荒れ果てた家に思わず足を止めました。
雨戸がはずれ、畳はなく、ほこりまみれの床板が剥(む)き出しになっています。奥の方に見える水色のタイル貼りの壁が唯一の色彩といった、黒褐色の家でした。廃屋は斜面地の路地を歩いていたら突然現れたのです。
一番見晴らしがよく、日当たりもいい高台一帯に墓地が広がっていることは、長崎ではよくあります。家々はその下の斜面に密集し、狭い路地が縦横に巡っています。わが家の墓地もかつて丘の頂にあり、今はふもとの菩提(ぼだい)寺の納骨堂に墓は移しましたが、景色がすばらしいので、天気さえ良ければ墓参りのついでに坂を上がってみます。
廃屋はその途中、路地の一角で偶然見つけたのでした。
下町風情ただよう路地の風景は、自分の中の最も古い記憶につながっています。父方の祖父母の家があり、三歳か四歳のころ、二つ下の弟が病気になって、私は祖父母のもとに預けられたことがありました。物心のつかない幼い子どもに大人の事情がわかるはずもなく、石段に座りこんで迎えを待っていたと母に教えられました。そのときの親を待ち焦がれる、せつない気持ちだけが、今も記憶にぼんやり残っています。
当時のその一帯の様子を地元のテレビ局のニュース映像で見たことがあります。坂道の登り口には生鮮や乾物などを売る店が集まった市場があり、狭い路地にも店が軒を連ねていました。銭湯もあれば飲食店もあり、朝夕、通勤の人々や買い物客が肩をすりあわせるようにして行き来し、活気があってにぎやかな通りだったようです。
お盆の墓参りの記憶は、小学生の頃から毎年訪れていたので、わりとはっきり覚えています。墓参りなのに午後に出かけ、それもまず墓の近くの親戚の家に立ち寄り、寿司や冷たいそうめんなどを御馳走(ごちそう)になり、夕暮れになって涼しくなるとようやく花火をもってお墓に行きます。夜の墓参りは子どもには幻想的な体験でした。線香を焚いて手を合わせたら、花火をしたり、爆竹を鳴らしたりし、大人たちは花火の煙とうちわで蚊を追いながらビールを飲んでけっこう遅くまでにぎやかに過ごしました。
爆竹の音を聞きながら、花火の光を見つめ、影となった人々の中にいると、生きている人々と亡くなった人々の境がとけていくような遥かな心持ちになりますが、恐ろしさはまったく感じませんでした。
死ぬことがそのまま消滅とはならず、多くの人々は記憶の中で生き続け、現実なるものの半分くらいは、実はその記憶がまじっていることを、子どもなりの直観で、なんとなく理解していた気もします。亡くなった人々がかたわらにいるといった感じは、水面に影が映るといったようなごく自然なことでした。
母方の祖父は、真夜中、仕事帰りに路地の地蔵堂に花嫁が立っているのを見たそうです。花嫁はふりかえった瞬間、青白いヒトダマになって浦上の方に飛んでいったといい、祖母は、原爆と結びついた想像なのでしょう、「なんか心残りがあったとやろうね」と幽霊がコミュニケーションを求めているような受け止め方をしていました。
廃屋から一気に急ぎ足で頂の公園まで上りました。路地ですれちがう人の姿はなく、荒れ果てた家屋の光景が妙に心に残って、自分の内にもがらんとした空洞がひろがっているようにも感じ、港のおだやかな景色にほっとしました。
十一月の暖かな日で、冬といっても空の色や海の色は今も昔も変わりません。足元の枯れた草の中にインクを垂らしたように鮮やかな紫の花が点々と咲いていました。調べてみたらノボタン、特に濃い紫のその色はシコンノボタンのようです。人がいなくなって家々がなくなっても、花は咲くのです。=朝日新聞2022年12月5日掲載