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「街とその不確かな壁」書評 往還やまず 語り直し語り継ぐ

評者: 小澤英実 / 朝⽇新聞掲載:2023年05月13日
街とその不確かな壁 著者:村上 春樹 出版社:新潮社 ジャンル:小説

ISBN: 9784103534372
発売⽇: 2023/04/13
サイズ: 20cm/661p

「街とその不確かな壁」 [著]村上春樹

 唯一無二の文体と比喩で新しいことばのシステムを築きあげ、現実の自明性をフィクションの力でパラレルに切り裂いていく。「なにを語るか」と同じかそれ以上に「いかに語るか」で現代日本文学を更新したこの作家のなりたちと特異性を、本作はどの過去作よりもよく伝える。
 というのも物語の最初のパートは、1980年に発表した中編小説の2度目の書き直しになっている(1度目は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)。もちろんそんな背景知識なしで十分読めるが、作中で主人公が描く街の地図のように、作家が繰り返し描き直すその場所は、村上ワールドの根幹をなす心象世界だ。
 17歳の時に深く愛したひとつ年下の少女は、本当の自分は壁のなかの街に住んでいると「ぼく」に告げ姿を消す。45歳になってなお少女の面影を追い求める「私」は、夢に導かれるように福島の山間の図書館長となり、風変わりな人々とふれあいながら夢と現実、実体と影、意識と非意識のあいだをうつろっていく。過去作のエッセンスがちりばめられつつ、時間の感覚はより鋭く研ぎ澄まされ、死者の描写には祈りに近い切実さが透けてみえる。
 かつて村上は、誤訳も含んだ自作の英訳をみずから日本語に訳し直した。本作を読んで、そうした姿勢にたんなる遊び心を超えた村上文学の核心があると気づく。自分の語った物語が他者に宿り、語り直されていく。本作の後半では継承という営みが重要な意味を帯びるが、村上が旺盛に行う翻訳もまた物語を語り継ぐことにほかならない。
 本作の焦点は一貫して、さまざまな他者や場所を通り過ぎる「私」の心にある。物語るとは、自分の心の内奥に繰り返し立ち返り、不確かな「私」という殻の内外を往還しつづけることだというある潔い達観が、村上春樹という作家が辿(たど)りついた「レイト・スタイル」なのだろう。
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むらかみ・はるき 1949年生まれ。作家、翻訳家。著書に『ねじまき鳥クロニクル』『騎士団長殺し』など。