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木村紅美さんの読んできた本たち 転校先のいじめ、苦境を支えた「はてしない物語」と「風葬の教室」

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「好きだった絵本、小説、アニメ」

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

木村:今までこのコーナーに出ている作家の方々ほど詳しく憶えている自信がないのですが、子供の頃はとにかく絵本好きだったようです。

 うちは父親が転勤族だったので何度も引っ越しをしているんですが、東京の杉並区永福町に住んでいた3歳の頃に双子の妹が生まれまして。双子の世話の合間に母が私を近くの図書館に連れていってくれたんですが、いつも私は喜んで、飛ぶような勢いで走っていたそうです。双子の世話で母が忙しい時でも、私は一人で、ずーっと絵本を読んでいるので、「絵本に助けられた」と、母がよく話しています。

――記憶に残っている絵本はありますか。

木村:母によると、矢川澄子さんが翻訳した外国の絵本を気に入っていたそうです。

 後からまた話しますが、中学生の時に澁澤龍彦が好きになり、矢川さんが澁澤の最初の妻であると認識したのは、いつだったか...。20代で東京でたまのライヴへ通っていて、よく客席でお姿を目撃していた頃かもしれない。妖精のような初老の女性が、矢川さんでした。私が28歳の時に自殺されて悲しんでいたら、母に「あなたは子供の頃、矢川さんが翻訳した絵本を特に喜んで読んでいた」と言われたんです。母によると、矢川訳のは内容も絵も、子供に対する媚びのないものが多かったそうです。

 亡くなられた後に出た「ユリイカ」臨時増刊の矢川特集号に絵本の翻訳の仕事も全部載っていたんですが、それを見ても、どれが好きだったか思い出せなくて。

 私があまりに繰り返し借りて読むので、ついに買ってもらえた矢川さんの絵本が一冊あったんですが、度重なる引っ越しで行方不明になり題名も忘れちゃって。子供たちが外で遊んで、花を摘んで帰ってきて花瓶に飾り、朝になったら花瓶に蜘蛛が巣をはっていた、というストーリー。2020年10月に東京のアパートを引き払い、盛岡の実家へ引っ越したのですが。その際、押入れから発見されたんですよ(笑)。『みんなともだち』という絵本で、翻訳ではなく珍しく矢川さん文のもので、絵は市川里美さんで、冨山房から出ていました。40年以上ぶりに再会できて嬉しかったです。

――幼稚園時代はずっと永福町ですか。

木村:いえ、福岡に引っ越しました。博多からも近い、小笹という町です。幼稚園に入ったら、自分で絵本を作る課題がありました。画用紙にクレヨンで絵と文を描いて、テープでまとめるという、簡単なものです。松谷みよ子さんの何かを真似た絵本を作りました。大人になって見返したら支離滅裂な内容(笑)。その課題が出たのは1回か2回でしたが、私は個人的に大量に作るようになり、段ボールいっぱいになったのを憶えています。

――松谷みよ子さんもお好きだったのですね。

木村:具体的にどれが好きだったのかは憶えていないんです。今、2歳の甥と一緒に暮らしていますが、0歳の頃から『いないいないばあ』を読んであげて、これも松谷さんだと気づいて。甥が初めてちゃんと言った言葉が「いないいないばあ」。現代の子供の気持ちもしっかりとらえるものを書かれていて、偉大だなと思いました。

――『ちいさいモモちゃん』シリーズとかありましたよね。

木村:あ!大好きでした! ああ、小学校に入ってからも『ちいさいモモちゃん』を真似した絵本を書いていた気がします。言われると思い出しますね。

――小学校に入ってからはどのような読書を?

