文学の響きをせりふに乗せて
――藤村の『破戒』は、被差別部落出身の小学校教師・瀬川丑松が主人公。時代は明治後期で、当時は出自がばれたら社会的に抹殺される、まさに「生死(いきしに)に関わる真実(ほんとう)の秘密」でした。それを抱えて生きる丑松の苦悩をひたすらにつづった小説で、どのように映像化するのかなと思いました。
自分は原作を読んだことがなかったので、今回のお話をいただいてから読んだんですが、確かにこれを映画化するにはどういう風に台本をまとめるんだろう、っていうことは考えました。しかも知らない言葉がとにかくたくさん出てくるので、注釈とにらめっこして、さらに注釈に書いてある言葉が分からないから調べて、とにかく読み進めるのに時間がかかりましたね。
明治後期という自分にとってはすごく遠い話で、慣れない言葉だったり、想像するにはあまりにも知らなすぎる場所だったりしたんですけど、文章としてはそのときの丑松のいる場所の情景、一つひとつの描写がすごく細かくて、いまどんな場面に丑松が立っているのかが立ち現れてきました。その中で、丑松のストーリーがシンプルに、強く真ん中にぐっと流れているイメージで読みました。
――映画の中での間宮さんの端正なたたずまい、伏し目がちで、ここぞというときに相手の目を見る演技が印象的でした。
もちろん心情の表現や目線など、芝居で心がけたことは大前提としてあるんですが、ほかの作品と違うところでは、せりふの響き方に気をつけて演じていましたね。文学のよさが台本のせりふにもそのまま流れていて、この響きを壊していけないなと思ったので、せりふの聞こえ方に関しては気を遣いました。映画は独立したひとつの作品であるけれども、島崎藤村が書いた『破戒』を映画化している、っていう味わいは消さないようにしていました。
今3度目の映画にする理由
――近代文学を代表する作品のひとつで、かつ過去に2度映画になっていて、何より部落差別という重いテーマを扱っているので、むずかしさもあったのではないでしょうか。
120年前の小説で、過去に映画化されているこの作品を、また新作映画として撮影して公開するっていうのはどういう意図なんだろう、っていうのは最初にお話をいただいたときに思いました。でも原作を読んで、準備段階の台本も読むうちに、今この映画を世に放つという制作陣の意図に自分の中でも合点がいったので、参加したいなと思いましたね。
――どのような意図を感じたのですか。
昔むかし、部落差別があって、そのときに丑松という青年がこういう思いになって、こういう経験をしました、っていう過去の話としてとらえられなかったんですね。今はSNSの発達もあっていろんなところで差別やハラスメントが話題に上がったり、議論になったりしていて、その実体がつかみやすくなっていると思うんです。これまで学校で「差別はいけないことです」って漠然と教わっていたというか、自分と近しい問題とは思えないまま教育を受けていた部分があったんですが、手触りとして世の中にあることが見えてくる状況のもと、この映画が新作として公開されることには意味があるな、と思ったんです。
――確かに、SNSを通して人の偏見や悪意のようなものが見えやすくなっていますね。
今回は部落差別がひとつのテーマになっていますけど、名前が付いてない差別もいっぱいあって。ツールが増えれば増えるほど、新しいテクノロジーが生まれれば生まれるほど、そういうところには事実だけじゃなく、人間の中に渦巻くいろいろなものがつきまとってきますよね。映画の中で「部落差別がなくなっても、また新たな差別が生まれる」というせりふが出てきますが、まさにそういうことだと思います。
でも今回自分がこの役を演じて、かつ映画を観て思ったのは、世界はひとつだけど、自分とほかの人とは見てる世界が違うし、考えていることも違う。「見えてる世界」っていうのはそれぞれ別世界だと思うんですよね。この映画でも冒頭からエンドロールまで、世界は変わってないんですけど、丑松の中での世界の見え方は180度変わった。外的な影響を良くも悪くも受けつつ、自分の見えてる世界のチャンネルを最終的に合わせるのは自分でしかない、っていうのは再認識しました。
――丑松が思いを寄せる人、丑松の素性を暴こうとする人。映画にはさまざまな人が登場して、丑松の心は激しく揺さぶられていくのですが、その中でも同僚教師で親友でもある銀之助の存在が救いでした。演じた矢本悠馬さんとは私生活でも親友だそうですね。
このキャスティングはたまたまじゃなかったようですが(笑)、銀之助を悠馬がやってくれるって知った時点で、丑松と銀之助の関係性がいいものになる、っていうことは確信できました。
――部落差別は今も存在していて、丑松のように「ふるさとを語れない」「好きな人に気持ちを伝えられない」と悩む人たちがいます。作品を通して伝えたいことは。
差別が原因で結婚が破談になったという話を聞いたことがあります。自分としてはメッセージを伝えたいというより、この映画を観てもらいたい気持ちと、丑松が最後の教壇に立ったときの気持ちがリンクしていて。丑松は自分の気持ちを伝えたいからそこに立ったんじゃないんです。目の前にいる生徒たち、一人ひとり家庭の事情が違って、父親や母親から何が良い、悪いとされているかも違う、っていう子たちにひとつのきっかけを与えたんです。子どもたちはその「芽」になるようなものを受け取って、後は自分たちで育てていく。それを自分はこの映画を観てくれる人に対しても思っていて。その人が自分の中で反芻して、咀嚼して、どういう思いになるのか、っていうきっかけになればと思っています。
仕事以外で好きな小説は
――今回は撮影の前に小説を読んだとのことですが、いつも原作のある映像作品に出演するときには読むのですか?
読みます。台本がそれを参考にして作られているものなので、映画なら2時間、ドラマなら1話1時間にきゅっとまとめる前の情報がつまってる資料として、読むことにメリットしかないかなと思ってます。
――仕事以外でも、読書はお好きですか。
忙しいときは全然読めないんですけど、小説でいうと中村文則さんと絲山秋子さんが好きですね。中村さんは人間の中に眠っているものをすごく深く掘って、こじ開ける作品をずっと書いていらっしゃって、そこに惹かれます。絲山さんは文章の響きや読んでいる感じが心地よくて、情景が浮かぶというか。「いま太陽がこのくらい傾いているんだろうな」みたいに、その場の光の角度まで想像をふくらませてくれるところが好きです。