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「エコフィクション」米で活況、小説が見つめる自然と人間 東大准教授・諏訪部浩一さん寄稿

約1200年の時をかけて育った原生林=山梨県富士河口湖町

 近年のアメリカで活況を呈している文学ジャンルに〈エコフィクション〉がある。日本ではまだ耳慣れない言葉かもしれないが、人間と自然の関係を主題として扱う小説のことだ。定着して久しい〈環境文学〉や〈ネイチャーライティング〉は、ノンフィクションを含むもの――むしろエッセイが中心――であり、エコフィクションという語の流通は、同様のテーマを扱う「小説」がいかに多く書かれるようになったかの証左といえるだろう。このジャンルに関心を持つ者にとっての必携書、ジム・ドワイアー『野生の本の生息地(Where the Wild Books Are)――エコフィクションへのフィールド・ガイド』(二〇一〇、未邦訳)には、アメリカの現代小説を中心に、二〇〇〇近くもの作品があげられている。

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 自然との関わりを扱う小説は、もちろん古くからある。だが、エコフィクションという言葉がはじめて使われたのは一九七一年のアンソロジー『エコ・フィクション』(ジョン・スタドラー編、同)だといわれており、ここには人間と自然の関係に関する、第二次大戦後に生じたパラダイム・シフトが読みとれる。戦後、人々のエコロジー意識を決定的に変えたのは、化学物質の危険性を環境破壊の問題と絡めて提示したレイチェル・カーソン『沈黙の春』(一九六二)だった。その警鐘は、近代(産業革命)以降の「モダン」な原理が行き詰まったとするポストモダン思想と通底していたし、また、環境問題は地球規模の問題であると同時に、まさに誰にとっても無縁ではいられない、身近な社会問題であることを示すものであった。

 いったん社会問題として認知されれば、小説はそれを積極的にとりこみ始める。人間が自然をどう扱うかという問題は、「人間同士」の問題としてとらえられるようになるからだ。したがって、現在のエコフィクションは、単に自然を賛美するようなもの(だけ)ではない(それだけではこれほど多く書かれるはずがない)。〈人新世〉という時代区分はかなり普及してきたが、人間が関与していない自然などもうどこにもないという認識のもと、社会的存在である人間の葛藤が描かれる。ディーリア・オーエンズのベストセラー『ザリガニの鳴くところ』(二〇一八)の魅力の一つは、確かに自然描写の美しさにあるだろう。だが、ヒロインが自然の中で暮らすのは、「白人の屑(くず)」と呼ばれる社会的に抑圧された階級に属するからなのであり、その点を看過してしまっては、この小説の射程を大きく見誤ってしまうのだ。

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 こうした観点からは、近年のエコフィクションが自然災害を扱っていることも特筆しておきたい。代表作は、ハリケーン・カトリーナで被災する黒人少女の成長を描くジェスミン・ウォードの出世作『骨を引き上げろ』(二〇一一)だろう。自然災害は、それが「天災」と見なされているかぎり小説では扱われにくいのだが、日本でも東日本大震災以降、数多(あまた)の「震災(後)文学」が書かれてきたのは、そこに弱者を切り捨てる「人災」を見る意識が浸透したためである。

 エコロジーの問題は、ライフスタイルの違いといって無視するわけにはいかないことを、エコフィクションはさまざまな形で教えてくれる。前掲のガイドブックには、日本人作家のものとして、長塚節『土』、中上健次「紀州サーガ」、庄野潤三『夕べの雲』、石牟礼道子『天湖』、加藤幸子『池辺の棲家』、谷口ジロー『凍土の旅人』があげられている。興味を持たれた方はこれらの作品から読んでみてはいかがだろうか。

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 すわべ・こういち 1970年生まれ。著書に『薄れゆく境界線 現代アメリカ小説探訪』、訳書にフォークナー『八月の光』など。=朝日新聞2023年2月22日掲載