その日は雲がぎゅうぎゅうに詰まった、窮屈な朝だった。
変わらない、朝。
鳥の声は私にとってはやかましいアラームに過ぎない。
40歳を迎えた私には、朝の時間は清々しいものではなくなってきている。
携帯電話には、会社の部下から仕事の連絡が2通。
なんとも目の通しがいがない。
SNSを一通りチェックするのも朝のお決まりだ。
大切な仲間には♡いいねを必ず押す。
寝息に耳が気付き、振り向くと、隣の枕に私の彼氏。
よだれをたらしながらまだ夢の中にいるようだ。
ピチピチに弾けた肌、毛穴ひとつない鼻、見れば見るほど羨ましい。
そりゃ仕方ない、私と18歳も違うのだから。
こんな私に、22歳の彼氏がいる。
周りはそんな私をこれぞというほど、羨む。
乾燥で今にも火花が散りそうな長い絡まる髪の毛をむしゃくしゃにまとめながら、1階へと降りる。
決まった手つきで、テレビをつける。
日付は、9月6日の火曜日、朝の7:03。
あと1時間後に、私のほんとうの朝が始まる。
ここからが自分との戦い。
1時間後。
辺りは、コーヒー豆の香りが温かな湯気と共に部屋を舞う。
さっきまでとは鬼と女神との差があるほど、髪の毛は巻き髪ポニーテール。
メイクもバッチリだ。
おまけは、爽やかな朝を演出する薄付きのブルーベリーの香水。
これで、私の完成。
「おはよう」
先に降りて来たのは、私の彼氏。
曲がり気のない直毛が楽しそうに階段を下るリズムで彼の頭で踊る。
寝癖のつかない艶やかな黒髪が、私の目を奪う。
顔を洗っていなくても水々しい肌が朝のリビングを照らすようだ。
「相変わらず、朝からかわいいね」
まるで、自分が男かと思うような発言も、今じゃなんのためらいもなく出てしまう。
「ははっ、あぁ〜まだ眠いよ」
「ほら! 今日もお仕事がんばって!」
そういうと、食卓に座った彼に後ろから抱きついてエールを送る。
彼が私の頬に優しくキスをする。
フワッと肌から自然に香る赤ちゃんみたいな香りに、私の肌に乗せたブルーベリー香水はたじたじだ。
彼は、22歳にしてゲーム会社のエース。
イケメンで頭がよく、会社からはかなり大切にされている。
「あら、かずや、おはよっ!」
「おはよ! ママ」
かずやは、私と元夫の間に生まれた一人息子。
17歳の高校2年生。
ママっ子で、私が大好き。
「お、かずやおはよ! 今日はどんな予定?」
私の彼が息子に話かける。
「今日は学校おわったら、友達とラングドイルのライブいくんだー」
「おーいま流行りの8人バンドか? へぇいいね! 感想教えてね」
二人はまるで、親子・・・・・・ではなく、兄弟のよう。
仕方がない、息子と彼のが遥かに歳が近いのだから。
私は二人の兄弟のような無邪気な会話をいつもこの対面キッチンの中からコーヒー片手に聴いている。
拙いラジオのように。
〜♪
「ってことでママ、今日は晩飯いらないから!」
「ん、あっ?」
たちまちコーヒーの香りと二人の会話で世界を抜けていた自分は我にかえる。
「ああ、わかった。気をつけてね? お友達によろしく伝えてね!」
「みさこ〜、鈍感だなぁ。お友達じゃなくて、カ・ノ・ジョ・だろ!」
「いや、ちげーし!!! 変なこと言うな!」
「お、顔あけぇ〜!! 照れるなって!」
息子に、彼女か。
そういや考えてもいなかった。
「やだ! そうか、ごめんかずや! 彼女さんと楽しんでらっしゃいね♪」
「ママまでやめろー! じゃ、学校いってきます」
息子は顔を桃みたいにして、バタバタと出て行った。
「いってらっしゃーい!」
玄関から息子を見送る変わらぬ日々。
あんなに窮屈だった雲は撤退し、青い色をした空が私に挨拶した。
「今日も秋晴れね〜! よし! 洗濯しよ」
「じゃあ、みさちゃん行ってくるねっ♪」
後ろから、肩に顎を乗せて甘える彼。
なんて無邪気で可愛いのだろう。
邪魔されたくない、朝のかけがえのない癒しのひととき。
「みさちゃんもお仕事頑張ってね! 今日は夜ご飯、かずやいないから久々に二人だねー! 久しぶりに外食でもしようか?」
「あ、いいねぇ。かずや遅いし、じゃあいつものトルラに19時は?」
「お、もんじゃのトルラか! いいね。じゃあ夜ね」
