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直木賞「夜に星を放つ」 窪美澄さんインタビュー コロナの夜に優しい星を

窪美澄さん

人生に呆然と立ちすくむ人へ

――『じっと手をみる』『トリニティ』に続き、本作『夜に星を放つ』で3度目の直木賞ノミネートですね。おめでとうございます! 今のお気持ちは。

 電話を受けたときは、候補作として選んでいただけたことが単純に嬉しかったのですが、もし受賞できたら担当編集者さんやこれまで応援してくださった方々が喜んで下さるだろうなと思ったら、勝手にプレッシャーを感じてしまって(笑)。普段は郊外にいるので意識しないでいられるのですが、今日みたいに打ち合わせや取材で出版社に来て「大会議室」「選考」なんて文字を見ると、「うわあ……」と実感してドキドキしています。この精神状態は3度目でも慣れませんね(笑)。

――『夜に星を放つ』は全篇を通して星や月がモチーフとして描かれます。デビュー作『ふがいない僕は空を見た』をはじめ、『晴天の迷いクジラ』『雨のなまえ』など、空にまつわる作品が多いのはなぜでしょうか。

 言われてみれば、たしかにそうですね……。私は、人生で何かどうしようもないことに対面している人を描くことが多いのですが、そういう人たちって、ぼうっと空を見上げるしかないことがある。だからかもしれません。高いところから世の中を見たくないって思っています。長田弘さんの「渚を遠ざかってゆく人」という詩に「貝殻をひろうように、身をかがめて言葉をひろえ」(『死者の贈り物』ハルキ文庫より)という一節があるのですが、いつもそうでありたいと思っています。

私の見たコロナ禍

――今回は空の中でも「夜空」のモチーフが多いですね。

 コロナ禍で書いた作品が多いからでしょうか。感染が拡大していた頃、昼間は家の外に出るのがはばかられて、そうすると1日が終わって夕暮れ時から夜に、洗濯物を取り込む時なんかにその日初めての空を見る……。あの頃は、晴れやかな空を「わあ、気持ちいい」って眺めるより、呆然と夜空を見上げる人のほうが多かったんじゃないかな。

――収録された5篇のうち、「真夜中のアボカド」と「星の随に」では背景としてコロナが描かれますね。「真夜中の~」の主人公・綾は、テレワークのなか、目に見えて育つなにかがほしいと、アボカドの種を育てます。「星の随に」では飲食店を経営する父親が疲弊し、主人公・想の新しい母への戸惑いを気づけません。

 コロナを描くか描かないかは、作家ごと、作品ごとに分かれると思いますが、私はわりとそのときに起こったことを虫ピンを刺すように書き留めておきたいタイプです。

 「真夜中の~」では、年下の友人たちが、みんなコロナ禍にも関わらず積極的に婚活アプリをしていて。そりゃそうだよね、健全な若者なんだから、コロナだろうがなんだろうが、恋したいよなあって思って、綾は婚活中という設定にしました。

 「星の随に」は、じつは私が実際に見たことがモデルになっています。以前住んでいたマンションのエントランスで、小学3年生くらいの子がエンエン泣いてたんです。「赤ちゃんがいて、僕がうるさくすると新しいお母さんに怒られちゃうから、家に帰れない」って。ほっとけなくてその子の家に、「私も一緒に謝るので、家に入れてあげてくれませんか」と言いに行ったら、テレワーク中のとても若いお父さんが出てきて……。家で仕事していて、赤ちゃんと産後間もない妻がいて、息子の状況をなんとかするなんて余裕、とてもないだろうなって気がしました。コロナが大人の余裕を奪って、そのしわ寄せが子どもにいっている。お節介なおばちゃんでも出てこないとマズいって思います。

もっとゆるやかなつながりを

――だから「星の随に」では、想を助ける近所のおばあさん・佐喜子さんが登場するんですね。「真夜中のアボカド」では、亡くなった妹の恋人・村瀬君が失意の綾に寄り添います。それぞれの主人公に、家族や恋人とは限らない母性的な存在がいるのが救いでした。

 家族とか血縁とか、私自身があまり信用してないのかもしれません。自分の母親よりも、近くにいる独身の女友達の方が力になってくれたりする。ゆるいネットワークでみんながつながりあって、「あのひと大変そうだな」って思ったら声かけてみたり、自分にそのスキルがなくても助けになる誰かを紹介できたりするじゃないですか。

