『若草物語』で空想する
――本日はよろしくお願いいたします。
私、本当に読書経験が少ないんですよ。今日のインタビュー大丈夫かなと思って、この間、朝倉かすみさんに私の読書経歴を軽くプレゼンしたんです。そうしたら「すごく普通でつまんないね」って言われました。
――あはは。まさきさんと朝倉さんは仲良しですよね。逆に、どんな読書経歴なのか興味がわきます。いつもいちばん古い読書の記憶からおうかがいしていますが。
本当に普通なんですよ。『モチモチの木』なんです。普通でしょう?(笑) 私は物心つくのが遅くて、小学生になってからの記憶しかないんです。だから『モチモチの木』を読んだのがいつかもよく分からないんですけれど、絵をすごく憶えています。弱虫だった豆太という少年が、おじいちゃんのために勇気を振り絞って山を下りてお医者さんを呼びにいくというざっくりした内容は憶えているんですけれど、とにかく絵の印象が強いですね。滝平二郎さんの切り絵が、怖いけれど綺麗で、綺麗だけど怖いみたいな、あの独特の感じを鮮やかに憶えています。
――読む本は学校の図書室で見つけていましたか、それとも家にあったとか?
学校の図書室に行ったことは1回もないです。うちの本棚に児童文学全集みたいなものがずらっと並んでいたんですよ。小学生の時は、その中から好きなものを繰り返し読んでいました。『若草物語』とか『小公女』とか『小公子』が好きでした。特に『若草物語』は読むというより、二次創作していましたね。私の推しは四女でした。
――エイミーですね。
そうです。いちばん人気がないキャラだと思うんです。次女のジョーが書いた小説を燃やしちゃったりして、本当にわがままだし。私はとにかく大人になりたくなくて、エイミーのような幼い人に惹かれました。それで彼女を主役にして、本当は三女のベスが猩紅熱にかかるのをエイミーがかかったことにして、みんなに注目されて心配されて、回復して愛されて大事にされる話を想像していました。ベッドに横たわってエイミーになったつもりで「うーん」とうなされる、というのを1人でやっていました。
――文章で書くのでなく想像して演じていたという。
そうですね。小学校低学年から4、5年生くらいまでそういうことをしていた気がします。
実際に物語を書いたこともありました。「ママさんのケーキは世界一」というお話で、挿絵をつけたりもして。森の中にママさんと呼ばれる女の人が1人で暮らしていて、彼女の焼くケーキがすごくおいしくて、森に住むいろんな動物たちが食べにくるっていう。本当に小学生ならではの物語を書いていました。
――お話を作るのが好きだという自覚はありましたか。
そういう自覚はなかったんですが、でも文章を書くのは平均よりも少し上手かな、という自覚はなんとなくありました。
私は本当に馬鹿な子供で、勉強ができなかったんですよ。3つ違いの弟は小学生の時から勉強ができたんですけれど、私は本当にできなくて。特に算数が苦手で、先生もそれが分かっているのに、父親参観の日に私を当てたんです。家のことにはノータッチだった父親がはじめて来てくれたのに、他の生徒が前に出てすぐ解いて席に帰るなか、私だけずっと黒板の前にいました。先生に「もういいよ」と言われて席に戻ってしょんぼりしていました。その後、父親はしばらく口をきいてくれなくって。ちょっとだけ「こうやるんだよ」と分数を教えてくれて、私は聞いても分からなかったんですが、怖いから分かるふりをしていました。
でも、国語だけは100点を取ったり、読書感想文で賞をもらったりしていたんです。だからこの先私が生きていくとしたら、文章を書くということしかないんだろうなって、小学生の時から思っていました。
実家の"斜陽"
――お父さん、怖い方だったのですか。お母さんはどんな感じだったのでしょう。
父親はあまり家にいなくて、笑った顔を見たことがないし、家にいる時は書斎にずっと閉じこもっていて家族とあまり話をしない人だったんです。食事の時はテレビを見るのも駄目だし、おしゃべりもいけなくて、フォークとナイフの持ち方とか、スープの飲み方とか教えられました。「8時だョ!全員集合」なんて絶対に見ちゃいけなかった。