そう言うと、彼は私の唇にあったかいキスをして出て行った。
まるで、初恋のように胸が弾ける。
何度も何度も、子犬のように振り向いて私に手を振る。
今にも電信柱に邪魔されそうだ。
「バカだな〜、あぶないつーの」
私は笑い混じりのため息をつく。
誰もいなくなった玄関から部屋を見ると、私の理想がここには詰まっている。
広い玄関、お気に入りの絵、ピカピカに明るいリビング、壁には去年の夏、息子と彼と3人で行ったオーストラリアの記念写真。
何度見ても、こだわり抜いた私の一軒家だ。
私は鼻歌を飛ばしながら、洗濯や食器の後片付けを風のように済ませる。
夜のデートに向けて、お気に入りの赤いセットアップを合わせる。
「よし」
鏡に映る私は、自分が見ても幸せそうだ。
ベージュピンクの優しい口紅が、幸せの色をはりきって表現しているようだ。
私は家を出た。
私は、大手出版社で働いている。
コスメや最新ファッションや雑貨、家電などありとあらゆる角度を、いち早くお届けする日本一の雑誌"Pepula"(ペプラ)の編集長が私。
誰が見ても憧れる、存在。
唯一の黒幕、"離婚"という二文字さえも、私に背負わせればなんだか経験豊富にみえてより一層かっこいいんだって周りは言う。
ヒールを鳴らし、会社のエレベーターに乗る。
「編集長、おはようございます!」
「おはようございます! ステキなお洋服ですね、お似合いです」
「編集長、あとでお話よろしいですか?」
会社に着くなり、信頼感抜群な私は声をかけられずに席に着くことは、もはや不可能。
時間も、空間も、みんな私の味方に見える。
お昼休憩は、仲良しの部下6人を連れて最近できた評判のオシャレカフェへ下見も兼ねて行った。
「編集長、そのバッグ、ルルシャの新作ですか?」
「あぁ、そう、一目惚れしちゃってさ」
「わぁ、めちゃくちゃ可愛いです。それなかなか店舗でもお見かけしないデザインなんですよね〜。いいなぁ」
「らしいね。なんか日本で5?とか4つ?くらいしかないみたい。もうそんなこと言われちゃ買わない理由見失うでしょ?」
「さっすがー!」
注目されるであろう物は、注目される前に自分の物にするのも、私にとって大切な意気込み。
テラスで開かれる日本一イケてるランチは、ここに違いない。
携帯電話片手にSNSに流れてくる写真で、より一層自分の存在にホッとする。
"よし、これで今日の私よりイケてるランチしてる人はいない"って。
午後も太陽のいるうちに、みんな仕事を済ませていく。
あっという間に、時計を見ると18:30を過ぎていた。
「あ! やばい、ご飯までもう30分だ。じゃあお先ー!」
私は必要書類をお気に入りのファイルに入れ、ルルシャのバッグにいさぎよくつっこむ。
高級なバッグを荒く使うのは、朝飯前だ。
「今日も夕ご飯作りですか? えらいなぁ」
部下が隙間なく話してくる。
「ううん、今日はかずやがデートだから、私も彼とデート♡」
「でたあ! あのイケメン彼氏さんだ! わぁすてきー。ほんと三枝編集長の生き方、憧れます〜」
耳にはしっかり入ってきた。
頭で笑うと、聞こえないふりをしてバタバタと出ていった。
エレベーターで、改めて自分の身なりを整える。
口紅を塗り直し、香水を放ち、髪を下ろす。
綺麗に整った、自分の顔の部位たちにお礼を胸でささやきながら、待ち合わせ場所に向かった。
時刻は19:08。
「過ぎちゃったぁ〜。先着いてるかな?」
私は慌てて予約名を言うが、彼はいない。
「あれ〜? いつも18時には終わってるはずなのに。しかもメールも来てない」
私は待った。
1時間も、2時間も。
時計を見ると、21:23。
肌寒い風が私を包みだした。
私が送ったメールは36件。
電話は18回にもなっていた。
「なんで? なんで、電話もメールも見ないわけ?!」
完璧な今日を送るはずだったのに。
こんな予想外な出来事が許せなかった。
周りの通りすがりの人々からは、心配そうな視線を感じる。
「んんああ!」
私は崩された1日に我慢できず、早足で家に向かった。
着いた家には誰もいない。
「かずやもまだなの?」
私は冷たい手で携帯電話を操作する。
"かずや、何時に帰る?"
