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「また会う日まで」書評 「人間の原像」を捉えようとして

評者: 保阪正康 / 朝⽇新聞掲載:2023年04月29日
また会う日まで 著者:池澤 夏樹 出版社:朝日新聞出版 ジャンル:小説

ISBN: 9784022518972
発売⽇: 2023/03/07
サイズ: 20cm/723p

「また会う日まで」 [著]池澤夏樹

 本書の最終頁(ページ)を閉じたあとに、読者の胸に去来する思いは何か。歴史、軍事、宗教、生と死、血脈など、さまざまな面での感情の迸(ほとばし)りである。軍人、天文学者、信仰者の「三位一体」の人生図が描かれるのだが、そこには図らずも近代日本の独自の空間が存在しうることが示される。
 その空間は歴史だけでは見えてこない。軍事だけでも捉えられない。著者が大伯父の海軍軍人・秋吉利雄を通じて見ようとし、捉えようとしたのは、軍事国家の規範制度の中に最も欠けている「人間の原像」だったと言っていいだろう。死の時を迎えた(天に召される日の近づく)今、折々の懸命に生きる姿が回顧される。著者はその光景を巧みな筆で再現していく。
 本書は700頁を超える大部の書である。読み進むうちにその理由もわかってくる。主人公の信仰が表面的ではなく、全人格を支配していて、肉体の細胞にまで信仰が染み込んでいるのだ。軍人として22歳から27歳までは船に乗ったが、あとは東京帝大で天文学を学び、海軍の水路部にあって海図や航海、航空などの文書作りの専門家になる。軍事作戦そのものを客観的に見つめる目をもち、戦争には批判的になる。キリスト者としての分析も加わり、大きく言えば読者は海軍非戦派の視点の正確さに触れることができる。
 小説である以上、虚実皮膜の網がかかっているだろう。例えば、連合艦隊司令長官の山本五十六に呼び出されての対話、昭和天皇が水路部に行幸した時の会話などは、史実そのものと一体化しているわけではないだろうが、近代史の枠組みの中ではこうした会話は十分に生命力を持っている。
 さらに、海軍兵学校42期同期生の加来止男(かく・とめお)と同期生M(架空と思われるが)というそれぞれのタイプが時代を代表し、そこからは近代の宿痾(しゅくあ)とも言うべき発想や行動の一端が浮かび上がる。登場人物の知性は近現代の底流を成している。
    ◇
いけざわ・なつき 1945年生まれ。作家、詩人。主な作品に『マシアス・ギリの失脚』『すばらしい新世界』『静かな大地』『ワカタケル』など。