母は関西人で、面倒なことは嫌いで、遊んで暮らしたい感じの人というか。だから父親と暮らしている時はすっごくストレスだったと思います。母は結婚が遅かったので、きっとそろそろ結婚しなきゃやばいよね、みたいな感じで結婚したと思うんです。まさかあんな結婚生活が待っているとは思わなかったんじゃないかな。
――ちなみに現在、ご両親は...。
父親は私が小学校6年生の時に亡くなりました。母は今87歳なんですけれど、社交ダンスに行ったりして元気に遊んでいます。
――そういえばまさきさんは北海道在住ですが、幼い頃は違ったとか。
生まれたのは東京で、2歳のときに北海道の札幌に引っ越しました。
うち、お金持ちだったんですよ。通いのお手伝いさんと運転手さんがいたんです。朝、運転手さんが家の正門にぴっかぴかの大きな車をつけて、羽ぼうきで車の埃をとっていて、父親が出ていくとドアを開けて...みたいな。庭には池があって滝があって鯉が泳いでいて、冬になると軽くスキーができて。
――わあ、絵に描いたようなお金持ち。
成金っていうんでしょうか。北海道の長者番付に名前が載るような家で、父親は海外や東京への出張で一年の半分くらいはいませんでした。
私が小学校5年生の頃に父親が病気になって、性格もちょっと変わったんです。もともと気難しい暴君だったんですけれど、母に暴力を振るうようになりました。お酒も飲んでないのに、母を2階から突き飛ばしたり、ゴルフクラブで殴り掛かったりして。母が怪我をして病院に行ったとき、先生が何かおかしいと気づいて、警察に通報しようとするのを「自分で階段から落ちただけですから」みたいなことを言って止めたと聞きました。
――ゴルフクラブって...。下手したら死んでしまうではないですか。
そうなんです。私と弟が必死で止めたら、最後に母を蹴って部屋を出ていったのをよく憶えています。そういうのを子供の時に目の当たりして、母は父と結婚して不幸になったんだなと分かっていたし、離婚できないのは子供がいるからだし、手に職がないからだなとも思っていました。手に職のない女性が1人で生きていくのは難しい時代だったんです。
母だけでなく、周囲を見ても、結婚している女性は誰1人幸せそうじゃなかった。なので小学校の頃から、女の人は結婚したら不幸になるから私は結婚しないで子供も作らないと決めていたんです。でも勉強ができないから、1人で生きていくためには文章を書くことしかないのかなって思っていました。
――壮絶でしたね...。
父親が病気になってからお金がどんどんなくなっていって、でも、父親は何もしようとしないんです。母が「子供たちのために生命保険に入って」と言ったら「俺が死んだら金なんかいらないだろう」って返したらしいんですよ。逆だろうって思いますよね? 闘病していた時期も本当にお金がないのに、父親は美味しいものを食べたがるんです。高級な白身魚を自分の前だけに並べさせて、母や子供たちには食べさせようとしなかった。
父親が亡くなって家を売って、すごく貧乏になって中学校の制服も買えないという、そんな落差を味わいました。電気水道ガス全部止まったこともありましたし。太宰治の『斜陽』って感じですよね。
――今ちょっと思ったのが、さきほど好きな作品に挙げられた『若草物語』は父親不在の話だし、『小公女』『小公子』も実の父親を亡くした子の話だなあ、と...。
私も最近それに気づいたんですよ。「ママさんのケーキは世界一」も、結構な大人なのに1人で暮らしている女性の話だったし、なにか無意識のところで家庭環境が影響していたんだなと思いますよね。
――お母さんとの仲は良好なのですか。まさきさんの小説はいつも母と子が重要なモチーフになっていると感じるのですが。
自分では母と子をテーマにするつもりはないのに、気づけばいつも書いていますよね。それで考えてみたら、確かに父親が亡くなった後に母親が暴君になったように思います。私がとんでもない高校生だったので、その頃は母に衣紋掛けや掃除機のパイプ部分で殴られたことがあります。