そう送って待った。
私の携帯が、鳴ることはなかった。
ふと、心配になり私はテレビをつける。
よる11時のテレビはニュースばかりでつまらない。
携帯電話でSNSをチェックしていると、耳に聞き馴染みのある言葉が入ってきた。
「速報です。今日の夕方、タクシーと乗用車の正面衝突事故が発生しました。タクシー運転手1名、乗客1名が死亡しました。なお、乗用車の運転手は車から逃亡した模様です。ひき逃げ事件として警察は調べを進めています。では、現場から中継です」
「こちら、井戸沼通りと川須賀通りが交差する信号で、夕方頃大きな事故がありました。乗客の美濃川ゆうきさん22歳は座骨を強打し、死亡。運転手の永見ひさゆきさん78歳は鎖骨が腹部に刺さり急死となりました。なお現在、ひき逃げの疑いがあるため警察は・・・・・・」
ぴたりと身体が止まった。
ちゃんと目で確認したいのに震えて動かない。
"美濃川ゆうき"
彼の名前に間違いない。
22歳という年齢も。
確かに、私たちが今日待ち合わせ場所にしていたお店に向かうための道路の名前も間違ってない。
全てのピースが揃っているのに、怖くて目が上がらない。
私は、テレビを消したんだ。
息子は連絡が通じないまま。
待っても待っても帰ってくることはなかった。
私を同時に襲う悲劇に頭は動くことをやめた。
どうして?
朝は、あんなに明るかったのに。
毎日があんなに輝いていたのに、どうして?
私の人生ってなに?
瞼が閉じていく。
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その日は雲がぎゅうぎゅうに詰まった、窮屈な朝だった。
変わらない、朝。
鳥の声は私にとってはやかましいアラームに過ぎない。
40歳を迎えた私には、朝の時間は清々しいものではなくなってきている。
携帯電話には、会社の部下から仕事の連絡が2通。
なんとも目の通しがいがない。
ん? 何かがおかしい。
これ、昨日の私?
私は、機敏に振り向いた。
そこには、昨日の彼がいた。
え?
そう、よだれを垂らしまだ夢の中にいる彼だ。
昨日が私の夢?
今が現実なの?
彼の死亡事故は?
私は乾燥で今にも火花が散りそうな長い絡まる髪の毛をむしゃくしゃにまとめながら、1階へと降りる。
そして、テレビをつけた。
日付は、9月6日の火曜日、朝7:03。
私は昨日にいる。
全く同じ情報がテレビではまるで初出しのような素振りで流れていく。
私は息子の部屋へ向かった。
ドアを勢いよく開けると、息子がいない。
え? やっぱり、現実?
私は冷や汗が身体の毛穴がある場所全てから止まらなかった。
慌てる身体、心拍の速さにおいつかない呼吸。
いっそのこと、息が止まって欲しいくらい。
私は整わない呼吸のままリビングへ戻った。
バタン
ドアを開けると、そこには息子と彼が昨日と同じ向かい合わせでライブの話をしている。
「今日は学校おわったら、友達とラングドイルのライブいくんだー」
「おーいま流行りの8人バンドか? へぇいいね! 感想教えてね」
耳が知っているこの会話。
続け様に聞こえてくる会話。
「ああ、わかった。気をつけてね? お友達によろしく伝えてね!」
「みさこ〜、鈍感だなぁ。お友達じゃなくて、カ・ノ・ジョ・だろ!」
「いや、ちげーし!!! 変なこと言うな!」
「お、顔あけぇ〜!! 照れるなって!」
私の身体は、冷や汗から鳥肌に変身した。
足がどうも震える。
だって、台所にこの私がいるのだから。
笑って、当たり前のように会話にはいっている。
じゃあ、私は?
これが夢?
