人がいなくなれば街はなくなるし、人と同じように街にもいつかは寿命がきてしまう。人はけれどそのことを忘れてしまう。たとえば、生まれた街はずっとそこにあるような気がする。どんなに変化しても、街という場所はあり続ける気がする。けれど、土地はあり続けたとしても、「街」は人が生み出していて、人がいなければ生き続けることができないものだ。
ホッパーの街並みを描いた作品は、眺めている間「私しかいない」ような錯覚をくれる。目の前に描かれた街は既に消えていて、その残像を前に、私だけがそこで存在しているような錯覚。街の喪失を肌で感じるために風景を見ている、そんな感覚だ。それは、知らない場所、過去にあった風景の絵を眺める上で一番自然な手触りであるのかも知れず、それなのにとても新鮮に思えた。私は過去にどれだけ、知らない街を知っているつもりで、写真や絵で見てきたのだろうと考える。知らない街のことさえ、街というだけで、知っているつもりになってしまう。それは、街がどこかで永遠のものであると思い込んでいるからかもしれない。
去っていく街の姿がある。ホッパーの作品には。それは本当はただの幻で、私にはその風景が本当にあったのかさえ、知ることはできないのだけれど。確かなのは、その街に「間に合わなかった私」がいるということだけ。そしてそのさみしさこそが、ホッパーの絵に惹(ひ)かれていく理由なのだと思う。=朝日新聞2022年5月21日掲載