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阿部暁子さんの読んできた本たち 初めて本格的に書いた小説は、源頼朝と義経の短編だった(前編)

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「物語が好きな子供」

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

阿部:「まんが日本昔ばなし」の絵本だったと思います。小さな正方形の絵本のシリーズで、母がどさっと買ってくれて。それを読んで育ちました。

――ああ、テレビでアニメが放送されていたシリーズの絵本版ですよね。阿部さんの小さい頃も放送されていました?

阿部:放送されていました。もう大好きでした。
 それと、どこの出版社から出ていた本か分からないんですが、「ピノキオ」や「トム・ソーヤの冒険」などが載っている、藍色の地に金色で絵が入った表紙の綺麗で立派な本があったんです。まだ漢字が読めない頃だったので、それは絵を眺めていたように思います。
 絵本ではないんですけれど、私、小さい頃から物語が異様に好きだったらしく、一桁の歳の頃、寝る前にいつも「こどもちゃれんじ」のテープを聴いていたらしいです。なにかのお話が入っていたんですよね。「こどもちゃれんじ」のテープか『ドラえもん』のお話のテープをかけていると、黙って聞いていつのまにか寝ていたそうです。

――阿部さんはどんな町で育ったのでしょう。

阿部:宮沢賢治が生まれた岩手県花巻市で育ちました。周りに自然が多いので、昔話を聞いていても普通にそのへんで起こりそうだなと感じていました。
 小さい頃からわりと、空想力が強めだったようです。だから「まんが日本昔ばなし」でも怖い話が放送された時は頭の中でどんどんそれが展開して、夜眠れなくなったりしていました。なんか、昔話の怖い話って、骨の髄に沁みる怖さがありました。

――怖がりな子供でしたか。

阿部:人間は恐れないけれど、神仏幽霊は恐れるみたいなところがありました。「いちばん怖いのは人間だよね」みたいなことを大人が言っているとイラっとして「そんなことはない!」と食ってかかる子供でした。「そんなこと言って、ダイダラボッチが襲ってきたらどうするんだ!」って真剣に思っていました。

――小学校に入ってからは。

阿部:親が買ってきてくれた「クレヨン王国」のシリーズが大好きでした。『クレヨン王国の十二か月』が家にあったので読んだらもう面白くて、母に「これが面白い」ってすごく訴えたらシリーズをどさっと買ってきてくれたんです。
 それと、私はぼんやりした子供だったので、学校に図書室があるということに気づいていなかったんです。そうしたら、最初の成績表に「図書室を利用しているか」という評価があって、ABCDでCをつけられたんですよ。それを見た時に、イラ~ッとしまして(笑)。「図書室がありますよ」とも「使っていいですよ」とも言われていないのにそんな評価をされても、と憤然としながら図書室に行ってみて、「なにこれ自由に読んでいいの?」とびっくりして。
 図書室で借りた本でいちばん印象に残っているのは『コロッケ天使』でしょうか。ジョッキーを目指す男の子と、転校生の女の子の話だったと思います。熱々のご飯にコロッケをのっけてソースをかけて食べるというのがすごく美味しそうでした。私も食いしん坊だったのでよく憶えています。そういえば、その頃同時進行で父が持っていた『美味しんぼ』をよく読んでいました。

――国語の授業は好きでしたか。

阿部:国語はすごく好きで、教科書も舐めるように読んでいました。授業中も別のページを読んでいるので、当てられても分かっていないことがありました。
 とにかくぼんやりした子供だったんですが、でもある時突然、先生に税金についての作文を書きなさいって選抜で命じられて、「なぜ?」と思いながら書いたらちょっと賞をもらったことがありました。でも、ちょっと理不尽な感じがするんですよね。私が書いたものに先生が赤を入れて書き直しさせられて、それで私の名前で賞をもらうっていうのもおかしな話だなって思っていました。

