僕は鎌倉で生まれ大船で育った。横浜の大学に通ったので、横浜駅周辺、桜木町、関内にはよく行った。横浜というと世間ではデートスポットのイメージがあるようだが、僕の肌感覚では恋人たちが愛を語らう場所でなく、常に得体の知れない怖さを感じる街だった。
みなとみらいから関内駅に向けて歩くと、情緒ある馬車道の街並みはすぐに終わる。90年代の関内駅周辺は異臭を放つホームレスや道端で寝る酔っ払いのおっさんがうじゃうじゃいた。根岸線の高架を抜け、イセザキ・モールをまっすぐ歩き、有隣堂の本店あたりを過ぎると心細くなった。カタギに見えない人たちがたくさんいたからだ。その先にファッションヘルス街があった。そこかしこに客引きの兄ちゃんがいて、みんな怖かった。さらに歩くと、風俗街として知られる黄金町がある。一斉摘発が行われる前、黄金町駅〜日ノ出町駅間の高架下には無数の「ちょんの間」が軒を連ねていた。たった数百メートルの路地にも関わらず、終電がなくなるとどこからともなく男たちが現れ、軒先に立つ原色の女性たちを物色した。その賑わいは現在の新大久保のようだった。
だから一般的な横浜のイメージに強い違和感があった。横浜とはなんなのか。僕は何に対して恐怖を抱いていたのか。その答えはノンフィクションライター・八木澤高明さんが執筆した『裏横浜―グレーな世界とその痕跡』(ちくま新書)の中にあった。
極私的な横浜を文字に
――八木澤さんはこれまで『黄金町マリア』など黄金町に関する著書を執筆されていますが、なぜいま横浜について書こうと思ったんですか?
生まれ育った町なので、いつか書きたいとは思っていたのですが、そんな時にちくま新書の橋本陽介さんからご提案いただいたからです。あと、一般的に語られる横浜と自分が見てきた横浜との乖離に違和感があったんです。
子供の頃から釣りが好きで。釣りって朝が早いんですね。自転車で戸塚区の実家から桜木町の港あたりに向かうと途中に黄金町があった。朝の4〜5時なのに原色のおばちゃんが立ってて、酔っ払いのおっさんも路上で寝てた(笑)。「ここなんなんだろう?」っていう素朴な疑問が生まれて。それがのちの『黄金町マリア』へとつながっていくわけですが、自分の目の前で起きたこと、出会った人、語ってくれたこと。極私的な横浜を文字に残しておこうと思いました。
――八木澤さんのおっしゃる違和感は理解できます。近年はどんどん開発されて綺麗な街並みになっていますが、僕にとっての横浜は怖い街。今でも強烈に記憶に残ってるのは、怖いもの見たさで深夜に車で寿町を通ったら『北斗の拳』のように一斗缶で焚き火してたことです(笑)。
あははは(笑)。当時の寿町は労働者の街でしたからね。(東京のドヤ街の)山谷もそんな感じでしたよ。焚き火の煤で壁が真っ黒なんです。本にも書きましたけど、中村川の「船の休憩所」(P155)とかね。まさか水上に人が暮らしてるなんて。あれも子供の頃に見たことあったんですよ。ただ当時はなんの船かはよくわかってなくて。「いつもあるなー」くらいの認識でした。
――「船の休憩所」の描写はすごい臨場感でした。本書ではそういった場所が生まれた歴史を丹念に紐解かれていました。
横浜には「なんで?」みたい場所が実はいっぱいあるんですよ。ずっと不思議だったので「横浜市史」をはじめ、いろんな本を読んだり、街を歩き、様々な人に話を聞いたわけです。それで見えてきたのは、違和感のルーツは日米和親条約、日米修好通商条約、そしてペリー来航まで遡るんじゃないかと思ったんです。海外と交易をした港。モノとヒトが集まることで生まれるカネと欲。つまり経済活動の産物だったわけです。今横浜スタジムがある場所はもともとはクリケット場で、そのさらに前は外国人も相手にする遊郭だったんです。豚肉料理屋の火事で全焼してしまうのですが。
――豚肉といえば、肉食の外国人のために屠畜場が作られたというのも驚きました。
明治15年にはすべて閉鎖されましたが、当時は町外れだった本牧の小港町にあったようですね。
――新しい文化が入ってきたといえば聞こえはいいですが、当然裏側もあった。僕らはそれを町の雰囲気から感じていたのかもしれませんね。
ちなみに僕が学生だった頃は、伊勢佐木町に時計やカメラをドルでも売る店がありましたよ。あと船員用のバーとか労働者向けの安食堂とかも。開港の時代から細々と受け継いでいたものが90年代、一部は2000年代まで残ってた。
――それらが消えて行ったのはなぜですか?
