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中上健次没後30年 「路地」から国家と資本を撃つ 書評家・江南亜美子

中上健次(1946~92)

 没後30年という時間は、新しい作品が日々生まれる文芸界にあって、その作家の小説作品群を書庫の片隅へと沈降させても不思議はない。しかし優れた文学は、新しい文脈を与えられることでブーストされ、何度でも輝き、アクチュアルに読み継がれていく。中上健次という、1992年に46歳で世を去った作家は何を書いたのか。俊英による充実した中上論をガイドに、いま再読してみたい。

 今年の夏に出版された渡邊英理(えり)『中上健次論』は、おもに中上が「路地」をめぐって書いた小説群を、「(再)開発文学」という独自の視座から読み解いていくものである。路地とは、具体的には中上の出身地である和歌山県新宮市の地区を指すが、小説作品の場としては、さまざまな背景を持つ人々が集合して無秩序に生成された、普遍的な生活圏だといえる。
 そこは、『岬』『枯木(かれき)灘』『地の果て 至上の時』から成る、いわゆる「紀州サーガ」の舞台である。三部作を通じて主人公となる竹原秋幸は、『枯木灘』のラストで異母弟である秀雄を殺す。大阪での服役を終えて故郷に戻ったところから始まる『地の果て』で、秋幸の不在の間に故郷である路地は開発され、消え去っている。解体は、土木建設業で長らく働いてきた秋幸にとり、自分の仕事を俯瞰(ふかん)的に認識し、また開発事業で暗躍する実父への報復の念を燃え上がらせるきっかけともなるのだ。

「父」に対抗する

 こうしたギリシャ悲劇的「父殺し」の物語の予感に重ねられるように進行するのが、土地を奪っていく「国家と資本」(=父)に対抗する物語だと、渡邊はいう。実際に路地は、70年代末に同和行政事業によって(再)開発されていったが、開発が進むにつれ、江戸時代から栄えた熊野の林業は地場産業としての姿を変えざるを得ない。
 道路=交通網は整備され、熊野ではダム建設が進み、大阪や名古屋など都市圏のエネルギー需要の補完と意味づけられる。だが、そうした目的ありきの(再)開発に対し、そもそもの路地は、「『生産力』として従属化された空間や生とは異なるあり方を探求する脱国家的で脱資本的な構えでもある」。
 ダム開発は地域社会を分断させる。潤う者がいれば、熊野川の筏(いかだ)師など仕事にあぶれる者もいる。あるいはおのずから国家の「労働力」となるのを拒否する者も。渡邊のいう、こうした「アニの群れ」は、(再)開発の植民地的な暴力性を可視化させる力を持つ。その一方で女たちの搾取にも加担するが、『地の果て』で「群れ」がどのように表象されてきたのか、本書はその検証にもぬかりはない。

作品を捉え直す

 戦後の高度経済成長期の、その国家主導の「成長」に乗り切れなかったマージナルな人間たち――被差別部落出身者や在日外国人、女性といった存在に焦点を当て、中上作品を「(再)開発文学」として捉え直す本書はスリリングだ。中上の無意識を借りて、近代のどんつきのさまを見つめることを可能にする。
 『地の果て』を上梓(じょうし)した翌年に中上は、ペシャワールなどを精力的に旅し、その逸話を興奮気味に公開講座で披露している(『現代小説の方法』)。『地の果て』で路地を消滅させた中上は、『千年の愉楽』で豊かな語りと物語の世界を(想像的に)回復させたものの、喪失した「路地」の問題が頭から完全に離れることはなかったのだろう。大きな震災を幾度となく経験した日本の(再)開発施策について、存命であれば彼が何を言ったかとの想像は、ついしてしまう。
 ちなみに『地の果て』発表当時の評価に納得がいかない様子の中上に、後世素晴らしくクリティカルな評論が出ますよと魂をなぐさめてやりたくなる。=朝日新聞2022年10月29日掲載