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ウクライナ戦争と日本 揺れた安全保障観、検証を 京都大学名誉教授・山室信一

街頭ビジョンで、ウクライナのゼレンスキー大統領の演説を見る人たち=2022年3月、JR大阪駅前

 「戦争の最初の犠牲者は、真実である」という警句が流布した第1次世界大戦は、情報戦が勝敗を分けたとも言われた。日本でも陸軍省新聞班が設置されて、後の「大本営発表」へと繋(つな)がっていく。

 その情報戦に加わったリップマンの『世論』は、自軍の「英雄崇拝」と敵軍に対する「悪魔への憎悪」がメディアによって創り出される事実に着目する。そして、複雑化した「現実環境」の実態を認識できなくなった人々が、メディアを通じてパターン化した「ステレオタイプ」を自分に都合良く取りいれ、頭の中の映像(イメージ)に過ぎない「疑似環境」の中で言動を決定するに至ると説く。人々は「見てから定義しないで、定義してから見る」ことに慣れ、少数者の「疑似環境」の中で生まれた世論が多数者の公論と見紛(みまが)われて「現実環境」を変えていく。そのメカニズムに潜む危険性を『世論』は自らの戦時体験を元に啓発している。

可能な停戦条件

 さて、1年を迎えるウクライナ戦争は、ハイブリッド戦争とも呼ばれて正規兵と非正規兵が戦い、情報戦ではサイバー戦を含めた認知戦・世論戦・偽情報戦が問題となっている。

 私たちも当初からその情報戦に巻き込まれ、プーチンという「悪魔への憎悪」と、それに対するゼレンスキー大統領への「英雄崇拝」が広がっている。

 双方に言い分はあれ、核使用で威嚇し、国際法に違反して民間人殺傷やインフラ・民間施設爆撃などの戦争犯罪を続けるプーチンの戦争に憤りが募る。

 しかし、喫緊の課題は一刻も早く停戦にこぎつけることだ。

 その停戦条件と停戦後の国際秩序を探るためには『プーチン戦争の論理』が助けとなる。下斗米伸夫はロシア語ナロード(民)を欧米的な「民族」と誤訳する世論誘導の問題点などを指摘しつつ、プーチン論理の基軸として歴史・宗教・言語観に基づく「保守主義」と文明圏・生存圏論としての「ユーラシア主義」を摘出する。二つの主義が米クリントン政権のNATO東方拡大から育まれていく政治過程については『新危機の20年』に詳しいが、プーチンの論理を満足させる停戦は非現実的だ。可能な条件は、ロシアが開戦前の状態に戻し、ウクライナの中立化を前提にするしかないと書く。

 下斗米はまたウクライナ戦争に関する欧米や日本での情報源に関し、米国ネオコン系の戦争研究所などによる情報操作に注意を促している。

 日本では昨年12月、防衛省がインフルエンサーを使って防衛政策への支持を広げ、特定国への敵対心を醸成して国民の反戦機運を払拭(ふっしょく)するなど、AIを活用する世論工作研究に着手したと報じられた(同省は否定)。

根本問題を問う

 果たして、「核の共有」「台湾有事」「NATOと同じ軍事費GDP比2%」「敵基地先制攻撃」などの議論は情報操作による「疑似環境」に基づいていないか。

 こうした論調に対し『非戦の安全保障論』は、そもそも国を守るとは何か、国際世論の可能性は何か、といった根本問題から問い返していく。そして、エネルギー危機を口実に急転した原発政策に対して「原発は、自らに向けた核弾頭」という「現実環境」を対置させるなど、日本が「戦争を得意とする国ではない」実情を次々に剔(えぐ)り出す。

 この1年、日々ウクライナの戦禍を目にして私たちの安全保障観は揺さぶられ、政府は専守防衛政策を捨てて敵基地攻撃能力を自衛隊がもつと決めた。だが、これは一撃粉砕で戦争が終結するのではなく、日本が開戦責任を負い、反撃にさらされることを意味する。不安に駆られると自分が望む「疑似環境」で思考しがちだが、それをいかに実行しどんな結果を招くのか、慎重な検証と熟議が不可欠だ。=朝日新聞2023年2月18日掲載