木村:1年生の頃に、親が子供向けのギリシア神話の本を買ってきて、なぜだかハマって読み耽り。あそこに登場する神様の名前などはそれで一通り憶えました。福岡には小2までいて、小3から千葉県の新検見川に引っ越しました。

――引っ越しのたび、新しい環境にはすぐ順応できたんですか。

木村:うーん、むずかしかったです。福岡から千葉に移った時は、バリバリの博多弁を喋っていたみたいで、何を言っても「言葉遣いが変だ」とからかわれました。福岡と千葉では社宅に住んでいて、そこの子供同士の人間関係にも馴染めなかった。

 小6の夏に宮城県の仙台市に引っ越したんですが、クラス内で最悪ないじめに遭いました。男子には殴る蹴るの暴力をふるわれ、女子には無視とか仲間外れにされました。人間関係の苦労、女子同士のグループに入っていけない疎外感は、私の小説に滲んでいると思います。どうしても孤独を書いてしまいますね。

 ただ、本はずっと好きでした。小2、3の頃には『若草物語』、『不思議の国のアリス』、『メアリー・ポピンズ』、『長くつ下のピッピ』あたりが好きでした。『大草原の小さな家』シリーズにもハマって、なかでも『大きな森の小さな家』は繰り返し読みました。

――海外の名作が多かったのですか。

木村:そうかもしれません。日本のものだと『赤い蝋燭と人魚』にはこんな終わり方がありなのかと暗さに衝撃を受けました。誰も幸せにならないのにビックリして。そういわれると、『ごんぎつね』『スーホの白い馬』といった辛い結末のもののほうが印象に残っていますね。『銀河鉄道の夜』もその齢の頃からずっと好きですが、あれも辛いですしね。

――その頃、将来何になりたいと思っていましたか。

木村:小2の時の文集に「作家になりたい」と書いていました。小3の時には、「小説を書きましょう」という授業があって、風船をテーマにして書いたのを憶えています。

――作文の課題は好きでしたか。

木村:面倒くさいので下書きもせずに一気に原稿用紙5枚くらい書いたものがコンクールで優秀賞をとったりしていて、好きというより得意なのかなと思っていました。読書感想文も同様です。小4の夏に「スプーンおばさん」の原作を読んで感想文を書いたのは憶えています。ちょうどアニメも放送されていて。

――アニメはよく見ていましたか?

木村:そうですね。幼い頃は「山ねずみロッキーチャック」や「アルプスの少女ハイジ」。のちに、宮崎駿さんや高畑勲さんが関わっていたと知ることになるアニメが好きでした。

 小4の時に「名探偵ホームズ」という、シャーロック・ホームズたちが犬になったアニメがあったんです。夢中で見ていて、なかでも「青い紅玉(ルビー)」「ドーバー海峡の大空中戦!」といった回が名作で大好きだったんですけれど、その脚本を書いたのが片渕須直さん。映画『この世界の片隅に』公開時、片渕監督が過去に手掛けてきたものが話題になっていて、初めて知りました。矢川澄子さんの訳された絵本のように、子供向けのアニメでも、子供に媚びないで作っている本物ってわかるんですね。

 そのアニメの影響で、コナン・ドイルのホームズのシリーズも読むようになりました。江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズにも熱中して、夏休みに自転車で片道20分かかる図書館まで毎朝通って、1日の上限の4冊借りて、寝るまでに全部読み、次の日はまた4冊借りて読むという速読をしていました。怪人二十面相が出てこない話は陰惨なのが多く、表紙からして怖くて、後回しにしていました。でも全部読みました。乱歩は、のちに大人向けの小説も読み、「押絵と旅する男」「人間椅子」、「芋虫」など大好きになりました。

 そうそう、高学年になると新井素子さんにハマっていました。当時出ていた新井さんの本は、漫画家の吾妻ひでおさんとの交換日記シリーズ含め、全部読みました。『ひとめあなたに...』は地球が滅びる前の一週間の話です。全ての交通機関が止まってしまって、主人公が、難病で入院している彼氏に歩いて会いに行く旅が描かれている。途中で遭遇する人々が、みんな、極限状態のなかで隠していた異常さをむき出しにしている。その異常さはどこか自分にも思い当たるところがある。名作です。

