トレードマークのサングラスは助監督時代からの「戦闘服」。ピンク映画から一般映画まで「女の性を女の手に取り戻す」を貫き、300本以上を手がけてきた。コロナ禍を機に「自分にとって映画とは何だったのか」と考え、半世紀にわたる映画人生を一冊にまとめた。
中学時代から映画館に通ったが、邦画で描かれていたのは男にとって都合の良い女ばかり。「女性の描き方がかっこいい映画を作りたい」と映画界を志した。高校卒業後、写真の専門学校に入り短編を作ったが、当時監督への入り口とされた大手映画会社の撮影所の演出部の採用条件は「大卒男子」。何とか入り込んだのがピンク映画の世界だった。
原動力となったのは「怒り」だった。「女になれない職業がこの世にあってたまるか、と。映画監督を職業としたいという一心でここまできた。夢とかロマンでなく、食っていくための職業とするために。誰も歩かなかった道なら、私が歩く」
男の監督が描く“幻想の女”を崩すため「主体としての女のセックス」にこだわった。代役で演出を任されたことを機に道を切り開き、1971年に監督デビュー。がむしゃらに作り続け、自分の会社も立ち上げた。
一方、参加した映画祭でピンク映画は映画としてカウントされず、一念発起して一般映画を撮ることに。「幻の作家」と評された尾崎翠を取り上げた作品を98年に完成させた。その後も高齢女性の性愛がテーマの「百合祭」、女性2人の愛を描いた「百合子、ダスヴィダーニヤ」など計6作を手がけ、海外の映画祭でも上映された。現在も新作を準備中だ。
「日本の歴史の中で埋もれてしまった女性を描きたい。先の時代を生きた女性の潔い生き方を若い人に伝えるのが私の仕事」。映画は「自分を表現する職業」だという。(文・佐藤美鈴 写真・横関一浩)=朝日新聞2022年10月1日掲載