――ぼんやりしていた、と繰り返されていますが......。

阿部:本当にぼんやりしていたんです。「今日は学習発表会の練習があるから放課後は〇〇教室に行ってね」と言われて「はーい」って返事をしておきながら、ふらふらっと帰ろうとして「ちょっとなにやってるの」と言われたりする子供でした。
 それと、土曜日の午前の授業が終わると走って帰って祖母と「遠山の金さん」を見ている子供でした。時代劇はよく見ていたんです。「遠山の金さん」「水戸黄門」「三匹が斬る!」「銭形平次」が時代劇四天王だと思っていました。ちなみに水戸黄門の二代目、西村晃が私の初恋の人で、「格好いい」と思いながら見ていました。
 とにかくトレンドに追いつけていなかったですね。周りの女の子とあまり話を合わせられなくて、いつも静かに笑ってみんなの話を「うんうん」って聞いている感じでした。

――本や時代劇以外に、好きだったアニメやゲームなどはありましたか。

阿部:ジブリ作品は私の血であり骨である、みたいなところがあります。小さな頃から「風の谷のナウシカ」が大好きでした。親が「となりのトトロ」を見せようとしても「こっちがいい」と言って「ナウシカ」を見ていました。
 うちではあまりゲームという文化がなくて、小学校5年生の時にはじめてゲームボーイを買ってもらったんですけれど、画期的すぎて我を忘れて1週間ずっとやっていたら視力がガタ落ちしたことがありました。

――空想力強めだったとのことですが、自分でお話を作って文章にしたことは?

阿部:それが、ないんです。小学校の時に自分でお話を作ってみましょうという授業があったんですけれど、私はその時何も浮かばなくて、教科書に載っていた話を、主人公の名前とストーリーの展開3か所くらいを変えただけのものを提出し、先生になにか言われるかなと思って1週間くらいドキドキしながら暮らしていました。だから、ぜんぜん、お話を作れるような子供じゃなかったんです。

――じゃあ、小説家になりたいとも思っていなかった...。

阿部:ぜんぜん思っていなかったです。

「貪るように読んだ漫画」

――ごきょうだいは? 本の貸し借りなどされていたのかな、と。

阿部:姉がいますが7歳上で年が離れているので、一人っ子が2人いるような感じでした。ただ、姉が読んでいた「マーガレット」はこっそり読んでいました。尾崎南さんの漫画が載っていたりして、知らない世界をのぞいた気分でいました。

――ほかに好きな漫画作品などはありますか。さきほど『美味しんぼ』も挙がってましたが。

阿部:生まれてはじめて読んだ漫画は姉が持っていた『あさりちゃん』だったんですけれど、そこで初めて漫画というものに触れて、画期的だと思ってびっくりしたんです。そこから家にあった姉の漫画を貪るように読んでいたら、それを見た母が秘密の自分の本棚を見せてくれたんですね。そこにずらりと並んだ『エースをねらえ!』全巻(笑)。1巻を読んだとたんに「うおっ」となって一気に全巻読み、私ののめり込み具合を見た母が、小学6年生の時の誕生日プレゼントに『ベルサイユのばら』の文庫版を全巻買ってくれました。その頃、学校で放課後の運動クラブみたいなものには入っていたんですけれど、「お腹が痛い」と嘘をついて家に帰って読んでいました。

――素敵な誕生日プレゼント。

阿部:渡された時、すごく嬉しかったですね。なんかもう、『源氏物語』を手にした菅原孝標女みたいな感じでした(笑)。
 同時に、CLAMPさんの『X』という終末ものの漫画を読んで、そこではじめて沼に落ちるという体験をしました。自分でも漫画を描きたくなったんですけれど、致命的に絵心がなかったために、自分で下手なイラストをつけて、小説もどきを書き始めました。それが小学校6年生の終わりから中1くらいの頃ですね。

――では、中学時代の読書生活は。

阿部:背伸びをしようとして、母の本棚にあったヘッセの『デミアン』なんかをこれ見よがしに教室だけで読んでいたような...。

――教室"だけ"。(笑)