私はずっと何もできない怠け者で、高校に入るとプチヤンキーみたいになったんです。母にしてみれば私の何もかもが気にくわなかったと思います。自分がこんなに苦労して働いているのに、娘は好き勝手しているわけですから。口をきいてくれなかったり、イライラをぶつけられたり、暴言を吐かれたりしました。でも今、母はそういうことは忘れていると思います。自分は頑張って子供2人を育てたいい母親だった、と思っているかもしれない。
SF小説を交換する
――高校生時代にプチヤンキーになったというのが気になりますが、その前に、中学生時代の読書生活を教えてください。
中学生時代、仲の良い友達がSF小説が好きだったんです。その子は短篇が好きで、眉村卓、筒井康隆、小松左京といった王道の作家たちの短篇集を読んでいて、私にも「読んで」と言って何十冊も貸してくれたんですよ。それを読んでいました。特に眉村卓さんが好きだったかな。
その友達の発案で、交代でSF小説を書きはじめたんです。そうしたら主人公がタイムスリップする場面で私の順番になったんです。読ませどころですよね。私は、今日が昨日になって、明日が今日になって、つまりタイムスリップした、みたいなことを2行くらいで書いたんです。そうしたら彼女が「タイムスリップのシーンはそういうもんじゃない」と駄目出しして、「私が書き直すから」って。彼女が書き直したものはまあ臨場感ありましたね(笑)。さすがだなって思いました。彼女は勉強もできたんですよ。中学校の時もそこそこできて、同じ高校に行ったら学年トップになっていました。
他に中学生の時に自分から進んで読んだのは、星新一さん。ショートショートの中にリーダビリティと意外性、知性と品性と風刺が全部含まれているじゃないですか。それにびっくりして、星さんの本を全部読みました。SFだけじゃなくて、製薬会社の社長だった父親のことを書いた『人民は弱し官吏は強し』などの本も読みました。
――交換SF小説以外に創作はしていませんでしたか。
その頃は詩を書いていました。ペンネームもあったんですよ。「まどか流伊」です。字面が格好いいし響きもいいと思って決めて、サインも練習しました。今、失笑漏れてますけど(笑)。
――いや(笑)。そのペンネームから察するに、歌詞みたいなものを書いていたのですか。銀色夏生さんみたいな感じかな、と。
作詞は大学生の頃に自分の中でブームがきました。中学生の時に書いていた詩は暗いです。苦しい、誰も分かってくれない、みんなキラキラしやがって馬鹿野郎、みたいな感じの詩ですね。ああ、いろいろ思い出してきました。白地に黒いドットのノートがあって、受験勉強の合間にそれに詩を書いていました。人に見せることはせず、自分の中で暗い気持ちとともにその詩を抱きしめていました。
――おうちの経済状況も大変だったかと思いますが、映画とか部活とか、何か他に夢中になったり打ち込んだりしたものはありましたか。
中学時代はまったくないです。なにもないまま高校生になり、非行に走ることに夢中になりました(笑)。
――非行というのは具体的にどんなことを? 学校をサボるとか、タバコを吸うとか...。
そう、まさにそういう典型的なことですよね。でも私は臆病で、人生を駄目にしたくないという気持ちがずっと頭の中にあったんですよ。人に怪我させてはいけないし、事故で死んじゃうかもしれないから暴走族に入ってはいけないし、警察に捕まって少年院に入ってはいけない。そう思っていたので、すごく中途半端な感じの、本当に"プチ"ヤンキーでした。スカートを長くして、学校をサボって、友達のところに行ってタバコを吸ってコークハイを飲んで、夜は当時のディスコに行ったり、ナンパされに行ったり...。毎日そんな感じでした。
家まで送ってくれると言われてちょっとやばい筋の人たちの車に乗ってしまって、「トイレに行きたい」と言ってなんとか降ろしてもらって、逃げたこともありました。
――危ない。では高校時代は、本は読んでいなかったのでしょうか。
