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目覚めと不寛容 息苦しくとも、繋いだ先に 鴻巣友季子〈朝日新聞文芸時評22年9月〉

青木野枝 水天7

 英国で保守党のメアリ・エリザベス・トラス氏が新首相に選出された。エリザベス女王はその任命を済ませた数日後に逝去し、同国は2人のエリザベスがすれ違うような歴史の転換点を迎えた。

 開かれた王室を目指しユーモアのセンスでも知られた女王をモデルにした傑作を思いだしておこう。アラン・ベネットの王室諷刺(ふうし)小説『やんごとなき読者』(市川恵里訳、白水社)だ。80歳近い女王が読書欲にとりつかれ、公務もそっちのけに。J・オースティンならではの身分地位の微細な区別に対して、細かすぎて伝わらないと嘆いたり、失われた過去ばかり見ているプルーストには、「しっかりしなさい」と励ましたり。

 女王は「本は想像力の起爆装置」と宣(のたま)うまでになる。いわば人間性への覚醒のよき物語だ。ところが、本作刊行の15年前と今では、英語の「目覚め」という語は含意が変わってしまった。wakeの過去形woke(目覚めた)は環境、人種、ジェンダーなどの問題に「意識が高い」という揶揄(やゆ)的な意味合いでも使われている。黒人米語の口語表現に端を発する用法だが、ブラック・ライブズ・マター運動で一般化した。

 この「目覚め」派にアンチを掲げて党首選に勝利したのが、トラス首相だ。自らを堅実な保守として喧伝(けんでん)する一方、wokeという語の悪印象をナラティブ戦略として利用したようだ。多元共存を許さない保守とリベラルの強硬姿勢が社会の亀裂を深めている。それは米国も日本も同じではないだろうか。

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 英国の分断は文学にも表れている。「初のブレグジット(英国のEU離脱)小説」と言われるアリ・スミスの四季4部作の邦訳(木原善彦訳、新潮社)が完結した。第一巻『秋』では、移民家族の家に「家に帰れ(ゴーホーム)」と黒いペンキで書かれ、村人は残留派と離脱派で真っ二つに。目覚めず眠り続ける101歳の老人ダニエルが全4巻をつなぎ、幼いころ彼と仲良しだった70歳も年下の女性エリ「サ」ベスの存在がキーとなる。難民と管理局、目覚めたブロガーたち、落ち目の演出家、仲違(なかたが)い中の老姉妹……。

 コロナ禍も加わる最終巻『夏』では、貧困や環境問題に敏感でガソリン車には乗らない16歳の少女と、離脱賛成派でジョンソン首相の側近を崇拝する弟が主人公だ。若い姉弟にも尖鋭(せんえい)な対立がある。

 作者は時空の異なる話の断片をコラージュ風に重ねる。ストーリーはなかなか見えないが、絵から物語を作るか、物語から絵を考えるかと、エリサベスがゲームを持ちかけられる場面に、作者の意図が仄見(ほのみ)えるかもしれない。スミスの小説では、ばらばらに並べられた挿話から読者は自分なりの絵を描くことになるのだ。絵を巧みに連結させて特定の方向へと導こうとする語りとは対照的だと、訳者の木原は指摘する。白か黒かの選択を迫る不寛容は現実の至るところに顔を出す。

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 温又柔が編集と解説に心血を注いだ『李良枝(イヤンジ)セレクション』(白水社)にも注目したい。「由熙(ユヒ)」では、日本育ちの在日同胞由熙が母国に留学するが生活に適応できず、「ウリマル(母語)」が「催涙弾」と同じように聞こえてきてしまう。韓国人は譲り合うことを知らない、韓国語には受動態の表現がほとんどないと言い、一方、彼女の下宿のオンニ(姉さん)は、あなたは「心がけちんぼ」なのだと言う。

 「息苦しい」「息を殺す」といった語句が随所に出てくる。朝起きたとたん「アー」という声または息が出るという由熙は、「ことばの杖を、目醒(めざ)めた瞬間に掴(つか)めるかどうか、試されているような気がする」と。この「アー」は日本語の「あ」でも韓国語の「ア(ア)」でもなく、もっと原初的な何かではなかったろうか。なぜ日本と韓国の二者択一に由熙は引き裂かれてしまったのか。「ことばの杖」は一本でなくてもいいはずなのだ。

 小池水音「息」(新潮10月号)は父、娘、息子と喘息(ぜんそく)を患った家族の、窒息と蘇生が、具象的にも抽象的にも書かれている。仏文学者・吉田城の『プルーストと身体』によれば、喘息だったプルーストは健康な人なら意識しないような空気の存在、呼吸のリズムを意識するようになりあの大作が可能になったという。「息」はひと吸気ひと呼気を地道に繋(つな)いでいくことでのみ一瞬ごとを生き永らえる人の命の脆(もろ)さと危うさを描き、ささやかな静穏に辿(たど)り着く。読後、少し呼吸が楽になった。=朝日新聞2022年9月28日掲載