阿部:「私、文学少女なのよ」って顔をしたかったんです(笑)。でも、これ見よがしであっても、『デミアン』は面白かったです。
 中学時代はいろいろ読んでいた記憶があります。たまたま書店で目に留まった小野不由美さんの「ゴーストハント」シリーズを読んだ時は、五感というか、感情をものすごく動かされて。そういう読書体験をしたのがはじめてだったので、小野さんがどういう作家かも知らずに「すごいなこの人」と思っていました。

――書店にはよく行っていたのですか。

阿部:いえ、ごくたまに、でした。ただ、当時は近くのスーパーに書店コーナーがあって、わりといろんな本を置いていたんです。そこになんとなくフラフラ行って、目についた本を手に取ることはありました。

――小説以外ではどのような読書を。

阿部:神戸連続児童殺傷事件が起きてしばらく経った頃だったので、それ関連の本を読んだりしました。自分と歳が近い人が起こした事件だったので、怖いと思って。なぜなんだ、ってことを知りたかったんですけれど、結局、なぜかは誰も分からないんだということだけ分かりました。

――ところで、こちらの勝手な先入観なんですが、花巻市で育ったということは、学校などで宮沢賢治が取り上げられることって多かったんでしょうか。

阿部:はい。花巻市民たるもの「雨ニモマケズ」を諳んじられるようになれ、みたいな感じの授業がありました。合唱コンクールでも「雨ニモマケズ」に旋律をつけたものを歌う文化があったりして。ただ、それで少し食傷気味になって、逆に賢治作品からはしばらく遠ざかりました。社会に出て周囲から「え、花巻市出身? 私すごく宮沢賢治大好き」と言われたり、「賢治記念館に行った」とか言われても「へえ.........」みたいな反応をしてしまうという。

――高校に入ってからは。

阿部:高校の国語の教科書に、あの名作が登場したんです。芥川龍之介の「羅生門」です。これを読んだ時に「面白い」ってびっくりして、「芥川ってなんか聞いたことあるな、すごい奴だな、龍之介やるじゃん」となって。今ならお前何を言っているんだと思いますけど(笑)、とにかく衝撃を受けたんです。
 最後、老婆が門の上から、逃げ出す下人を見下ろすところがはっきりと映像で見えたんですよね。それが衝撃でした。やっぱり、人間の綺麗な部分ばかり語られても嘘だろうと思ってしまう年頃だったので、こんな生々しい、人間が心の奥で抱えている暗いものを、あんなに面白く切れ味鋭く書かれているのがすごいと思ったんだと思います。しかも、昔に書かれたものなのに今読んでも面白いという。そして芥川龍之介の追っかけみたいになっていろいろ読み、自殺したと知ってショックをうけたりしていました。
 そこから他の古典を読むようになったかもしれないです。太宰治なども読みましたが、当時はあまり気が合わないなと感じました。気が合う合わないというほど読んだのかと言われるとそこまででもないんですけれど。高校でも「芥川派か? 太宰派か?」みたいな話になりましたが、私は芥川のほうが好きだと思っていました。
 あ、でも『斜陽』は面白かったです。

――『人間失格』はどうでしたか。10代であれを読んだ時の反応って、人によって分かれますよね。

阿部:そうなんですよね。当時は正直、「まったく共感できない」みたいに思っちゃった部分があるんです...。でも今読むと、あの人間の駄目さを否定しないところはすごくいいなと思うんです。自分は駄目だと思う経験をしてきた今、太宰を読むと、すごく分かる、と思います。

――高校時代は、本の話ができる友達はいましたか。

阿部:はい。古典文学が好きな仲間ができたりして。私は吹奏楽部だったんですけれど、まるで文芸部であるかのような顔をして文芸部に出入りして、そこに小説を書いている人がいたりして、楽しかったですね。

