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父権社会の強圧 子どもを産む、選択の背後に 翻訳家・文芸評論家・鴻巣友季子〈朝日新聞文芸時評22年1月〉

青木野枝 亀池・蓮池7

 出産に関する自己決定権「リプロダクティブ・ライツ」を最近よく耳にする。「子どもを産むか産まないか、いつ、何人産むかを当人が決める自由」を保障するこの権利は、四半世紀も前に国際会議で合意がなされたが、未(いま)だに日本では「結婚して子どもを」という圧力が政治家の発言などにも透けて見え、緊急避妊薬などの入手もハードルが高い。

 米国ではいくつかの州で近年、憲法違反との声もある妊娠中絶禁止法が成立し、しかもテキサス州では同州法の当面の存続を先月最高裁が認める形となり、波紋を呼んでいる。性と生殖をめぐっては、保守とリベラルの一部が先鋭化し、分断がより顕著になっているようだ。

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 そうした今、ポーラ・ヴォーゲルの戯曲「ミネオラ・ツインズ」(徐賀世子訳)が藤田俊太郎の演出で上演され、邦訳書(小鳥遊書房)も出たことは大変意義深い。

 1950年代、NY州の保守的な町に暮らす双子の姉妹――良妻賢母を夢見る「良い子」マーナと、バイセクシュアルで子どもは作らないと宣言する「悪い子」マイラは、冷戦、ベトナム反戦運動、性改革の波に揉(も)まれ、各々(おのおの)の思想と活動を過激化させていく。この対立を決定化するのが妊娠中絶への是非なのである。なぜマーナは中絶クリニックの爆破を企てるまでになったのか。つきつめれば姉妹を真っ二つにしたのは、「女は子どもを産み、家を守る」という父権社会からの強圧ではないか。2人の絆が投射されるラストは実に示唆的だ。9・11やトランプ政権以前に発表された作品だが、まさに「今」が書かれている。

 生殖倫理を根源から問う李琴峰の『生を祝う』(朝日新聞出版)にも姉妹の対立構図があり、爆破テロが起きる。本作で「生の自己決定権」を有するのは産む側ではなく生まれる側だ。胎児に生誕後の「生存難易度」を数字で伝えて、出生意思を確認する「合意出生制度」が法制化された近未来。胎児の意思に反して出産すれば、出生強制罪として子が親を訴えることにもなるのだ。

 同性婚をした主人公は人工妊娠手術で子を宿す。親の勝手な「産意」は「殺意」と同様、他者への支配欲の発露と考える彼女に対し、姉はこの制度に強く反対。出生拒否された経験があり、夫の「次を作ろう」という言葉や立ち直りの早さに傷つき、生の自己決定権という「圧倒的な正しさ」の下で苦しんできた。

 人の一生は数値化できるのか? 本当の自由意思とは何か? 作者の本意は何かへの批判を打ちだすことではなく、複声をぶつけあい人の「迷い」を描くことだと思った。それを成し得て新境地を拓(ひら)いた。

 産む器官を持たない側はどんな思いでいるだろう。不妊治療の日々を夫の一人称視点で描いたのが、オランダ作家ロベルト・ヴェラーヘンの『アントワネット』(國森由美子訳、集英社)だ。2段階の治療と民間療法で結果が出なかった数年間。隣人には赤子が生まれ、友人は無神経な質問をしてくる。

 夫が何か言えば「男の言い分」だと返されてしまう。彼は自分の「役割」に拘(こだわ)るあまり、感情を失っていき、一人でくしゃみをした時、疲れ切って歯止めが利かなくなった時だけ涙が襲ってくるという。彼はやがて、“子宝”こそ幸せと妻に思いこませた「女性に課せられた典型的な役割、それを日常的に刷りこんだ広告画像の数々、彼女の育てられ方、彼女の遺伝子」を呪うようになる。冒頭に仕掛けられた控えめな叙述トリックとその意味が最後にわかるとき、夫の薄らとした狂気が全編を包み、傷が深々と実感される。

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 産むと決めたのは本人でも、その選択の背後には各共同体の因習があり、その方が国際会議で合意された「権利」より重いのだ。だからフェミニズムは女性を縛りつけ家族の世話を強いる母性神話の解体に勤(いそ)しんできたが、近年ケアの倫理が見直されている。「母」=女性でなく、「母」=「弱い者をケアし守る者」と位置づけ再考するのが、『マザリング』(集英社)の著者中村佑子だ。中村と社会学者元橋利恵による対談「自明視され/タブー視されてきた母を、今あえて語る」(すばる2月号)では、両者とも母性を論じるのに「戦略的」という語を使い、男性中心社会が築いてきた新自由主義の自己責任論や資本主義のメリトクラシーによる価値構造に抗して、「母的」思考の再評価を促す。非常に建設的な対話だった。=朝日新聞2022年1月26日掲載