私の頭の中の思考経験にこんなことを考えられる部屋はない。
心はこんなに私であるのに、息子も彼も見ているのは台所のキラキラした私。
この私は、まるで色のない私のよう。
胸が苦しい。
辛い。
私の幸せで、誰にも取られたくない時間だったのに。
意識が薄らぐ。
目の前に霧がかかり、みんなの笑顔が遠く薄く溶けていくように――。
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どれほどの時間がたったのだろう。
目を開けると、水にシミをつけられた天井が見える。
すごく嫌な柄。
でもなぜか、驚かない。
昔から知ってるような部屋。
身体を起こすと、時計は3:00をさしている。
一体、昼なのか夜中なのかもわからない。
窓には、光を一瞬たりとも仲間にしない分厚いカーテンがやっつけのように垂れ下がっている。
「あ、お目覚めですか?」
「え?」
背中の方から朝の鳥みたいな声が聞こえてくる。
高い。
耳が嫌がる。
でもなんだか瞬発力がでずに布団に佇む。
お茶をいれる音が聞こえると、足音が背中から肩に近づいてくる。
「はい、どうぞ、お目覚めのほうじ茶です」
違和感なくほうじ茶に手をのばす自分がいた。
「あなたは、誰ですか? ここはどこですか?」
「私は飯田です。そして上田さん。あなたの名前は上田のりこさん。ここは、上田さんのご自宅ですよ」
「私? 私は上田じゃないですよ」
「上田さん、また三枝みさこさんのことを?」
「え? なんで、っていうか、私が三枝です」
話の通じないおばさんだな、と少し苛立った。
「じゃあまたお話ししましょうか」
「へ?」
「あなたのお名前は上田のりこさん。三枝みさこさんはあなたではないの。三枝さんは6年前に亡くなったんですよ。その上、上田さんと三枝さんはお知り合いでもないんですよ」
何を言い出すかと思ったら、このおばさんは私を騙すにしても下手すぎる。
私は喉で笑った。
「何を言ってるんです? 勝手に私を殺さないでください。私はここにいまっ・・・・・・!」
ふいに正面に顔を戻すと、電源のついていないテレビに私の顔がうっすらと反射していた。
私の顔は、三枝みさこではなかった。
見たこともない顔が反射している。
「はい、上田さんどうぞ」
私のあまりに驚いた表情を察したように、おばさんはエプロンのポケットから小さな手鏡を渡してきた。
震える左手をどうにか顔の側にあげ、鏡を覗いた。
ギョッとした。
声が・・・・・・詰まる。
声より先に吐きそうになる。
おばさんが、慣れたように手鏡を取りポケットに戻す。
「上田さんはね、イラストレーターだったんですよ。ある日、雑誌の1ページに三枝みさこさんのインタビュー記事を見つけたんです。上田さんが三枝さんをお知りになったきっかけです。夢中だったんです、三枝さんに。きっと上田さんと三枝さんはお歳も同じ、バツ1でお子さんもいてって、境遇が似ていたんですね」
私は黙って聞き入った。
先が知りたくて、たまらなかった。
「その日から、上田さんは狂ったように三枝さんを調べたり、気にされるようになりました。SNSを四六時中見ては、三枝さんの持ち物や行った場所全てを真似するようになっていきました。もちろん、お仕事なんて放り出して」
「・・・・・・でも私にも子供がいたんですよね。その子は?」
「三枝さんはSNSによく息子さんを載せていましたからね、上田さんにも息子さんがいらしたからよくその写真の真似をして、息子さんを連れ回していたみたいですよ」
「いま、わ、私の息子は・・・・・・?」
「上田さん、落ちついてくださいね。上田さんは、三枝さんに依存してしまったんです。とても長い月日でした。でも6年前に三枝さんは亡くなりました。上田さんがご自分のことを三枝さんだと思うようになってから事態は急激に進んでいって・・・・・・」
「私が・・・・・・殺したんですか?」
「・・・・・・えぇ。ある朝のことでした。上田さんは三枝さんのご自宅に侵入し、隠れて見ていたんです。三枝さんが1人になったのを確認して・・・・・・上田さんが・・・・・・」
私の頭に三枝みさこの自宅が広がる。
あの日、あの会話。
全てが頭に浮き出してくる。
「私が殺したんですね、自分を自分で」
「自分・・・・・・まぁあの時の上田さんは完全に三枝さんだと思っていましたからね。そのあと、上田さんは三枝さんのお付き合いされていた方も計画的に車によって事故死させたんです」
「なぜ? なぜ、三枝みさこの彼まで私は殺したの?」