――吹奏楽部だったのですか。

阿部:小学校高学年の時に、女子は金管バンドに入るか、ポンポンを持ってチアリーディングをするか選ばなければいけなかったんです。それで、私は金管バンドを選んでトランペットをやっていたんです。トランペットは吹いてみたらすごく面白かったので、中学校も高校も吹奏楽部でした。

「高校時代に書いた短篇」

――小説を書きはじめたきっかけは。

阿部:本格的に書きはじめたきっかけは、歴史の参考書なんですよ。高校受験の時に歴史の参考書を読んでいたら、源義経が藤原秀衡を頼って平泉に落ち延びていくとあり、岩手県民なのに恥ずかしながら「平泉? なんか聞いたことあるな」と思って。母に「平泉って知ってる?」と言ったら、まあ呆れた顔をされて、「車で1時間行ったところにあるでしょ!」って言われて、「え、義経そこにいたの? そこで死んだの?」ってびっくりしたんですね。
 参考書で兄・頼朝に追われた義経が平泉に落ち延び、しかし泰衡に討たれて云々という記述を見た時に、歴史上起きたことの点と点の間がすごく気になったんです。なぜ頼朝は義経を嫌ったの?とか、なぜ泰衡は自分のお父さんが助けた人を討ったの?とか。その「なぜなぜ」っていう興味がきっかけとなり、はじめて書いたのが、頼朝と義経の短篇小説でした。それを全国高等学校総合文化祭の文芸部門に応募したら、入選のいちばん下にひっかかったんですね。それで講評に、「話の展開は安易であったが、作者の筆力を感じた」って書かれてあって。生まれてはじめて自分が書いたものを読んで感想をもらうという体験をしたんですが、あれでもう「小説を書くのって面白いかも」となったんです。

――兄弟の確執とか別れを短篇に仕立て上げたわけですか。

阿部:そうですね。頼朝の義経に対する「嫉妬」とか、それでも消せない義経の兄への「思慕」とか。そういうものに自分が萌えるんだなってはじめて自覚したかもしれません。
 それで、高校総合文化祭の文芸部門に応募するのが毎年のならいとなりました。母のワープロで原稿用紙30枚くらいの短編を1年に1回書いて、高1の時は入選のいちばん下でしたが、2年の時は県で最優秀賞をもらい、それで味をしめてまた書いたら、3年の時は最優秀賞をもらいました。

――全国で1位ってことですよね。すごい。2年生の時と3年生の時は、それぞれどんな内容だったのですか。

阿部:2年の時は、浅井長政と、信長の妹のお市の方と、信長の話です。その頃、時代ものに萌えを感じていろいろと読んでいたんです。本能寺ものを読んだり、高橋克彦さんの『炎立つ』を読んでキュンとしたり。どうも私は、熱い感情がぶつかり合ったり、敵と味方なんだけれども互いに認め合う、みたいなところがすごく好きみたいです。だから北方謙三さんがすごく好きなんです。北方さんの小説って、ハードボイルドが極まっているのに、あんなにキュンとするのはなんでだろうと思います。
 3年の時に書いたものは、ウィーンが舞台でした。宮廷音楽家のおじさんが、身よりのない少年を保護したところ彼にすごい音楽の才能があると気づき、衝撃を受け、嫉妬しまくり、やがては彼が作った曲を自分のものとして発表しようとするけれども、教会でキリストの肖像を見て「神が俺を見ている」と感じて思いとどまる、みたいな話です。当時、桑原水菜さんがコバルト文庫から『赤の神紋』という演劇を題材にしたシリーズを出されていて、それを読んだら、「嫉妬、羨望、しかしそれでも消すことのできない思慕!」みたいな、私の好きなものがいっぱい詰まっていて、ハマりにハマっていたんです。それで自分も人間の強烈な感情を書きたくなったんです。

