと引きこもって翻訳している間に、世界がどんどん「コロナ一色」に変わっていったんですよ。友人にも会えないし、旅行にも行けない。あの時期に感じていたなんともいえない閉塞感は、翻訳にもかなり影響していると思います。「この世界をおもしろがろう」という訳文は、自分がかけられたかったことばなのかもしれません。「今の気分」をとても反映している本書ですが、50年後も100年後も読み継がれるような普遍的なメッセージが込められていると思っています。