昔ほど人が港と関わらなくなったからじゃないでしょうか。船は今も物流に利用されているけどオートメーション化されたことで、労働者が激減しました。あと国際航路も消えた。横浜からソ連のナホトカ港に向かい、そこからシベリア鉄道でヨーロッパにつながるルートがあったんですよ。でも91年のソ連崩壊とともになくってしまい、船員も乗客もいなくなった。代わりに赤レンガ倉庫の周辺はどんどん観光地化されてますよね。
横浜と米軍の深い関係
――労働者が集まる所に歓楽街ができる。黄金町も寿町も横浜が港湾都市だったが故に生まれたものだった、と。
あと横浜と米軍に関しては、戦後、中心部を米軍に接収されたのも大きい。マッカーサーは厚木に降り立った後、ホテルニューグランドに拠点を構えました。祖母は当時旧国道1号線の近くに住んでいたので、マッカーサーが厚木から横浜に移動する時は「絶対外に出るな」って言われたと話してましたね。近所の人も怖いからみんなしっかり戸締りしてたって。
――ホテルニューグランドは今も山手公園の前にありますね。
マッカーサーがいたのは短い期間ですが、当時はあそこが横浜の中心だったんです。関内や伊勢佐木町のあたりもだいたい米軍に接収されてます。あと本にも書いた根岸とか。僕は子供の頃、自転車に乗ってたら知らずに迷い込んじゃって。金網に書かれた警告文を読んで子供ながらにめちゃくちゃ怖くなりましたね。
――「生活圏の中に、勝手に入れば、逮捕される場所があるというのは、ショックでもあった」(P208)とありました。
今はもう日本に返還されているので過去の話ですけどね。戦後すぐの頃、黄金町の対岸は飛行場で、山下公園の裏には米兵向けの慰安所もあった。横浜の歓楽街というと、今は曙町がファッションヘルス街として知られていますけど、その前は遊郭のあった真金町の近くに私娼窟があって。売春防止法とともになくなってしまいました。
社会の片隅で淡々と生きる人々
――八木澤さんが色街の取材するのはなぜですか?
色街って日本全国津々浦々、どこにでもあるんです。しかも街を歩いてると突然現れる。かつて僕が黄金町を目撃した時のように。宮崎さんが寿町で一斗缶の焚き火を見た時のように(笑)。「なんでここにこんな場所があるんだろう?」というシンプルな好奇心からですね。
――とはいえ、第三章の「日の当たらない人の居場所」を読むとマイノリティに寄り添う視点があるように感じました。
自分としては興味のある場所に勝手に入っていっただけ。お邪魔してるというか。そこにたまたま奨学金返済のためにファッションヘルスで働く女性、借金を背負って日本にやってきた外国人娼婦、ストリップ劇場の経営者といった人たちがいた。マイノリティを探し求めたわけではないけど、社会の片隅で淡々と生きざるを得ない人々と、その言葉を記録したいという気持ちはあります。
――とかく色街の場合は倫理的な側面からのみ語られることが多いですしね。
はい。でもそれだけでは見えてこないことがある。売春は世界最古の商売とよく言われますよね。実際、色街を調べていくと必ずと言っていいほど経済活動と結びついている。主要な港や街道沿いには必ず色街がある。原発ができるまで日本のエネルギー源は石炭だった。福島には常磐炭田があって、近くの小名浜港にも色街があった。さらに言えば山谷の側にはその貨物基地があった。吉原も近所。その吉原はそもそも幕府公認の遊郭だった。横浜には戦後、米兵のための慰安所が日本政府主導で作られた。この事実は倫理だけでは説明がつかない。政治、経済も含めた視点からしっかり検証すべきことだと思っています。
――過去の記憶を上書きするかのように開発され続ける横浜へのカウンターとして本書『裏横浜』があると思いました。
これは僕個人の意見でしかないけど、いまのみなとみらいには街の表情がないんですよ。テーマパークみたいじゃないですか。作られた、装飾された景色。大事なのはその土地に根付いて生きてきた人たちの血肉から出てきた言葉や景色なのに。しかもそういうのは文字にならない。横浜だけじゃなくて、行政からすると記録する価値もないと思ってる節がある。
だから僕は横浜に限らず、日本中の色街をできるだけ歩いて、そこにあるものを記録したい。人間の命も脳みその記憶も有限だから。聞いた話は嘘かもしれない。僕自身も聞いた話がすべて事実だとは思ってない(笑)。だけど、彼女なり、彼なりが実際にそう言ったという事実は残しておきたいんです。迷惑かもしれないけど。