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「ラブカは静かに弓を持つ」安壇美緒さんインタビュー 音楽×スパイの心理劇、実在の裁判が題材に

安壇美緒さん=junko撮影

「まさか自分がスパイものを書くなんて」

 物語の主人公は、幼少期にチェロを習っていたものの、ある事件をきっかけにチェロから離れてしまった橘樹(たちばな・いつき)。大人になった今も過去のトラウマを引きずり、人と深く関わることを避けてきた。ある日、橘が勤務する著作権管理団体「全著連」の上司に呼び出され、音楽教室への潜入調査を命じられる。全著連は大手音楽教室から著作権使用料の徴収を始める予定で、橘に課せられたのは、身分を隠してチェロを習う生徒を装い、音楽教室が著作権法の演奏権を侵害しているかどうかを調査すること。チェロから12年も遠ざかっていたために、戸惑いつつもマンツーマンでチェロ講師・浅葉桜太郎(あさば・おうたろう)の指導を受けることになる。

 これは、昨年、最高裁で判決が出た実在の係争が題材となっている。ヤマハなど音楽教室を運営する約250の事業者・団体が日本音楽著作権協会(JASRAC)を相手取り、レッスン時に講師や生徒が楽曲を演奏する際の著作権料を徴収する権利がないことを求めたものだ(教師による演奏のみが演奏権の対象となり、音楽教室側に音楽著作権使用料の支払い義務が生じるが、生徒の演奏については生じないとする判決が確定)。この裁判の審理中、JASRAC側は音楽教室に潜入調査させていた職員に調査内容を証言させていた。安壇さんは、当時の担当編集者から「この事件を題材にして小説を書いてみては」と提案された。

 「1、2作目も担当していた編集者の方で、たぶん私は心理描写が長所であるという文章上の特性を把握されていたんだと思うんです。それをエンターテインメント的にパッケージングするための“派手な箱”として、スパイのように音楽教室に潜入するという提案してくれたのかと。音楽やスパイ、社会問題をかけ合わせた中で心理描写を広げたら……、と考えたら面白そうだし、同時に自分の作風に落とし込んで書けるんじゃないかと思いました」

 「まさか自分がスパイものを書くなんて考えもしなかった」という安壇さんだったが、デビュー作から作品を重ねるごとに、あえて異なったものを選ぶことで、自分の違った側面を出したいということは常に意識していたと話す。

 「スパイといえば007みたいに派手なアクションをイメージする人が多いかもしれませんが、私はもっと静かに、日常に溶け込むイメージが強かったんです。そういう場合、外面とは違う内面描写が必要になってきます。また、音楽についても、2作目で主人公のひとりがピアノをやっていて、音楽を物語のエッセンスとして使ったことがありました。この2つの要素があったから、書けそうと思えたのかもしれません」

「ラブカ」はあのお菓子から生まれた

 タイトルに使われている「ラブカ」とは、深海ザメの一種。妊娠期間が3年半という特徴を持ち、潜伏先で息を潜めて過ごすスパイのイメージに重なったという。実はこれも、担当編集者と物語の構想について電話でやりとりしているときに、手元にお菓子の「おっとっと」があり、それがたまたま期間限定「深海生物AR」シリーズで、ラブカもその中にいたという。

 「音楽、スパイ、ラブカなど、いろんな要素が5日以内に次々と出てきて、うまくまとまりました。たまたまいい風が吹いていたのかもしれません」

 著作権についても、安壇さんにとっては未知の領域。書籍や資料などを深く読み込み、理解を深めていった。

 「著作権法という学問的な難しさはありましたが、企業間の民事裁判だったので、具体的な被害者がいるものとは異なります。ナイーブさをはらんでおらず、その点では書きづらさはなかったと思います。立ち位置によって考えることは違いますし、裁判は法律をどう解釈するか、ということなので、絶対的な正義というものはなく、世の中の流れによって解釈が変わっていくものなんだな、と思いました」

信頼とは何なのか?