『あなたにここにいて欲しい』『二分割幽霊綺譚』あたり、フェミニズムの観点から読み返しても面白いんじゃないかと思う。今考えると、新井さんの小説って、女の子が恋愛に依存することなく自立していて。時代を先取りしていたと感じます。

「いじめられた日々を支えた小説」

――小6で仙台に引っ越されたんですよね。

木村:はい。いま思えば、佐伯一麦さんの『鉄塔家族』や『空にみずうみ』で主人公たちが暮す山の真下にある借家でした。環境はよかったですが、二学期から苛烈ないじめを受けました。その時期もやはり、本に支えられていました。新井さん以外に憶えているのは、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』と山田詠美さんの『風葬の教室』。

『はてしない物語』は、先に「ネバーエンディング・ストーリー」を観て好きだったから原作を図書室で借りて読んだんですが、映画で描かれた部分が終わってからが面白かった。完全に異世界を旅する気持ちで読みました。単行本の装丁が作中に出てくる本と同じで、子供心にうっとりしましたね。家に置いておきたくて、大人になってから買いました。

『風葬の教室』は転校先でいじめられる小5の女の子の話ですよね。母が買ってきてくれたんです。主人公の杏という女の子は怖ろしく冷めていて、自分を疎外する女子たちのあいだで人気がある男の先生を遊びで誘惑するくらい大人びている。憧れの目で読んでいました。大学生になってから、文庫で読み返しました。初めて読んだ時からもう10年近く経っているのに、当時の感情が封じ込められたみたいに、ぞっとするほど生々しく蘇るのに驚きました。大切な小説ですが、それ以来、開いていないです。

――以前発表された『まっぷたつの先生』は、元教師と、その教師と別々な時期に関わった2人の教え子、元教師の同僚という4人の女性の物語です。教え子の一人はその先生にいじめを放置された記憶があり、もう一人は可愛がられた記憶がある。あの話は小6の時の体験がベースにあるそうですね。

木村:私、転校したその日に学級委員にさせられそうになったんです。担任は産休間近の気弱そうな先生でした。転校初日、学級委員を決める話し合いの時に、生徒の誰かが「木村さんがいいと思います」と言い、先生が「木村さんでいいと思う人」と訊いたらクラス全員が手を挙げる、というヘンな事態になってしまって。そしたら先生が「みんな大嫌い!」と叫んで泣きだして、廊下に逃げ出したんです。不安でいっぱいになりました。

 その先生が産休に入った後にきた代用の女の先生もやる気がなくて、いじめも見て見ぬ振りをするんです。自分が30歳を過ぎてから母に聞いたんですが、当時、面談で母が「娘がいじめられているようですが」と相談したら、「木村さんがはむかうからいけないんです」って答えたそうです。PTAの間では、彼女は関東から男を追いかけて仙台まで来た、とうわさになっていたらしい。

『まっぷたつの先生』を書く時に、そうした事情を教師をしている友人に話したら、「まず、その人事はありえない」って。6年生の担任は労力がいるから、産休をとる予定の先生に任せることはめったにない、代用の先生にしても、荒れているクラスを余所からきた若い人に任せるなんてありえない、上層部の判断がひどい、って。それを聞いて謎がひとつ解けた思いでした。子供には窺い知れないことですが、学校も会社のような組織で、先生も人事で苦しんだりするんだ、いじめを止める気がなかったのは許せないけれど、ある意味、あの人たちも被害者だったのかも、という面がわかったのはよかったです。

――中学校は大丈夫だったのですか。

木村:公立の中学校に進みましたが、複数の小学校が合流するマンモス校だったので、いじめた子たちがうまくばらけて。ずいぶんマシになりました。それに中学校で文芸部に入ったんですよ。部員は全員女子で、運よく生き延びる場所を見つけられました。