「上田さんは、三枝さんになりたくて三枝さん周りにも侵入していました。もちろんその中に彼もいた。上田さんは美濃川ゆうきさんに何度もアタックしました。でも美濃川さんはあなたに冷たくした、何度も。それに腹を立ててたんじゃないですか。上田さんは、自分で一から三枝みさこを演じようとしていたんです」
私の目からは、予定のない涙が溢れ出す。
一滴一滴が、もう誰の涙か分からないほどに。
「そしてあなたは警察に捕まるまでの約2年間、三枝さんの息子さんを自宅に監禁しました。周りには、行方不明とされていました。お母さんも仲の良かった美濃川さんも亡くなったからだと噂されていましたが。
上田さん、あなたは約2年間、三枝みさことして生活をしていました。想像が作り出した美濃川さんと監禁している三枝さんの息子さんと。毎日毎日あなたが見た、あなたが侵入した9月6日を繰り返していたんです」
私の頭が、シャッターを切るように記憶を呼び起こした。
私は毎日毎日毎日9月6日を繰り返していた。
染み付いた脳、身体は、捕まってからもそれを頭で繰り返していた。
私に明日なんかない。
「それで、上田さんの本当の息子さんはあなたが三枝みさこさんとして生活し始めた時にもう戸籍から外れていました。警察に言うこともなくあなたと縁を切り、姿を消しました。未だに、名乗り出てきません」
喉が痛くてたまらない、詰まった涙があまりに渋滞するから喉から涙が出てきそうだ。
「長くなりましたが、それで4年前、あなたは逮捕されました。三枝かずやさんは精神科に通いながら、今はもう普通に生活できるようになりました。上田さんは、極度の妄想のめり込み障害と診断され、ここで治療しているんです。ご理解できましたか?」
黙って、頷く。
それしかできなかった。
「ちなみにこのお話は、今週だけで4回目ですよ。深い眠りにつくたびに、上田さんはあの日の三枝さんになってしまうんです」
「え。私、どうしたら。どうしたら私は私になれますか?」
「それを、今治療しています。色々な薬や生活を変えて、少しずつ経過をみて頑張りましょう。ただ、どんな病気であれ上田さんがしたことは、大きな犯罪です。それはしっかり償っていきましょう」
「・・・・・・はい」
自分はあと何回寝たら、上田のりこが帰ってくるのだろう。
ほんとうの明日は、私に来るのだろうか。
ふと、机の上に置かれた携帯電話。
待ち受け画面には、私だけが笑っている画像。
誰も隣にいないのに、私は腕を組んでいるポーズ。
後ろには笑顔なんて当分しないような、暗い暗い顔をした三枝かずやが立っている。
私の頭の記憶には、幸せいっぱいに笑ったかずやと美濃川ゆうきしか知らない。
自分のほんとうの息子の顔は、今も、思い出せない。
目を閉じるとまた私を見失いそうになることが怖くて、辛くて、悲しくて。
地獄を身で体験しているようだった。
長い長い長い治療は、私が私になるまで終わることはなかった。
遠い昔に置いてきた、上田のりこ。
一体、私って、上田のりこって、まだこの世のどこかにいるのかな、って毎晩考えた。
無の私が彷徨う。
この地球で。
瞼を閉じて、開けると、また涼しい季節がやってきた。
私は86歳。
法が決めた刑を私は生きている間に務めることができ、今日出所することになった。
封鎖された世界から、人が自由に移動する世界に、なんだか、やっと、やっと戻ってこられたような気がする。
久しぶりの空はやっぱり美しかった。
もみじが夕焼け色している。
上田のりこはもう離さない。
三枝みさこ、私が壊した三枝みさこは戻らない。
きっと何をしたって、一生許されないことをした。
手放した幸せはもう私には振り向かないだろう。
でも、一つだけ私にも幸せが来てくれたのだ。
そう私が空を見上げた、今日は、9月7日だった。
(編集部より)本当はこんな物語です!
41歳になる水沢佐知子は、医師である夫・雄一郎と離婚し、高3になる息子・文彦と二人で暮らしています。佐知子は元夫の娘・冬子がつきあっていると聞かされた自動車教習所の25歳の教官・犀田と気づけば関係を持つように。ある晩、ゴミ捨てに出た息子がそのまま帰ってこなくなります。愛人だった犀田も電車にはねられて死亡。佐知子のまわりで次々と不幸な出来事が起き、雄一郎の後妻・亜沙実らの複雑な人間関係が明らかになって……。
イヤミス(嫌な後味や表現があるミステリー)の女王とも呼ばれる沼田まほかるさんのデビュー作です。ドロドロとした人間関係に息苦しさを覚えながらも、ついのぞいてみたくなるサスペンス小説です。
カレンさんの作品がフィクションとして楽しめるものだとすれば、この作品は現実世界と地続きのいやな感じを味わわせてくれます。