よく考えると、童話を読んでいましたね。私、たぶん成長が遅いんです。みんなが小学生の時に読むようなものを高校生の時に読んでいました。佐藤さとるさん、立原えりかさん、安房直子さん...。特に安房直子さんが好きでしたね。読んでいると風景がぱっと浮かぶんですよ。特に「だれも知らない時間」(『なくしてしまった魔法の時間』所収)という、亀から1日1時間だけもらう青年の話とか、縄跳びを飛んでいると夕日の国が見えてきて、ラクダがそこに一人ぼっちでいるという「夕日の国」(同)とか。そういう、映像が浮かぶものが好きでした。佐藤さとるさんの『誰も知らない小さな国』も、内容はすっかり忘れてしまっているんですが、コロボックルとかふきのとうとか映像的に憶えています。
友達連れ去り事件
――卒業後はどうしようと考えていましたか。
学歴が欲しいから大学に行こうと思って、受験勉強を始めたんです。いかに中途半端な非行だったかが分かりますよね(笑)。
高校時代、タバコ吸ってたら補導されちゃって。刑事さんに声かけられた瞬間「これで人生終わった」って思ったんですけれど、「駄目だぞ、もう吸うなよ」とタバコを取り上げられただけで、学校にも家にも連絡されなかったんです。それで、人生繋がったから、よし、大学に行かなきゃ、と思いました。
母が学歴がなくて辛くて悔しい思いをしたのを子供の時から分かっていたので、私は大学に行かなきゃいけないって、頭の中にずっとあったんです。それで受験勉強を始めました。
大学に受かった時はみんなびっくりしていましたね。当時、クラスの女子で4年制の大学に行ったのは私だけだったんです。まさかあの馬鹿でちょっと非行に走っているあいつが、という感じでした。
――学科などはどのように選んだのですか。
経済学部経済学科です。そこの入試に小論文があったんですよ。小論文ならいけるだろうし、他の試験はマークシートだったので、私はたぶん運がいいから大丈夫だろうな、って(笑)。読み通り、その第一志望は受かって、第二志望は落ちました。
本当は大阪芸術大学に行きたかったんです。当時、小松左京さんが教授を務めてらっしゃったんですよね。入試が小論文と面接だけだったのかな。私が行くのはここだと思ったんですけれど、母に「あんたに1人暮らしさせたら何するか分からないから絶対駄目」と言われて、地元の大学に行きました。
――たしかに高校時代の話を聞くと、1人暮らしをさせるのは心配かも。
そうですね。大学に入ってからも、友達が拉致されて警察呼んだりしましたし...。
――え、ええっ? なにがあったんですか。
中学時代に交換SF小説を書いていた友達がいましたよね。彼女は東京の大学に行ったんですけれど、帰省した時に一緒にススキノで飲んだんです。そろそろ帰ろうという時に向こうからおじさんが来て、「帰るんだったら車で送ってあげるよ」と言ってくれたので「ありがとうございます」って。2ドアの車だったんですよね。彼女が後ろに乗って私が助手席で、着いたので私が降りようとしたら、その男がいきなり私を突き落としてバンとドアを閉めて、友達を連れ去ってしまったんです。
これは洒落にならない、彼女が殺されるかもしれないと思って、車のナンバーを憶えてすぐに公衆電話から110番しました。当時はまだ携帯電話がなかったので。
――動転しているなかで、よくナンバーを憶えられましたね。
そういうところは冷静なんです。すぐにパトカーと覆面パトカーが10台くらい来て、それが明け方だったのかな。
車のナンバーが分かるから大丈夫だと思うじゃないですか。でもそれが、盗難車だったんです。パトカーの無線で「見つからない」「朝までに見つからなかったら駄目かも」と話しているのが聞えてくるんですよ。もうどうしようと思ったんですけれど、「君は何もできないから帰りなさい」「二度と知らない人間の車に乗るな」「しばらく家から出るな」などと叱られて家に帰って、彼女の無事を祈りながら連絡が来るのを待っていました。
そしたら朝8時くらいかな、彼女から電話がかかってきたんです。公衆電話から「無事だよ」って。海のほうに連れていかれて、相手ががばっと襲ってきたので、咄嗟に「3万円だよ」って言ったそうです。「あんたタダでやろうと思ってんの」「私のバックに誰がいると思ってんの」って。そうこうしているうちにパトカーのサイレンの音が聞こえて、それで車から降ろされた、って。