――文芸部ではどのような活動をしていたのですか。

木村:それが、いまで言う腐女子の巣窟(笑)。まだ中学生なのに、いまで言うBL、やおい系の小説を書いて印刷屋で製本してもらって、コミケに売りにいく先輩もいました。私も、先輩たちに感化された小説を書くようになりました。

 私は「りぼん」「なかよし」などの少女漫画をほとんど読んでいなかった。むしろ「少年ジャンプ」が好きで、当時ハマっていた『キャプテン翼』をもとに、その手の小説を書いたりしました。岬くんが好きでした、旅する画家の父親の都合で転校生だったから(笑)

 読書では、新井素子さんを見出したという星新一、いっぱい読みました。ハインライン、レイ・ブラッドベリも新井さんの影響で手に取り、ブラッドベリは『たんぽぽのお酒』『火星年代記』など、ずっと好きです。SFの賞に応募しようとしたこともありますね。でも私にはああいう独特の発想ができなくて、自分にはSFの才能がないと突きつけられました。本当は、遠い未来を舞台にしたり、超能力やパラレルワールドの出てくる小説を書いてみたいんですが。

――今からでも書いてみてはいかがでしょう。

木村:書けますかね(笑)。
それと、中2の頃から音楽が好きになりました。遊佐未森さんの初期のアルバムにどっぷりハマって。当時のプロデューサーは外間隆史さんという方で、アルバムの世界観を象徴するような掌編を歌詞カードに書かれていたんですよ。「空耳の丘」「ハルモニオデオン」「HOPE」に小説がついていました。憧れるあまり、文芸部の部誌に、稚拙に真似た小説を書いていました。

 外間さんは現在は出版にも携わっていらして、『原民喜童話集』をご自身で起ち上げた出版・装幀・デザインレーベル、未明編集室から出したり、マーサ・ナカムラさんの詩集『雨をよぶ灯台』の装丁を手掛けたり、最近は、版画家の柳本史さんと組んで未明編集室から『雨犬』という絵本を刊行されたりしています。『雨犬』はペンキ職人の青年と老犬の、詩を読み、音楽を聴くことに支えられた、対等の暮らしを描いた大人向けの絵本です。大好きです。

 それと、私の読書にどんな作家より多大な影響を与えたのは、たまです。「いかすバンド天国」で出てきたバンドで「さよなら人類」は国民的ヒットになりましたが、私は人気が落ち着いてからも聴きつづけ、ファンクラブにも入っていました。

――どのような影響を受けたのですか。

木村:メンバーたちがインタビューなどで好きだと名前を挙げていたのがきっかけで、萩原朔太郎や澁澤龍彦、稲垣足穂を読むようになりました。朔太郎の詩集は持ち歩いて暗誦していました。足穂との出会いも大きかった。なんてクールでいま読んでも新しいのだろうと。中3になると『一千一秒物語』を真似たつもりの小説を書いていました。題名に魅かれ『少年愛の美学』も熟読(笑)。

 夢野久作が気になったのもたまの影響でしたが、あの作家にハマったら現世へ戻って来られないのでは、と怖くて。会社員になってから、ついに『ドグラ・マグラ』を読みました。通勤電車や、昼休みの公園のベンチで、あの得体の知れないおどろおどろしい世界へ逃げ込むように読むのがちょうどよかった。

 これもミュージシャンの影響ですけれど、高野寛さんも「虹の都へ」大ヒットがきっかけで追うようになって。好きな作家に安部公房を挙げていたんですよ。それで『壁』に始まり『砂の女』『箱男』など公房もむさぼり読みました。

 あと、新井素子さんがお好きということで北杜夫も読みました。「どくとるマンボウ」シリーズから始まり、よりによって、中3の受験期に大作『楡家の人びと』に夢中になって。成績が落ちました(笑)。公房は、さすがにわけわからないまま、でもかっこいい、と思い背伸びし読んでましたが。『楡家の人びと』は、中学生が読んでも本当に面白かった。授業中でも、机の下に本を隠しながら読んでいた。また読み返したい小説のひとつです。

