「キッチンにはハイライトとウイスキーグラス」。ハナレグミが歌う「家族の風景」(2002年、作詞作曲・永積タカシ)の歌詞は、郷愁漂うギターの音色と共に、聴く人それぞれに、懐かしい日常の断片を想起させる。
とはいえ、1966年のピーク時に84%であった成人男性の喫煙者率が28%に減少した近年では、大衆向け煙草(たばこ)の代表的銘柄であったハイライトを知らない世代も少なくないだろう。
昨今のハイボールの流行でウイスキーの味を知った世代が、ウイスキーが憧れと共に一般家庭に登場した歴史を想像するのもまた困難かもしれない。高価なウイスキーが家族の風景に登場したのは、60年代以降の酒税法の改正や輸入自由化によって、憧れに手が届くようになったからである。ハイライトとウイスキーはどちらも高度経済成長期という時代を象徴する喫食(きっしょく)のアイコンであった。つまりこの歌詞は、その頃に形成された家族像を描いた歴史的記述ということになるのである。
しかし、こうした日常の風景、とりわけ個々の台所や食卓から社会のありようや変化を読み取ることができるというのは、比較的新しい発想である。これまで喫食に関わる事象は個別で些細(ささい)なものと見なされ、長らく歴史の対象ではないと考えられてきた。
肉じゃがの虚像
そうした状況に異議を唱え、食卓にこそ歴史の沃野(よくや)が広がっていると伝えたのは、自ら収集した膨大な食関係資料を駆使する魚柄(うおつか)仁之助の一連の著作である。とりわけ『国民食の履歴書』は、日本の食卓をひもとくうえで示唆に富む。「人に履歴書があるように、食にも履歴書があります」という一文から説き起こし、私たちが慣れ親しんでいる料理や調味料は歴史的産物にほかならないと、鮮やかに論じている。
同書によれば、「おふくろの味」の代表とされがちな「肉じゃが」は、70年代にようやく誕生した比較的新しい料理であり、それをあたかも「伝統」であるように印象付けたのは料理本やマスコミであったというのである。この事実の背景に、伝統的家族像を受容し、時に囚(とら)われつつ食卓を囲む、数多(あまた)ある家族の喜怒哀楽が見え隠れする。
食卓をめぐる喜怒哀楽を丁寧に描き、人の履歴書と食の履歴書が共鳴しながら時代を彩ってきたことを実感させるのは、阿古真理『うちのご飯の60年』である。
土間の台所で「食べごと」を切り盛りする1903年生まれの祖母、モノが溢(あふ)れるダイニングキッチンで多様な献立に奮闘する39年生まれの母、そして「私」が主役となる食卓を謳歌(おうか)する68年生まれの著者の三代記。それはそのまま、戦前戦後、高度経済成長、バブル経済の渦中で経験された日本の食卓60年史となっている。個々の人生は食卓を通じて社会へとつながっている。それを実感することが出来さえすれば、誰もが皆、それぞれの食経験を通じて歴史の舞台に立っているのだと諒解(りょうかい)できるに違いない。
この世の風景に
食の歴史の舞台は私たち人間だけのものではないと気づかされるのは、石牟礼道子『食べごしらえ おままごと』である。「料理」ではなく、一貫して「食べごしらえ」という言葉で伝えられる食卓の風景には、かつてはどこにでも見られた季節の彩りと土地からの恩恵、この世を満たす森羅万象とのやり取りが含まれている。食卓を「家族の風景」に閉じ込め過ぎず、この世の風景としておおらかに描き直す意味を考えさせられる名著である。音をたてて軋(きし)み始めた世界を食から繕い直すヒントが、ここにあるような気がしている。=朝日新聞2023年2月25日掲載