明るい日差しの中で、並んで腰かけながら、養老さんがあれこれ話をしてくれる。どうも世間というものになじめず、死体と虫の方が落ち着く、とか。でも論旨は明確で、思わず「養老哲学」と、本人が嫌がりそうな言葉を言いたくなる。
自然には二つと同じものがない。桜の花だって、一つひとつよく見れば違っている。でも、みんなばらばらでは人間が生きていくのに支障があるから、それを「桜」として言葉でまとめあげる。言葉にするから、ものごとの道理がわかってくる。そこで養老さんは言う。わかろうとする努力は大切。でも、わかってしまってはいけない。
同じものがない自然を、言葉は同じものとして括(くく)る。たんに「桜が咲いている」という情報として受け取り、ものごとを自分たちの意識(脳)の中で記号化していく。そうしてしだいに自然そのものから離れ、記号の方がリアリティをもち、記号をはみ出していくものはノイズとみなされる。これを養老さんは「脳化社会」と呼ぶ。
脳化社会はさまざまな病理を生む。変わらない確かなものを求めるあまり、変化と偶然を拒否してしまう。コントロールできないものをノイズとして切り捨てようとする。自然にこそ個性はあるのに、個性を不自然なところ――他人と違う感性や考え――に求めようとする。私はそのいちいちに頷(うなず)かされた。
自然とつき合う一つの形を里山に見ることができる。里山は手つかずの自然ではなく、人が手を入れてきた自然である。そしてこの「手入れ」ということの根っこには、人間自体が一つの自然として自然と共鳴するという態度がある。
養老さんは、毎日の手入れには努力・辛抱・根性が必要だと言う。いや、養老さんの口から「根性」という語が出てくるとは思わなかった。自然には努力も辛抱も根性もない。してみると、これは養老さんの中に居残っている不自然成分が言わせたに違いない。=朝日新聞2023年4月15日掲載
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祥伝社・1760円=8刷7万部。2月刊。「著者のメイン読者層より少し若い、30~40代の男女に読まれている」と担当者。