 でも同時に、田中芳樹さんの『銀河英雄伝説』も好きだったんですよ。こう話していると、中学生くらいの頃の趣味って、カオスですね(笑)。

「文芸部、図書室、音楽」

――読書日記や読書記録はつけていましたか。

木村:怠け者で、つけてないんです。つけておいてもよかったかもしれませんね。

――高校も仙台の学校ですか。

木村:はい。仙台の公立の男女共学校です。ここでも文芸部に入ったんですよね。今度は漫画とアニメのオタクの巣窟で、休み時間も放課後も部室に入り浸っていました。

 中学生の時に、吉本ばななさんがデビューして大人気になって。ひねくれ者の私は、みんなが読んでいるものからは距離を置いていたんですけれど、高校生になってから読んだら、いきなり好きになりました。『キッチン』も好きでしたが併録の「ムーンライト・シャドウ」が好きで好きで暗記するくらい読み込みました。だから、ばななさんを薄ーく真似した小説も書いていました。

 高校の図書室が素晴らしく充実していて、山田詠美、村上龍、島田雅彦などは次々新刊が出ると全部入れてくれるので、片っ端から借りて読んでいました。山田さんは『トラッシュ』、龍さんは『イビサ』、島田さんは『夢使い』が、あれは面白かったなあと印象に残ってます。それと母が村上春樹さんと同い年で愛読していて、家にずらっとあったので読みました。『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』のあたり。

 母は、やはり同い年の橋本治さんも大好きで。『桃尻娘』シリーズも、母から借りてハマりました。主人公「玲奈」の揺れ動く自意識の描き方が、綺麗ごといっさいなく、当時の自分と痛痒いくらい重なって。なんで、母と同い年の男の作家に、こんなに女の高校生の自分の心理がわかるんだろうと衝撃を受けました。『恋愛論』『青春つーのはなに?』などエッセイもいっしょうけんめい読みました。

『蝶のゆくえ』を読んだのは作家になって30すぎてから。あの中の「ふらんだーすの犬」には、頭がまっ白になって。読み終わったあと悲しすぎて半日何もできなくなりました。いまも、題名を思い出しただけで泣きそう。『リア家の人々』も主人公の女の描き方が好きです。たいていの女の作家より、橋本さんの女の描き方のほうが好きです。

 日本の現代小説をいちばん読んでいたのが高校時代です。純文学もエンタメも乱読。矢川澄子さんが選考委員を務めていたファンタジーノベル大賞で話題になった、酒見賢一『後宮小説』、佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』も魅惑されました。中島らもさんも当時初めて読み、今でも好きです。私は下戸なのに。

――らもさんは『今夜、すべてのバーで』とか?

木村:あれは大学生になってから。高校生の時に読んで、これは面白い、と思ったのは『人体模型の夜』でした。

 それと高校時代、腐女子傾向のある私にとって神様のような存在になったのは、長野まゆみさんです。長野さんはのちに「群像」に純文学作品を書くようになられるじゃないですか。むかし『天体議会』や『テレヴィジョン・シティ』にハマっていた頃も長野さんの文体の硬質さに魅了されていて、少年愛じゃない小説も読んでみたいと思った記憶があるんですが、今はそちらのほうでも高く評価されていますよね。『冥途あり』には、ひれ伏する思いがしました。原爆の傷痕の浮びあがらせかたが、重苦しさをしっかり秘めながら鋭く繊細で、日常からじわじわと迫ってくる。この作家にしかできない書き方。

――それにしても、いい図書室ですね。

木村:司書の方が、当時二十代後半の女性で、とても仲良くなりました。こっそり貸してくれた萩尾望都『ポーの一族』や大島弓子『綿の国星』を読んだら、大好きで。自分は今のより昔の少女漫画のほうが好きかもって思いました。司書さんが「森鴎外の娘なんだけど、かっこよくて、紅美さん絶対にこれ好きだと思う」と教えてくれた作家で、今に至るまで好きなのが森茉莉です。

