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「人間椅子」和嶋慎治さんの孤独に深く刺さった色川武大・阿佐田哲也の矜持

『色川武大・阿佐田哲也ベスト・エッセイ』(大庭萱朗・編、ちくま文庫)

 何を読んでも面白くなかった。ちょうど貧乏のどん底にいた頃の話だ。日銭を得ることに汲々として、小説の筋書きなど遠い世界の出来事にしか思われない。そしてそれが絵空事であればあるだけ、いっそう白けた気持ちになり、時として苦痛すら覚えた。

 観念的なものならかろうじて読めた。ショーペンハウエル、セネカ、ニーチェ、分かったような分からないような塩梅だったが、娯楽性が少ない分だけ、心が落ち着いた。つまりその頃の僕は、大方の人がこぞって求める慰労、遊興、気晴らし、そういったものを半ば嫌悪し、あえて遠ざけ、また享受する資格もないと思っていた。そのぐらい、当時の僕の生活は惨めで、孤独だった。

 病院の待合室で、少年漫画誌を手に取った。そんな習慣はなかったから、本当に偶然だ。ペラペラとめくるうち、一つだけ琴線に触れるものがあった。『哲也~雀聖と呼ばれた男~』──少年漫画らしからぬ不健全な内容に妙に感心し、頁を繰る手が止まらなくなった。そうだ、娯楽を拒んでいるようでいて、その実僕は飢えていたのだ。

 阿佐田哲也の小説が原案になっているらしい。漫画喫茶で『哲也』を一気読みした帰り、では原本にもあたってみるかと、『麻雀放浪記』全4巻を古本屋で購入した。誰もいない、鼠だけが出迎えてくれる高円寺の安アパートに帰宅し、早速目を通してみる。

 時の経つのも忘れた。小説ってこんなに面白いものだったのか。特に青春篇──これほどまでに、青年期の焦燥、渇望、蹉跌が生々しく描かれた作品は、いまだかつて読んだことがない。文体も誰の模倣でもない。熱に浮かされたようになって、次々と阿佐田作品を読破した。

 ふと、麻雀に不案内なことに中途で気が付く。麻雀知らずば阿佐田を語るなかれと言わんばかりに、必死でルールを覚えた。その甲斐あって、当時のアルバイト仲間たちと深夜の雀荘で卓を囲むことが出来たのは、僕にとって勲章のように煌めく思い出となった。

 阿佐田哲也は、麻雀小説を書く場合の筆名である。本名は色川武大、こちらで純文学をものしている。僕が阿佐田から色川へと読み進むのは、当然の帰結であった。

 色川本人の言によると、阿佐田哲也と色川武大はレコードのA面B面なのだそうだ。ヒットしてしかるべき曲が表ならば、阿佐田がA面ということになろうが──いずれにしろ、やはり同じ作者としか思えない通底するものがある。

 一般常識からかけ離れた独自の視点。『怪しい来客簿』収録の「門の前の青春」では、山が怖いと述べている。普通なら山は美しい、だろう。それを色川は異形、凶相と形容する。 

 この特異な視点の事情は、色川が井上陽水に語った創作術によく表れている。「灰皿を描くとして、ただ写しては駄目だ。灰皿を中心に円を描き、それを外から小さくすることによって、灰皿は浮かび上がるんだ」おそらく、自由な感性による新たな価値観の創造を言っているのだろう。したがって、一見ニヒリズムでありながら、色川の文体は常に瑞々しく新鮮である。阿佐田哲也の作品が、悪漢小説(ピカレスクロマン)と呼ばれる所以もここにあろう。

 自己への執着、絶対的な孤独。『生家へ』において、繰り返し語られる主題だ。小学校の教室で、独り指相撲に勤しむ「私」。万年床の自室で、猫や鼠と交流したつもりになっている青年の「私」。寒々しいまでの孤独感だが、同じく孤独だった貧乏時代の僕にとって、それはどんな小説よりも閉塞した自分を慰めてくれるものとして映った。

 色川お得意の語彙に、「屈託」「拘泥」「矜持」がある。まさに我執と孤独に連なる言葉だが、それはそのまま近しい人にも向けられることになる。

 旧友の結婚式で、「私」は鬼の形相で無言を貫き通す──「門の中の青春」。

 弟の結婚式で、「私」は次のように心中で呟く。こんな程度の晴れがましさを本気で受け入れちゃ駄目だぞ。式次第で生きるなよ。後はどうやってはみ出していくかだ。淋しく生きるなよ──『百』収録「連笑」。

 場にそぐわない、重たい空気を醸し出す男の姿だ。だが他人事とも思えない。姉の結婚式で、僕は笑えもせず言葉を発することも出来なかった。従妹の結婚式で見た、新婦の兄である従弟は、いつかの僕のように終始無言でうつむいていた。有り体の態度を取れない人間もいるのだ。色川の述懐は、本当に生きるとは何か、を考えさせずにはおかない。当たり前ではなく本当に生きる、色川が終生父親を描かざるを得なかったのも、そのことと無縁ではなかろう。

 幻想性。色川がナルコレプシーであったのは有名な話だ。ゆえに、夢と現実が錯綜する傾向が色川作品には顕著である。『喰いたい放題』収録の「あつあつのできたて姐ちゃん」は、エッセイなのか創作なのか回想なのか、何とも形容し難い、まるで夢を見終わった後の茫然自失感にも似た、不思議な余韻の残る佳作である。ころころと話題が変わる様は、あたかもホフマンの短編のようだ。

 現実の曖昧さは存在の危うさを生む。しかしながら、先の創作術に従って言えば、それはむしろ実存を浮き彫りにすることでもある。切実なる実存への希求が、淡々とした筆致で『狂人日記』には描かれている。いみじくもあとがきで本人が述べた言葉──孤独の深さ、静けさ、その底に含まれる優しさ──まさしく書きたかったことだろうし、また色川が稀有な幻想作家であったればこそ、これらは書き得たのだ。

 阿佐田哲也と色川武大はレコードの両面である。どちらも色褪せず、どちらも恐ろしく、どちらも市井の名もない人を慰めずにはおかない。そして僕にとっては‥‥色川武大がA面である。