 橘は、明るい性格で人当たりもよく、教え方がうまい上に、チェロ奏者として尊敬できる講師の浅葉との交流を通して、チェロを弾く純粋な楽しさを思い出していく。また、同じく浅葉の指導を受ける生徒たちとの交流も芽生え始めることで、人とのつながりを拒んでいた橘の心が少しずつ開かれていくようになる。しかし、橘は浅葉や生徒たちを騙している立場であり、些細なきっかけでそのことがいつバレてもおかしくはない状況。橘は次第に、じわじわと罪悪感に苛まれていく。読み手もまた、「橘がスパイではなく、純粋にチェロを楽しむひとりの人間であればどれだけいいか」と祈りながら、スリリングな緊張感とともに読み進めていくことになる。

 ある日、橘は他の生徒たちと、メンバーの一人が経営するレストランで小さな演奏会を行う企画に加わる。みんなで集まって演奏曲を決めている時、橘はふと、全著連への楽曲の申請が必要になると発言する。料理や飲み物を有料で提供するレストランで演奏する場合、営利目的の楽曲使用になるため、著作権管理団体への申請が必要なのだ。しかし、他の生徒たちは「この規模のイベントじゃ必要ないでしょ」「そんな申請なんてみんなやってるのかしら」などと疑問を呈する。それを聞いた橘は、なぜ楽曲の申請と著作権使用料の支払いが必要かという熱弁を奮ってしまう。

 「生徒たちの疑問は、一般の人たちの素直な声でもあります。全著連のスパイとして潜入している橘にとって、著作権管理団体の存在意義というのは、彼にとってスパイ活動の大義名分であり、自分を正当化する根拠でもある。でも、どこかで橘も不安になっている部分があるから、追い詰められたネズミのように饒舌になってしまった。もし彼が、コミュニケーション能力が高くて、面の皮の厚い人間だったら、『全著連おかしいよな』と適当に合わせて流すこともできたと思うんですよね」

 橘とともにチェロを学ぶ生徒たちは、大学生から社会人までさまざま。プロを目指しているわけではなく、チェロが好きで、仲間と一緒に音楽を楽しむ時間に価値を見出しているからこそ、なんとか時間をやりくりしながら続けている。本作では、大人にとっての習い事とは何か、何のために学んでいるのか、ということについても考えが広がる。

 「大人の習い事って、私はもっと身近なものになってもいいと思ってるんです。社会人が仕事に忙殺されて、それを繰り返しているうちに人生が終わってもいいのか。それは私たち個人が悪いのではなく、社会が悪いと思うんです。人生と労働が直結されすぎているけど、もっと生活以外の大事なものに目を向けられるような社会であってほしい。全然上達しなくてもいい、やりたいからやっている、楽しいからやる、といったことだけでいい、そういうのがあるかないかで充実感とか満足度も変わってくると思うんですよね」

 橘は、皮肉にもスパイという潜入行為によってチェロを弾く楽しさや浅葉たちと出会い、そこに一筋の光を見出すようになる。しかし、2年間という潜入期間が終わればそれらを手放さなくてはならず、浅葉たちを裏切ることを意味する。それは潜入前から明白だったことであり、その瞬間は刻々と近づいていく。

 「スパイものの作品で、正体がバレてしまうかも? という展開はよくあることで、どうするかは橘本人に頑張ってもらうしかない。マンツーマンレッスンという時間を重ねることで、浅葉との信頼関係が少しずつ醸成されていくわけですが、私も書いていくうちに、終盤になって信頼とは何なのか? ということを意識するようになり、そこに物語を収束させていったのだと思います」

 どんなに深くて暗い深海にあっても、希望という名のかすかな光は確かに存在している。安壇さんは、スパイものを軸にチェロの美しい音色、トラウマを抱える青年の心理描写、信頼と希望などといったさまざまな要素を緻密に織り込み、極上のエンターテインメント作品へと昇華させた。読了後、深い感動と余韻が心に響き渡る。橘が最終的にどういう決断をしたか、ぜひ最後まで読んで見届けてほしい。