――いや~よく好みをお分かりで、という感じですね(笑)。

木村:元祖BLの面もあるし、文学的な高貴さ、深みも備えていて。短篇集『恋人たちの森』の表題作や「枯葉の寝床」。虜になりました。森茉莉に私はなりたい、っていうくらい。

 あと、稲垣足穂を熱心に読むうちに、文壇で異端児だったらしいというのが分かってきて。じゃあ足穂を高く買っていた作家は誰だろうと興味が湧いて、足穂が弟子入りしていた佐藤春夫の「美しき町」など大正時代の短篇や、初期の谷崎潤一郎に手を伸ばし。三島由紀夫も読み始めました。高2の夏の読書感想文は『仮面の告白』で書き、コンクールで入賞しました。修学旅行は京都でしたが、帰りの新幹線でだれからもポツンとはなれて『音楽』を読んでいたのを憶えています。

 これもミュージシャンの影響で、『午後の曳航』はTOKYO No.1 SOUL SETのBIKKEさんが好きな本に挙げていて、読みました。三島の読んだ小説の中でいちばん好きです。

――高校時代も、将来作家になりたいと思っていましたか。

木村:2年の時に文藝賞に応募したら一次選考だけ通りましたが、あまり思っていなかったです。

 10代の頃はどちらかというと、音楽ライターになりたいと思っていました。90年代は日本の音楽業界が豊かな頃だったんですよね。自分の感性に訴えるかなりマニアックな音楽性のアーティストでもどんどんメジャーからアルバムを出せていて。中学生の時、フリッパーズ・ギターにも熱狂して。岡崎京子さんの漫画は、フリッパーズ経由で知って。でも中高時代は、私には先鋭的すぎてついてゆけなかったです。大学に入ってから『Pink』『ジオラマボーイ・パノラマガール』など良さに目覚めました。

――当時、音楽雑誌もたくさん読んでいたんですか。

木村:読んでいました。とくに「ロッキング・オン・ジャパン」。当時はインターネットもないし、地方都市に住んでいるとライヴに行く機会も少ない。テレビの音楽番組にはまず出ないようなアーティストばかり好きだったので、かれらをピックアップするこの雑誌は、私にとって重要な媒体でした。

 東京五輪の開会式直前に大バッシングを引き起こすことになったブログの元ネタの一つの、小山田圭吾さんのインタビューも発売当日に高校の教室で読みましたよ。94年1月号。当時の私は、雑誌の悪ノリが過剰では、話されていることも本当かわからない、と思って、読まなかったことにして受け流しました。忘れはしませんでしたが、彼の音楽から離れることもなかった。あの頃、ファンまでぶっ叩かれて。さすがに落ち込みました。かつての自分の鈍感さを見つめなおす機会にもなりました。

 あの大バッシングについては、片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』が、90年代までさかのぼり綿密に情報を検証されていて読み応えがありました。

――当時の音楽雑誌の文体って独特だったような気がしますが、それはいかがでしたか。

木村:「ロッキング・オン・ジャパン」は断定型が多いというか。「このアーティストはこう聴くべきだ」みたいに言い切る文章を繰り返し読んでいると、支配された状態になってしまう。私は、ソウル・フラワー・ユニオンはこの雑誌で知ってずっと好きだし、スピッツも「ロビンソン」が大ヒットするまえに知って聴き始めていました。Cocco論を投稿したら、採用してくれて。生まれて初めて、原稿料、というものを貰った雑誌でもあります。