彼女が警察に「無事でした」って連絡したら、すぐに警察が駆けつけて、まず腕を見られたそうです。覚せい剤とか打たれてないか確認したんですね。何もされていないと分かったら、彼女も私と同じように「二度とこんなことすんな」ってものすごく怒られたそうです。それから一切、知らない人の車に乗らなくなりました。
――いや本当に無事でよかった。その友達もよく即座に「3万円だよ」って言えましたね。そう返せば相手がひるむとは限りませんから、無事だったのはたまたま運が良かっただけですが。
彼女は肝が据わっててすごいんです。だてに私が書いたSF小説に駄目出しした子じゃないという。
運命の出合い1冊目と創作教室
――そういうこともあった大学時代、読書に関しては。
1冊も本を読みませんでした。踊りに行ったり、とにかく遊んでいました。アルバイトも特にしませんでしたし。
――あ、もしかして、その頃ってバブル期ですか。
めっちゃバブル期です。遊ぶことが正義、みたいな。女性がディスコとかどこかに遊びに行けば男が寄ってきてお金を出してくれるっていう時代です。
今の時代も大学生は馬鹿だって叩かれることがあるじゃないですか。私から見たら全然馬鹿じゃないですよ。私の大学生時代はもっと馬鹿だったから、今の若者たちは立派だなって思ってます。
――その頃、文章で生きていくみたいな気持ちは薄まっていたんですか。
バブル期だったのでなんとでもなるだろうなって思っていたんですよ。ただ、文章を書く仕事に就きたい気持ちは漠然とありました。それで、先ほど言ったように、私の中で一大作詞ブームが来ました。銀色夏生さんのような作詞家になりたいと思って、ヤマハの作詞部門とか、いろんな賞に応募して佳作になったこともありました。
でも、作詞家になるのって難しいですよね。この会社に入ったらなれる、というものではないですから。それで大学を出た後は就職せずにアルバイトを転々としていました。コピーライターや編集者なら会社に入ればなれるので、そちらにシフトしたほうがいいのかなと考えるようになりました。
大学を出たら、みんな就職したので一緒に遊んでくれる人がいなくなるわけですよ。そうするとあまりに時間が余るので、また小説を読もうと思って。教科書で読んだ「羅生門」が面白かったなと思い出して、芥川龍之介を読み始めて「地獄変」に圧倒されて。牛車に乗った自分の娘が焼け死ぬところを見ているお父さんの目が爛爛としているっていう、その光景が頭の中に鮮やかに浮かんで、本当に衝撃的でした。
芥川を何冊か読んでから、日本の文豪と呼ばれる人たちをある程度押さえておこうかなと思って、太宰治や夏目漱石、三島由紀夫などを読みました。
それと、遠藤周作さんの『沈黙』。穴吊りにされた隠れキリシタンが苦しくてうめいているのに、神様は何もしてくれないという場面があるんですよね。生き地獄の中にいる時に、それまですがっていたものが手を差し伸べてくれないのはどんな絶望なんだろうと感じて、本当に恐ろしかった。遠藤周作さんは他に『深い河』が印象に残っています。
そうだ、その頃に、吉本ばななさんを読んで、村上春樹さんの『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の3部作とか、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ノルウェイの森』といったあたりも読みました。
それと、超訳のブームってありましたよね。シドニィ・シェルダン。
――ありました、ありました。
これこそかすみちゃんに「普通だね」って言われたんですけれど(笑)。『真夜中は別の顔』や『ゲームの達人』を読みました。
それとダニエル・キイスですね。『アルジャーノンに花束を』とか『五番目のサリー』とか『24人のビリー・ミリガン』とか。本当に話題になった本ばかりになってしまうんですけれど。
――『五番目のサリー』や『24人のビリー・ミリガン』は、今でいう解離性同一性障害を扱っていますよね。一時期そうした心理系の本がすごく流行りましたよね。『FBI心理分析官』とかもヒットしたし。
