一人の虚構の女の人生から、現実の時代と社会のゆがみを浮き彫りにする――。塩田武士さんの新作長編ミステリー『朱色の化身』(講談社)は、作家生活10年の節目に、小説のリアリティーを追求した意欲作だ。
元新聞記者のフリーライター、大路亨(おおじとおる)はガンを患う父親から、辻珠緒という女性を捜すよう頼まれる。聞けば亨の祖母が生前、興信所を使って珠緒の祖母を何度も調べさせていたという。優しかった祖母がなぜ? 謎を追い、亨は珠緒を知る人を取材してまわる。
珠緒は福井県の芦原(あわら)温泉で育ち、複雑な家庭から逃げるように京大へ進学する。当時まだ珍しかった女性総合職として大手銀行に入り、老舗和菓子店の御曹司と結婚し退社。離婚するも、今度はゲーム開発の世界で成功を収める……。
知人らが証言する珠緒の経歴のディテールは、元新聞記者の塩田さん自身が足で稼いだものだ。古い地図や新聞を手に福井を訪ねて地元関係者から記憶を引き出し、女性総合職1期生として働いた元銀行員やVR(仮想現実)の専門家、ゲーム依存症の治療にあたる医師にも話を聞いた。
「虚構なのは珠緒という人物だけで、周りを固めるのはすべて実在する情報。そうすることで人物は分厚くなり、彼女の人生から現実の社会が見えてくる」。事実の迫力で虚構を支え、小説のなかに現実を再創造しようという試みだ。
珠緒の歩みは一見華々しいが、亨はどうしても違和感をぬぐえない。彼女は本当はどんな人間なのか。粘り強い取材の末、彼女が受けてきた数々の抑圧と、65年前に芦原を襲った大火に始まる因縁が明らかになっていく。
専業作家になって今年で10年。今作の執筆が「今までで一番しんどかった」と苦笑する。
取材に2年、執筆に1年をかけ、亨の一人称で進む初稿を書き上げたが、編集者からは「事実に寄りすぎて読みづらい」と全面改稿を求められた。証言と一人称を分ける2部制に書き直し、雑誌掲載後も改稿を重ねた。「6稿目でやっと納得できた。節目となる作品で、自分がいかにちっぽけかを思い知らされました」
将棋界を描いたデビュー作『盤上のアルファ』などのエンタメから、実在の事件をもとにした社会派小説『罪の声』などを経て、事実で物語を紡ぐ新たなリアリズムの境地へ。「現状維持は後退だと思ってやってきた。この一冊は、自分の生き方の表明でもある」(尾崎希海)=朝日新聞2022年4月6日掲載