――そして全国1位となって。小説家になりたいと思うようになったのでは。

阿部:高2までは思っていなかったんです。小説家なんて一握りの才能のある輝ける人しかなれない職業だから夢見るのはやめておこう、って。
 でも全国で最優秀をもらった時に、表彰式に出るために東京に行ったら、どなたか忘れてしまったんですが現役の作家の方が講評してくださって、私の作品についていろいろ話したうえで、「書き続けていたらいつか小説家になるかもしれない」って言ってくれたんです。それを聞いた時に、「そうだ、私、小説家になりたいんだ」って認めた感じでした。
 そんな大事なことを言ってくれた方が誰だったのか、どうして忘れちゃったんだろう...。これが小説なら、知らず知らずのうちに交流を持って、「いつかのあの人はあなただったんですか!」となりそうですが、今でもどなたか分かりません。

――ふふふ。そこから、新人賞への応募もはじめたのですか。

阿部:はじめました。コバルト文庫の賞に応募しました。長篇が対象のロマン大賞と中篇が対象のノベル大賞があったんですが、高校2年生の冬、ロマン大賞に出すために一生懸命母のワープロで書いて、でも感熱紙は駄目なのでスーパーのプリンターでコピーしなくてはいけなくて、締め切りの朝になって学校に行く時間なのにコピーが終わらず、「今日の消印じゃないと駄目なの」って泣きべそをかいている私を見た母が呆れて、「やっておくから学校に行きなさい」って協力してくれて。その日は学校に遅刻しました。

――応募先にコバルトの賞を選んだのはどうしてですか。

阿部:コバルト文庫が好きだったのと、自分が書くものはやっぱり、「小説すばる」などで引き取ってもらえるものじゃないという自覚があったんですよね。でも、コバルトの賞は「なんでもこい」みたいな懐の深さがあったので、それで応募しました。私、有名になったら観阿弥・世阿弥の話を書こうという野望があって、コバルトならそういう話も書けるんじゃないかと思って。それで大学4年になるまで毎年送っていましたが、駄目だったんです。

――そんななか、他に、高校時代に読んで面白かった小説はありますか。

阿部:伊坂幸太郎さんにハマりました。書店でたまたま見つけた『重力ピエロ』を読んで、「こんな話読んだことない、すごく面白い」となり、他の作品も読むようになりました。

「大学時代の読書と作家デビュー」

――大学進学で北海道に行かれたそうですね。

阿部:はい。大学の図書館がすごく大きかったので、入り浸っていました。

――北海道の大学、というのは決めていたのですか。

阿部:東北よりも南下すると暑くて生きていけないので、北上する道を選びました。都会に出たいという気持ちもありました。センター試験の後期で受かった他県の大学もありましたが、遠くに行ってみたくてそちらを選びました。

――大学時代の読書生活は。

阿部:やっぱりデビューしたいという気持ちがあったので、いろんな作家さんのデビュー作を読んでいました。ぱっと思い出すのは吉田修一さん。吉田さんの本がすごく面白くて読んでいた記憶があります。

――『最後の息子』とかですか。吉田さんは文學界新人賞出身ですが、エンタメか純文かは気にせずに読んでいたということですか。

阿部:ジャンルは気にしていませんでした。なにを読んだらいいのか分からなかったので手あたり次第気になる小説を読んでいた気がします。
 その頃から三浦しをんさんの小説を読むようになって、端正で柔らかいのに強い感じに憧れていました。『私が語りはじめた彼は』がすごく好きでした。あれは連作短編の形でいろんな話が入っているのに、全体でひとつにまとまっているところがすごいなと思って。あと『秘密の花園』も好きでしたね。