『FBI心理分析官』も読んだんですけれど、あれは、あまり本を読んでこなかった私にとってはちょっと難易度が高かったです。
――トリイ・ヘイデンとかは。
ああ!『シーラという子』を読みました! あれは夢中で読んだな。他には、もうちょっと後になって『"It"と呼ばれた子』も読みましたね。
それで、いよいよ運命の本と出合うんですよ。
――おお、なんでしょう。
藤堂志津子さんの『熟れてゆく夏』が直木賞を受賞したんですよ。私が24歳くらいの時でした。札幌在住の作家ということで書店さんに本が山積みになっていて、じゃあ読んでみようかな、という感じで読んだら、もうすごく好きで、「私はこういう本を読みたかった」って思いました。それから藤堂さんの作品をずっと、繰り返し読みました。
――どういうところが響いたのでしょうか。
なんていうのかな。「これは私のための小説かもしれない」と思うほど、自分と同じ感覚の人がここにいる、と思ったんですよね。幸せになれない人たち、ならない人たちが描かれているところに、「ああ、なんかすごく分かる」と思いました。当時自分が抱いていた、どうにもならないイライラした感じ、ヒリヒリした感じ、どこにも行けない感じが、薄皮をはいだように本当に痛く感じられたんです。ああいうのが「肌感覚」なんでしょうね。読んでいる間、皮膚の下がずっとざわざわしている感じで、それが味わいたくて読んでいた気がします。
――なんというか、希望のない話、バッドエンドの話も、なぜか読んでいて安らぐってことありますよね。
そう、自分の辛さってつまりこういうなんだなって分かるというか。小説を読むことで自分の心が客観視できることもある。あまりにハッピーエンドだと自分自身との間に齟齬があって受け入れられなかったりしますよね。私も当時、分かりやすいハッピーエンドの物語は好んでいなかったような気がします。
で、その頃、アルバイトを転々としていて暇だったわけですが、北海道新聞を読んでいたら、カルチャースクールの案内欄に創作教室というのを見つけたんです。その教室の講師が、藤堂志津子さんを世に出した川辺為三さんだったんですよ。藤堂さんは直木賞を獲る前に、「北方文芸」という北海道の文芸誌に小説を発表されていたんですけれども、川辺先生はその「北方文芸」の編集人で、藤堂さんの才能を見込んで小説を書かせたんです。私は藤堂さんのエッセイも読んでいたので川辺先生のお名前は知っていて、会いに行きたいなあ、と思って創作教室に申し込みました。
創作教室は生徒が20人くらいで、年配の方が多くて20代は私ひとりでした。そこでは、書きたい人が30枚くらいの小説を書いて、それを人数分コピーして、みんなで読んで順番に評するんです。褒める人もいれば、ぼろくそに言う人もいました。もちろん川辺先生も感想を言って、アドバイスしてくださるんです。
私、お金を払っているんだから書かないと損だと思ったんですよ。それで書いたら褒められたんです。今までの人生で褒められたことがなかったので「私、才能あるかも」って勘違いしちゃったんですよね。そこからどんどん書くようになりました。そうして書いたものを川辺先生が「北方文芸」に掲載してくれて...というのを2年くらい続けていました。
当時の「文學界」に同人誌が対象の賞があって。全国の同人誌に掲載された作品のなかから一番よかったものが選ばれるんです。それに私が書いたものが選ばれて、「文學界」に掲載されたり、ちょっと取材もされたりして、初めての晴れ舞台を迎えたようでした。
朝倉かすみさん&運命の出合い2冊目
――「2年くらい続けていた」ということは、2年後は状況が変わったのですか。
そろそろ会社員にならなきゃ、と思ったんですよね。相変わらず文章を書く仕事がしたかったけれど、札幌には未経験のコピーライターや編集者を募集している会社がなかったので、東京に行こうと思いました。東京はまだバブルな感じが残っていて、未経験者OKな会社もいっぱいあったんです。それで東京に行って、デザイン編集プロダクションみたいなところで働き始めました。
