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感情に歴史あり 社会の変化映し、行動に影響 東京外国語大学准教授・伊東剛史

仏政府が進める事実上の新型コロナワクチン接種強制に反対を叫ぶ男性=8日、パリ、ロイター

 様々な学問分野で感情をテーマとする研究が盛んである。脳科学や心理学においてだけでなく、歴史学においてもそうである。はたして、どのような意味において、感情にも歴史があると言えるのだろうか。

 「孤独」をとりあげて考えてみよう。孤立することを恐れ、独りであることを淋(さび)しいと感じるのは、時代を超えて人類に共通する感情のように思われる。人が群れをつくる動物から進化したからかもしれない。

 しかし、今わたしたちが孤独と表現する感情の正体は、都市化と世俗化、個人主義の台頭と価値観の多様化、大衆消費社会の形成と社会的流動性の高まりといった、いくつもの変化を経て誕生したものである。さらに主体的な経験としての孤独には、その言葉の定義からはみ出てしまう、本人にしか語りえない意味がある。それが生きられた孤独の歴史となる。

神経科学も参照

 歴史学の洞察に根ざして感情を理解する試みが、ひとつの学問的潮流をつくった背景には、アメリカ同時多発テロがもたらした知の地殻変動がある。『感情史の始まり』が論じるように、ヨーロッパ啓蒙(けいもう)以降の理性的人間像が崩壊する一方、感情がどのようにして意思決定や行動に影響をおよぼすのかが、改めて問われるようになった。

 研究の進展が目覚ましい神経科学も、感情が認知や意思決定の過程を構成していることを示す。しかし、感情史は神経科学の成果を取り込みながら、同時にそれを歴史的な視点から相対化する。「基本感情説」など特定の学説が感情の理解を一元化し、ひいては感情経験や感情表現の多様性が失われる可能性に警鐘を鳴らすのである。

 感情史の出発点は、フランス歴史学のアナール派を生んだリュシアン・フェーヴルが、ナチス・ドイツのフランス侵攻後に発表した論文「感性と歴史 往時の感情生活をどのように再構成するか」であった。フェーヴルが唱えた愛や死や喜びの歴史、憐憫(れんびん)と残酷の歴史は、次世代の課題として受け継がれた。

 『感情の歴史』全3巻は、そのアナール派による感情史研究の集大成である。かつて心性史は、近代以前の社会の深層にある考え方や感じ方の様式を探求した。それに対し本書は、古代から現代まで見渡し、日常生活の中の感性や感覚から、戦争など極限的状況下のダイナミックな感情経験まで、多岐にわたるテーマを体系的に論じる。仏語圏外の研究者も寄稿しており、感情史が国際的な研究交流を促進してきたことが窺(うかが)える。

西洋の外側に目

 『怒りの人類史』は、アカデミアの枠を超えて感情史の意義と可能性を示そうとする。西洋社会は良い怒りと悪い怒りを区別し、怒りを正当化する論理を追求してきた。本書はそこに、怒りは捨てるべきだと諭す仏教を対置することで、伝統的な西洋世界の外側にある価値観や規範に目を向ける。

 その着想は、現代アメリカで生まれたアンガーマネジメント(怒りの感情との向き合い方)から得られたものだろう。その意味では、本書は怒りにとらわれたアメリカ社会における、現在進行形の感情史として読み解くこともできる。

 動物にも感情があると認められ、人工知能に感情を実装する研究が進む今日、人の人たる所以(ゆえん)が感情にあるとは言い難い。人はなぜ感情にとらわれ、その正体を知りたいと欲するのか。その営みはどのような人間像や社会像を描き出し、向かうべき未来への選択肢を開いて(あるいは閉ざして)きたのか。

 感情史はこれらの問いに簡単な答えを用意してはいない。ひとりひとりが考えぬくよう促すのである。=朝日新聞2022年1月29日掲載