――『私が語り始めた彼は』は、三浦さんの作品のなかでは、なんというか、しっとり系といいますか。

阿部:そうですね。あれがはじめて読んだ三浦さん作品だったので、その後エッセイとかを読んで、明るくてびっくりしたんです。そうした三浦さんのチャーミングな部分と、『私が語り始めた彼は』などのしっとりした面との振り幅に弱いのかもしれません。三浦さんのことは好きすぎて、その後もせんだい文学塾にいらっしゃると聞けば仙台まで聴講に行って、遠くからじっと見つめています。
 大学の時は他に、三浦綾子さんの『氷点』も読んで、あれも衝撃を受けました。サスペンスに触れたのはあれが初めてでした。もしかしたらそのへんで起きてもおかしくないことが丹念に描かれているだけなのに、ものすごく面白くて読むのをやめられなくて。それで三浦綾子さんの本を読むようになって、『塩狩峠』でまた衝撃を受けて。「そこで飛び込むのかお前ー!」って。
 三浦さんと同じにクリスチャンという繫がりで、遠藤周作さんも読みました。高校の時にも『沈黙』を読んでいたんですけれど、大学に入ってから目についた他の作品を読むようになりました。キリスト教徒だからとは一概には言えないですけれど、三浦綾子さんも遠藤周作さんも、人間のどうしようもなく汚い部分と、しかしすごく崇高な部分を描かれるんですよね。その振り幅に魅せられたところがあるかもしれません。

――前に別のインタビューで、『沈黙』に衝撃を受けたお話も聞かせてくださいましたよね。

阿部:はい。それもすごく衝撃を受けました。『沈黙』は、たまたま古本屋で、棚差しじゃなくて面陳で置かれていて、それが運命でした。手に取って裏のあらすじを読んで、「神の沈黙」というテーマに挑んだと書かれてあって。思春期だったので「神様がいるなら、なぜいろいろやってくれないんだろう」と考えたりもしていたので、それで読んだんです。

――大学時代、どのような作品を応募していたのですか。

阿部:歴史ものを送ったこともあれば、普通の高校生たちの話を送ったこともありました。でも駄目でした。
 大学4年生の春、就活も含めていろいろ嫌になり、大学のパソコン室で何も考えずに書きたいように書いた短篇をコバルト文庫の短編新人賞に送ったんですが、そのまますっかり忘れていたんです。そうしたらある日突然、東京03の番号から携帯に電話がかかってきたんですよ。「東京03は詐欺」と言われていたのでそのまま放置していたら、またかかってくるんです。これはと思って電話に出て無言のままでいたら、「もしもし、もしもし」「集英社コバルト文庫の者ですが」って女の人が言うんですね。慌てて「はい!」って返事をして話を聞いたら、短篇小説新人賞に入選したという連絡だったんです。
 それでまた頑張ろうと思って、就活しながら卒論とロマン大賞応募用の原稿を書いていました。

――ああ、就職活動はされたのですか

阿部:しました。当時、根暗な自分がすごく嫌だなって思っていたんですけれど、自分で自分を養えないと餓死しちゃうわけですから、面接に備え、一念発起していろいろやったんです。就活用のセミナーに行ったりして。
 あの時に、自分はその気になれば人とコミュニケーションを取れるんだと発見しました。今こうして普通に喋っていますけれど、当時はこんなことできないような根暗な大学生だったんです。でもその気になれば何とかできると分かったのが、就活での最大の収穫でした。

――では、就職されたのでしょうか。北海道で?

阿部:いえ、地元で。父の体調が悪かったので、母だけに任せておくのは無理だと思い、地元に帰ることにしました。温泉旅館に入ったんです。ただ、朝は早いし夜は遅いし、中休みはぽっかり時間が空いたりするんですけれどいろいろ大変で、小説を書く時間がまったく取れなかったんです。どうしようと思っていた時に、また、東京03からの電話がかかってきたんです。「コバルト編集部の〇〇ですが、ロマン大賞の最終選考に残ったのでご連絡です」って言われて。その後、「受賞しましたよ」って連絡がありました。

――それが2008年に刊行された『屋上ボーイズ』なんですね。

阿部:応募した時は違うタイトルだったんです。恥ずかしいんですが、ぜんぜんいいタイトルが浮かばなくて、「いつまでも」っていうタイトルで...今なら自分でもアウトだなってわかるんですけれど。
 その時にいったん、退職しました。受賞したということと、父の病状が悪くなったということもあって。
 ここまでが第1章という感じですね(笑)。

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