そうしたら、一切小説は書かなくなっちゃったんです。なぜかというと、東京が楽しくて(笑)。仕事はゆるい感じだったんですけれど、彼氏ができたので彼氏と遊ぶことに一生懸命になって、まったく書かずに2年だけ東京にいて札幌に帰りました。
――2年だけって決めていたんですか。
母に2年間だけ東京に行かせて、ってお願いしてあったんです。それに、自分でも札幌に戻らないと駄目だと思いました。会社が楽すぎてまったく成長していなかったし、頑張る気持ちもなかったし、小説を書くこともなかったし。このズブズブのぬるい環境にいたら小説家になれないから、一度札幌に戻ったほうがいいなと直感したので帰りました。
札幌に帰るとまたアルバイトを転々としました。暇だから創作教室に戻ったら、なんとそこに朝倉かすみさんがいるじゃないですか。
――おお。朝倉さんもデビューする前ですよね。
まだまだデビューする前で、立派に会社員をしてました。川辺先生がかすみちゃんをすごく褒めるんですよ。「すごい人が入ってきた」って。それで読んだら本当に、今まで読んだことのないような、すごい小説を書くんですよ。
私もまたちょっとずつ書き始めて、「北方文芸」に載せてもらったりして、本もまた読むようになって。その頃は川辺先生が薦めてくれた本を読みました。サガンの『悲しみよこんにちは』とか田中小実昌さんの『ポロポロ』とか、原田康子さんの『挽歌』とかが好きでした。
――新人賞には投稿していたのですか。
はい。29歳の時に北海道新聞文学賞で佳作をいただいて、そこから中央の文学賞にも応募することに決めて、翌年にはすばる文学賞の最終候補までいったんです。その他もわりと2次通過は当たり前だったので、書き続けていれば小説家になれるかもしれないって調子に乗っていました。
でも30歳になると、あれ、私、まだプー太郎だよねって気づいて、やっぱり会社員にならなきゃと思いました。一応東京で実務経験があるので、札幌でもコピーライターとして雇ってくれる会社があったので、30歳からそこで正社員として働きはじめたんです。そうしたら、忙しくて小説を書く時間がなくなりました。早く帰ることができた時だけ創作教室に顔を出して朝倉さんたちとご飯食べる、という関わり方でした。
それでも、本は読んでいました。この頃は、小川洋子さんや江國香織さん、川上弘美さん、角田光代さんといった女性の作家を中心に読んでいました。
――当時、それぞれの方のどのあたりの作品が好きだったんですか。
小川洋子さんで好きだったのは『妊娠カレンダー』。それと、「バックストローク」(『まぶた』所収)という短篇がすごく好きです。主人公の弟が水泳でオリンピックの強化選手に選ばれるけれど、左腕が挙がったまま下ろせなくなって......という。本当にあれは映像が浮かびます。江國香織さんだと『きらきらひかる』、川上弘美さんは『蛇を踏む』、角田光代さんは『まどろむ夜のUFO』が好きでした。
そして、第2の本との出合いがあるんです。
――なんでしょう。
宮部みゆきさんの『レベル7』。「レベル7まで行ったら戻れない」というフレーズがキャッチーだし、すごく話題になっていたので読みました。
私、それまでミステリというものをほとんど読んでいなかったんですよ。読んだのは赤川次郎さんだけかな。で、私、本は面白ければ面白いほど読み終えた後で内容を憶えていないんですけれど、『レベル7』もぜんぜん憶えていないんです。世界観が変わるくらい夢中になって、ノンストップで読むってこういうことなんだ、ミステリってこんなに面白いんだ、と思いました。そこから当時出ていた宮部さんの本は全部読みました。
――夢中で読んだ本の内容を憶えていないことがあるのは分かります。あまりに没頭すると、読んだ後、夢の世界に行って戻ってきてみたいな感覚で、記憶が曖昧になっているというか。
そうなんです。『レベル7』はその後、また買って読んでみたら、内容を憶えてないからものすごく面白くて一気読みしました。そして、2回目に読んだ内容も覚えていないので、こないだ3冊目を買ったばかりです(笑)。
で、『レベル7』の後に、決定的な第3の出合いがあったんです。