1. HOME
  2. コラム
  3. 旅先で本を買う。偶然の出合いが新しい物語の扉を開く グレゴリー・ケズナジャットさん寄稿

旅先で本を買う。偶然の出合いが新しい物語の扉を開く グレゴリー・ケズナジャットさん寄稿

書店が多く集まるバグダッドのムタナッビー通り=2023年3月

 旅行するたびに現地で本を買う習慣がある。有名な書店がある街ならそこを訪れることもあり、たとえば旅先に詳しい友人に教えてもらった店に行くこともあるけれど、大抵の場合、ふらりと街を歩いて、たまたま巡り合えた書店の書棚を眺めながら店内を回っていく。

 どんな本を探しているかは分からない。そもそも決まっていない。仕事柄、常に「読みたい本リスト」を頭の片隅に置いているが、こんな時は参考にしない。基本的に読んだことのない作家による、聞いたことのない作品が狙いだ。見知らない表紙に好奇心を掻(か)き立てられたらその本を手に取り、数ページを試しにめくって、目に留まった言葉に響き合うものがあればすぐにレジへ向かう。長時間吟味する必要はない。

 こんな風に集めてきた本は多種多様だが、どれも印象深く、どれもはっきりと記憶に残っている。僕は特に記憶力の優れたほうでもなく、読んだ本をすぐに忘れてしまうこともあるけれど、旅行から持ち帰ってきた本はその出合いの物語に包まれており、それだけで有意義だ。物語というものにはそんな効果がある。

 旅先で探し求めているのは多分、本そのものというよりも、偶然の出合いの刺激なのだろう。

 ここ数年の間、新しいものに出合うことが大きく変わった。本を読もうと思えば、近所の図書館や書店で陳列されたものから一冊を選び取るしかない時代がとっくに終わり、スマホを取り出せば古今東西の名作に即座にアクセスできる。どんなにニッチなジャンルの音楽でも配信サービスでは聴き放題で、映画のストリーミングサイトは僕らの趣味趣向にぴったりと合うオススメの作品を常に用意している。勿論(もちろん)、ものの出合いだけではない。ソーシャルメディアで世界中の人と友情関係を築き上げられる。孤独な気分を紛らわすためにはマッチングアプリがあり、画面をタップするだけで理想の相手を検索することができる。

 かつてないほど、出合いの機会に満ちた日々を送っている。

 ただ選択肢が増えた分、慎重に決めなければならない気になる。一生かけても全ての曲を聴けないこと、全ての人と出会えないこと、何となく分かってはいたけれど、今やブラウザーを開くたびにこの事実を思い知らされる。そこで常に最善の選択肢を取ろうと、極めて計算的に選ぶ。時間が限られているから、決断は運命に任せるわけにはいかない。本だって恋人だって、論理的かつ効率的な選択が求められる。

 理論上、このように偶然性を排除して、各分岐点で主体的な決断を下した生活は、幸せを最大限にできるはずだ。今風に言うと、生活のガバナンスを強化することで人生の向上を図るということ。しかしあらゆる分野に浸透しつつあるそんな合理的なロジックは、人生にはなかなか効かない。出合いの選択を最適化すればするほど、肝心な何かがするっと抜け出ていく。

 それは多分、偶然性そのものなのではないか。

 出合いに意味を与えるのは、往々にしてそこに辿(たど)り着くまでの物語だ。そして全く偶然性のない物語は、やや面白みに欠ける。

 今週は出張のため初めてボストンに来ている。今朝は近くの書店で、知らない作家の知らない小説を一冊買ってきた。まだ読み始めていないけれど、なんだかいい予感がする。だがそれは帰りの便の楽しみに取っておこう。今日は予定がなく、外では新しい街が待っている。=朝日新聞2023年3月29日