本当は堂々としていたかった
――女の子でも、男の子でもない「うま」は、クラスの中で自分がどうふるまったらいいのかわからない。それは少年アヤさんの幼少期の記憶と重なる。周囲の人には、男か女か、そうでなければ何者なのかと問われ続けてきた。男でも女でもないという「ノンバイナリー」の考え方にたどりつくまで、それはずっと続いていた。
わたしはずっと、混乱するジェンダーアイデンティティを生きてきました。20歳ぐらいの時は、どちらでもない、という自分の当てはまらなさや、居場所のなさが苦しくて、「おかま」と自称していたこともありました。けれど、かえって「らしさ」を押し付けられたり、それに応えようとしすぎたりして、余計に混乱するはめになりました。「焦心日記」というエッセイの執筆をきっかけに、だれがなんと言おうと、わたしは男の子です、という宣言をしました。24歳のときでした。それによって、回復した部分や、自由になった部分も大いにありました。しかし漠然とした違和感が、実はずっと胸のなかにあったんです。
ちょうど30歳になったとき、友人からノンバイナリーについて教えてもらいました。突然のことで戸惑ってしまったのですが、「自分がどうありたいかだよ」という一言で、やっと「わからない」という感覚を、そのまま肯定することができたんです。そうか、どちらでもない、なにでもないのが、わたしだったんだと。わたしは自らの苦悩や経験を、ずっとエッセイや、エッセイに近い形で綴ってきました。けれど、ノンバイナリーという答えに行き着いたとき、まず考えたのは、子どもたちのためになにか書きたい、ということでした。
「うちは、女の子でも男の子でもない。うちは、うちなの。生まれたときから、これはずっとある、かんかくなの。こういうのノンバイナリーっていうんだって。でも服とかは、かわいいものがしっくりくるんだ。三歳のときからすきだしね。もちろん、未来になったら、ぜんぶ変わるかもしれない。まあどちらにしても、うちはうち。ただそれだけのこと。かんたんでしょ?」――『うまのこと』(光村図書)より
「一人じゃない」と思ってほしい
――子ども時代は、自分の苦しい気持ちを打ち明けたところでわかってもらえないと思っていた少年アヤさん。でもいまを生きる子どもたちに、同じ思いをしてほしくないと『うまのこと』を書いたのだという。自分みたいな子は確かに存在する。この本を通して、そのことをみんなに知ってほしかった。
大人が自分の味方ではない、という状況は、きっとマイノリティでなくとも、経験したことはあるんじゃないかな。自分を肯定してくれるであろう身近な大人にも、ほんとのことは言えない、という場合もありますよね。主人公のうまも、お母さんのことが大好きですが、ほんとのことを打ち明けたら、自分の存在が重荷になるかも、という不安を抱えています。わたしの幼少期もそうでした。いつも自分のせいで、家族との日常がこわれるかもしれない、という不安を抱えていました。
身近にいる教員経験者に、あなたのような子どもは見たことがない、と言われることもあります。が、敢えて見せていないだけで、ほんとはいるはずなんです。それを見抜くことは難しいだろうけれど、どこにでも当事者はいるということを、社会が想定してくれていたら、どんなに安心するだろう、と本を書いて改めて思いました。
一人じゃない、と知ってほしいです。実際は、現代に生きる子どもたちさえ、なんでもないという性のあり方にアクセスするのは容易ではないと思うし、物語に書いたようなハッピーエンドは難しいかもしれません。が、一人ではありません。わたしがいます。うまがいます。そして、うまの物語を、あなたのもとに届けるためにがんばっている大人がたくさんいます。どうかその事実に、ほっとしてほしい。それが一番ですね。
「うまだって、きれいなもの、すきだよ。かわいいもの、すきだよ。でも、買ってもらえない。母さんに、ほしいって言えない。うまがよわいってだけじゃない。おまえらが、いじめるからだ! 先生が、守ってくれないからだ!」――『うまのこと』(光村図書)より
――本を読んだ子どもたちは、どんなふうに感じているのだろうか。多様性や個性という言葉だけは知っていても、どうふるまったらいいのかわからない子どもは多い。『うまのこと』に触れることで、当事者でなくても、それを取り巻く環境についての気づきがある。
子どもたちからの感想もぽつぽつ届いています。印象的だったのは、「個性を発揮できないという状態は、自分には想像しづらいけれど、たしかに学校では難しいかもしれない」という示唆に富んだ感想でした。ランドセルがカラフルになっても、変わらない部分が学校にはあるのか、と複雑な気持ちになりました。
また、「わたしがこのなかにいたら、いじめっ子側だったかもしれない」と泣いてしまったお子さんの話も聞きました。わたしが想定していた以上に、いろんな感じ方があるのだと気付かされました。泣かせてごめんって感じだけど……。
当事者の子どもや、保護者の方からの感想はまだいただいていないですが、いずれにせよ、わたしは、あなたたちの味方です。それがゆっくりとでも、伝わるといいなと思っています。もし、わたしや、うまのようにジェンダーアイデンティティに悩むお子さんが身近にいるとしたら、あなたは最高と伝えてあげてほしいです。なにを選んでも、どんな装いでも、あなたは最高。自らを偽ったり、隠したりするのに費やす力を、短い子ども時代をめいっぱいたのしむために使ってほしいから。
「ここには、えらい人もえらくない人もいない。だれが、どんなかっこうをしてもいい。どんな自分でいてもいい。そういう場所を、みんなでつくりたいんだ。それに、わたしたちが自由になることは、めぐりめぐって、いばってる男子たちもすくうことになるんじゃないかって、わたしは信じてるんだよね」
うまは、ぼうえい軍とのちがいに、頭がぐわんぐわんした。こっちがいい。こっちがいい。こっちのほうがぜったいいい。――『うまのこと』(光村図書)より
多様性という言葉だけが一人歩きしていますが、それが一体どういう状態で、なにを社会にもたらすのかを理解するより先に、みんなうんざりしはじめている、というもどかしい状況があります。もう充分でしょ、みたいな。でも実際には、マイノリティをめぐる状況はそう変わっていません。メディアにおいても、いまだにステレオタイプな描かれ方をしたり、都合のいい部分だけ消費されたり。きっとわたしみたいな子どもは、きっといまもつらいんだろうな、と想像します。
物語が誰かの人生に作用してほしい
――自分のように、人知れず傷ついている子の味方になりたい、という思いから本を書く少年アヤさん。ランドセルがカラフルになっても、いまだに理解されない社会の中で、少しでも誰かの気持ちが軽くなるように「うま」を生み出した。
わたしは、わたしの作った物語が、社会を変えるとは思っていません。そんなに生やさしいものではないということは、充分わかっているつもりです。でも、本を読んで、あ、ここに自分がいる、と感じられることは、当事者にとってはおおきいことだと思うし、貴重だと思うんです。うまのものがたりが、どうかそうやって、だれかの人生に作用してほしいと願っています。また、つらい子ども時代を引きずっていたり、大人になりきれなかったような思いを抱えている大人の人たちにも、読んでみてほしいです。なんかいいことあるかもよ。
本の最後に書き記したのですが、わたしにはふだん関わっている子どもたちがいます。まずは子どもたちのために、と思えたのは、なによりあの子たちの存在があったから。あの子たちには、ぜったいにわたしのような経験はさせたくないです。させません。被害者にも、加害者にも。直接子育てに関わることはできないけれど、大人として、友人として、よいプレゼントを作れた気がしています。
どうかみんなに読んでほしいです。