――登場する家族が、どこか欠けているのも印象的です。シングルマザーも3篇に登場します。ご自身もシングルマザーでいらっしゃいますが、家族の形についてどう捉えていますか。

 最近、国とか法律で正しい形の家族をアピールしてるじゃないですか。夫婦は同じ苗字であるべきとか、同性同士の結婚は認めないとか。「正しさ」っていうワードで家族を語ることにすごく気持ち悪さを感じます。私、誰かを愛して大事に思えるって気持ちがあるだけで、もう十分家族だって思っているんですよね。異性であろうと同性であろうと、子どもがいようがいまいが、あるいは、子どもと血がつながってなくても、誰かを慈しんで愛するっていう気持ちさえあれば、それは家族としてオッケーでしょ、っていう気持ちがすごくあります。それを否定されると、グンッて反発心が出てきます。

――「星の随に」で想くんを助ける佐喜子さんは、東京大空襲の記憶を絵に描いているという設定です。もうすぐ終戦の夏を迎えますが、小説で戦争を語ることについてどんなお考えがありますか。

 私の母世代が終戦の時に10歳前後で、私たち50代は、母世代の戦争の記憶を生で見聞きしている最後の世代だと思うんです。私たち世代が書かないと、もう誰も戦争風景を書かないかも、という使命感があります。この本に並行して書いていた長編にも戦争シーンをちゃんと書こうと思って、取材したり資料にあたったりして勉強しました。

 母から直接戦争の話は聞きませんでしたが、母親代わりのような恩師がいて、疎開先であまりにお腹が空いてビタミン剤を分け合って食べたとか、東京大空襲のとき、神奈川の生田から東京東部の空が赤いのが見えたとか、いろんなお話を伺いました。当時、子どもだったからこそ記憶が鮮明なんですよね。聞いた者として、伝えなければと思っています。

――窪さんは、女による女のためのR-18文学賞でデビューされ、当初は性を描く作品で注目されました。近年は、この作品もしかり、『トリニティ』『いる いない みらい』など性描写のない作品が増えてきましたが、ご自身の中でなにか変化があったのでしょうか。

 R-18 文学賞は数年前から「性」というテーマを応募条件から外したのですが、わたしの時はまだあって。それでデビューしたら、官能小説の依頼がばんばんきたんですね。でも、じつは私、そんな性的な人間じゃなくって、毎回、すごい一生懸命ひねり出して書いてたんです(笑)。周りからは全部私の体験談だと思われたり、色眼鏡で見られたりもしましたけどね。その時代を経て、今はその描写が必要なら書く、必要じゃないなら書かないというスタンスです。

 じつは、私が本当に書きたい「性」って、ライター時代に女性健康誌で書いていたような、ホルモンバランスとか、PMSとか、そういう「性」なんです。女性の身体はホルモンで変化して、生理前に機嫌が悪くなったり、性欲が高まったりするのはおかしいことじゃないですよって、今までもそういうことを書いてきたつもりです。このテーマはこれからも取り組んでいきたいですね。

散々な1日の終わりに

――ご自身のツイッターで「この作品を好きなら、こちらも好きだと思います」と薦めたり、きちんとご自身の作品を広めようとされています。「書いたから読んでほしい」という率直なツイートもありました。

 ライター時代が長かったので、自分の書いたものを作品とも思ってるけど、商品とも思ってるんです。自分がリッチになりたいからとかじゃなくて、採算取れなかったら色んな人が困るよなって思っていて、売れてほしいんですよ。

 今、書店の小説の棚がどんどん少なくなって、書店自体も閉店になって、小説がどんどん読まれなくなっているんですよね。“小説危機”ですよ。Netflixとかネットでタダで読める漫画とか、たくさんエンタメはあるけれど、小説でしか埋められない心の穴ってやっぱりあると思うんです。それが私の作品じゃなくてもいいんだけど、その人に小説が届くように、やっぱり売らないとって思っています。

――最後に、この短篇集にどんな願いを込めましたか。

 コロナ禍のなんとなく気落ちする世の中に、明るい光を差すような優しい物語を書こうと思って、この本ができました。子どもの頃、通っていたピアノ教室に「ベッドタイムストーリーズ」という、寝る前に1話ずつ読むような読み聞かせの翻訳本が置いてあったんです。ピアノを弾くより、それ目的で通ってました。この本が、そんな本になればいいなと思っています。今日は散々な1日だったという人が、ベッドの中でこの本を読んで、少しでも気持ちがすっと和らいで眠りにつけたならいいな。