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作家たちはなぜホラーに参戦するのか ミステリーとの融合に新境地

東京の歴史を背景にした怪異譚

 『骨灰』(KADOKAWA)はSFハードボイルド『マルドゥック・スクランブル』や、映画化された時代小説『天地明察』などで知られる冲方丁が、初めてホラーに挑んだ長編だ。

 再開発が進む渋谷駅。その大規模工事を一手に担うデベロッパーで投資家向けの広報を担当する松永光弘は、トラブル発生の報を受けて高層ビルの建築現場に急行する。正体不明のツイッターアカウントが、「東棟地下、施工ミス連発」「いるだけで病気になる」「作業員全員入院」など、工事の不手際を糾弾するような投稿をくり返しているのだ。

 状況を把握するために単身、地下の現場深くに潜った松永は金属製のドアを発見。異様な熱と乾きに苦しめられながら、その向こうに広がる謎の空間に足を踏み入れる。うっすらと積もった灰、壁際に作られた神棚と壁に書かれた「鎭」の文字。中央に開いた縦穴、その底から聞こえる鎖の音……。尋常ならざる光景が次々と目に飛び込んでくるこの冒頭数十ページが、とにかく恐ろしい。

 そこである禁忌に触れてしまった松永は、その日以来怪異に悩まされるようになる。順調だった仕事やあたたかい家庭が死の影に覆われ、徐々に崩壊していくさまは、現代人にとって悪夢そのもの。作者はホラーの勘所を押さえた恐怖描写で、松永に降りかかる危機を生々しく描き出している。

 スケールの大きな怪異譚を支えているのは、東京は焼死者の街であるという視点だ。度重なる火事と大震災、さらには空襲によって、東京では多くの人が焼け死に、骨となって遺棄された。ある作中人物が言うように、東京の土にはいたるところ「骨まで焼かれた者の骸が混じっている」のだ。積もり積もった骨灰とそれを鎮めてきた者たちの存在が、きらびやかな大都会の呪術的・土俗的一面を浮き彫りにする。都心を歩くのが怖くなる、都市型モダンホラーの力作である。

社会派ミステリーと心霊現象という「ミスマッチ」の成功

 実力派ミステリー作家・高野和明11年ぶりの長編となる『踏切の幽霊』(文藝春秋)は、意外にも本格ゴースト・ストーリーだった。

 女性誌記者の松田法夫は「心霊ネタ」の取材のため、東京・下北沢の三号踏切に足を運ぶ。その踏切では女性の幽霊のようなぼんやりした人影が、写真やビデオ映像に収められていた。鉄道事故の犠牲者かと思われたが、ここしばらく下北沢駅では人身事故は起きていないというのだ。

 新聞記者時代の伝手をたどって調査に乗り出した松田は、1年前、踏切付近である凄惨な事件が起こっていたことを知る。幽霊はその事件の被害者なのか? 心霊現象の調査が身元不明の被害者のもの悲しい人生を照らし出し、それがある大きな事件に繋がっていくという構図は、ミステリーとしても読み応え十分。それにつれて序盤の不可解なムードは消えていくが、一方で幽霊の存在感はよりはっきりしたものとなり、読者の背筋をぞくりとさせる。

 ミステリーとホラーの融合が近年のトレンドとはいえ、硬派な社会派ミステリーに幽霊事件を絡めたのは珍しい。一見水と油のような要素がミスマッチを起こしていないのは、主人公の松田が妻を病で失っており、死後の世界に同調しがちだからだ。1994年を舞台としたこの物語において、松田は「平均寿命を考えれば、二〇二〇年代に入る頃には自分は死んでいるはずだ」と考える。つまり私たちがこの小説を読んでいる時点で、すでに松田は生きていない可能性が高いのだ。

 そうした仕掛けも相まって、生きることと死ぬこと、彼岸と此岸の境界を否応なく読者に意識させる作品になっている。死者の声なき声に耳を傾けた、胸に染み入る怪談小説だ。

怪奇な世界に魅せられた10人の文豪

 それにしても当代一流の書き手が、相次いでホラーに関心を示すのはなぜなのか。その疑問に答えてくれそうなのが東雅夫の『文豪と怪奇』(KADOKAWA)だ。

 わが国の文学史には、超自然的な世界に惹かれた文豪が数多く存在する。いや、そもそも文豪とは、「自らを取り巻く世界の不思議さと真っ向から向き合い、かれらが垣間見たこの世の秘密を、真相を、文筆という行為を通じて作品化し、われわれ読者の眼にも明らかにしようと努めた人たち」ではなかったか、と筆者は指摘するのだ。本書はそうした観点から怪奇な世界に魅せられた文豪10名を取りあげ、エッセイと名作のさわりを抜粋したミニ・アンソロジー、評伝の3パートによって紹介するユニークな文学案内。

 少年時代から心霊スポット探訪に情熱を燃やした泉鏡花、生粋のホラーマニアだった芥川龍之介、来日前から霊の世界に関心を抱いていた小泉八雲、化け物屋敷と妙に縁の深い佐藤春夫――。『放浪記』の林芙美子が取りあげられているのが意外だったが、その早すぎる晩年には自らの死を意識したかのような作品を手がけているという。なるほど、ミニ・アンソロジーに引かれた2作は、どちらも異様な迫力に満ちていた。

 太宰治が泉鏡花を愛読していたり、小川未明が小泉八雲の教えを受けていたりと、文豪同士のさまざまな接点が浮かんでくるのも楽しい。そして最終章では著者自身が、若き日に接した澁澤龍彦の言動を後世に伝える役目を担うことになる。明治から現代まで、途切れることなく続いてきたおばけずき文学者の系譜にあらためて光を当てる、怪談文芸の第一人者による好著だ。

 佐藤春夫は「文学の極意は怪談である」と語り、小泉八雲は「霊的なものには、必ず真理の一面が反映されている」と述べた。文豪にとって怪奇な題材を扱うことは、楽しみであると同時に、世界の真理に接近しようという文学的願望の表れでもあったようだ。今日の作家がホラーに惹かれる理由の一端も、そのあたりにあるかもしれない。