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門井慶喜さん「文豪、社長になる」 雑誌「文芸春秋」創刊100年、人気作家・菊池寛の経営手腕は?

文芸春秋社にある菊池寛の肖像画の前でポーズをとる門井慶喜さん(C)文芸春秋

 今からちょうど100年前、作家の菊池寛(1888~1948)が雑誌「文芸春秋」を創刊した。門井慶喜さんは小説「文豪、社長になる」(文芸春秋)で、その成功と失敗に彩られた人生を描き出した。

 門井さんは様々な分野の社史に詳しい。出版社、新聞社、電鉄、百貨店、学校、省庁……自宅の書庫には集めた社史が山とあるそうだ。「社史には歴史小説的な味わいがあっておもしろい。どう深読みするかという興味深さもある」

 今作は文芸春秋社から、創立100周年にあたって執筆のオファーを受けた。びっくりしたと明かす。だが、もちろん、その社史も菊池寛の作品も読んでいた。おまけに2018年、「銀河鉄道の父」で直木賞を受賞したパーティーで、前社長から「門井さんは私よりわが社の社史に詳しい」と楽しいあいさつを受けていた。「思えば、あれが伏線だったのか……」

 菊池は「父帰る」や「恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた)に」に加え、「真珠夫人」でベストセラー作家になった。1923年、芥川龍之介らの協力を得て「文芸春秋」を発刊。創刊号は完売し、文芸誌から総合雑誌へと成長していく。だがその後、社員の裏切りや戦争協力による公職追放が待っていた。

 菊池は激動の時代をおおらかに生き抜き、小説で成功を収めたが、実業家としては失敗も多かった。「経営者としての合格点は厳しい。自分が楽しい方へと行ってしまった」と門井さんはみる。その中で社員のお金の使い込みも招いた。

 また、戦争責任の問題もある。菊池は戦争反対だった。それがある時期に戦争賛成になり、主導する側にまわる。リベラルな人が主導する側にころぶ瞬間とは――。資料につぶさにあたり、門井さんがたどり着いたのは南京国民政府の元首となる汪兆銘(おうちょうめい)との出会いだった。菊池が美男子にうまくもち上げられ、籠絡(ろうらく)される場面は見ものだ。

 失敗はするけれど、菊池はいつも前向きに倒れる。門井さんはそう言う。「菊池寛なりの責任感があり、それゆえに失敗してしまった。その時、どこまで前向きに倒れられるか。それがリーダーシップというものかもしれません」

 そうなのだ。失敗はしても、どうも憎めない。まわりから愛される。社員もおおらかで、明るい社風が伝わってくる。門井さんが調べた資料には「上司に命じられた仕事が全部楽しかった」という社員の言葉が残っている。

 夏目漱石や芥川、直木三十五、川端康成らが登場する文壇史でもある。直木が亡くなった翌35年、友人の名前を冠した芥川賞、直木賞を作った経緯にも菊池の人柄がしのばれる。新進作家に賞を贈り、彼らが何十年も活躍すれば、若くして亡くなった友の魂に埋め合わせができる、と。「友人の死について自分にも責任がある、と。一種の贖罪(しょくざい)意識だったのだろうと思う」

 日露戦争を経て、日本人が自信を持って生きるようになった時代に、「文芸春秋」は創刊したと門井さんは話す。「高度に管理された社会に住む私たちから見ると、日本人が自分でものを考える時代だったかなと感じる。菊池寛はなかでも自由で、世間やまわりに合わせて生きようと考えていない。その荒々しさが魅力だと思いました」(河合真美江)=朝日新聞2023年5月24日掲載