 だんだん、売れ線のアーティストも大きく取り上げるようになっていって。読まなくなると同時に、強い言葉に依存する状態からは、だんだん抜けていきました。

「映画を学んだ大学時代」

――大学で東京にいらしたんでしたっけ。

木村:その前に1年間、都内の予備校の寮に入って、翌年、明治学院大学に進み、文学部の芸術学科という風変わりな学科に入りました。

 本当は心理学を勉強したかったんです。秋山さと子さんのユング心理学の入門書を読んだら、魅かれるものがあって。
それとは別に、高3の時に中上健次にハマったんです。

 中上と親しかった四方田犬彦さんが教えているから芸術学科も受けておくか、くらいの気持ちで受けたらいくつかの大学の心理学科は全部落ち、そちらだけ合格しました。四方田先生の専門は映画史ですが、映画はよく知らなかったので、知りたい、という気持ちもありました。当時、先生が漫画雑誌「ガロ」にエッセイを連載されていたので、「ガロ」経由で先生に学びたいといって入ってきた子もいましたね。

 大学で、サブカル好きの友達がたくさんできたのは面白かった。教室で浮かない、という初めての体験をしました(笑)

――中上健次はどのあたりを?

木村:初めて読んだのは遺作の『軽蔑』。路地出身のチンピラと、ヌードダンサーの逃避行でしたが。これも高校の図書室で。文体のパワーとリズム感に、かっこいいなあと打たれて、凄く好きで。『岬』『十九歳の地図』など初期の作も読みました。初期と遺作が好き、という偏った読み方です。

――大学時代、映画をたくさん観たのですか。

木村:ええ。エンタメというよりは、やはり芸術系の映画、監督の個性が強い映画を観に渋谷などのミニシアターによく行きました。大学でも無料でビデオを借りられるし、四方田先生セレクトの名作を百本観てレポートを書く課題もあったし。TSUTAYAでもたくさん借りて、昔のものを中心に観ていました。

 中山公男先生の西洋美術史、「日本美術応援団」でも知られる山下裕二先生の日本・東洋美術史の講義なども受けました。映画と美術について学ぶことができたのは贅沢な体験で、それは自分の小説にもどこか活きているんじゃないかなと思っています。

――木村さんの新作の『夜のだれかの岸辺』にもタルコフスキーなど映画監督の名前や映画のタイトルがたくさん出てきますよね。あれらは、その頃に観たわけですね。

木村:はい。アンドレイ・タルコフスキー、ビクトル・エリセ、テオ・アンゲロプロスなどは大学で初めて観ました。映画も小説に負けず奥深い世界だなと開眼しました。

 当時、四方田先生の映画作家論を通して学んだ監督のなかでは、フェデリコ・フェリーニが自分に一番しっくりきました。卒論は、『81/2』における女性像とユング心理学の関係、というテーマで書きました。フェリーニ自身がユング心理学に興味を持っていて、踏まえた撮り方をしているのを調べて、女性の描き方から読み解きました。

――大学時代の読書は。

木村:友達と劇団をやったり、あと高校時代に熟読した竹中労『たまの本』の沖縄民謡についての文章に触発されて、バイトしてお金を貯めては沖縄の島々を巡る一人旅をするようになり。本から、もっともはなれた時期になりました(笑)大学生なのに。

 四方田先生は、いっぱい著作がありますが、学生時代は存在が近すぎて。そんなに読んでいないです。当時、モロッコに通ってらっしゃって。だいぶ経って『モロッコ流謫』に感銘を受け、こんな旅をされていたのかと。別の顔に再会する思いがしました。昨年刊行の『さらば、ベイルート』はレバノン生まれの女性映画作家の評伝で凄く好きでした。

――では小説は書いてはいなかったのでしょうか。

木村:書いていなかったです。裏方をやっていた劇団で、一回だけ脚本を書いて採用されたことがあるくらいで。ただ、卒業する頃には音楽ライターは無理だなと思い、やっぱり小説家になりたい、というより小説を書けるようになりたい、と考え始めました。

「一生読んでいたい作家、辛い日々を支えた本」

――卒業後はどうされたのですか。

木村:就職氷河期で初めから絶望していて就活をまったくしなかったので、卒業して最初の半年は日雇いバイトを転々として、丸一ヶ月も沖縄を貧乏旅行して。帰ってきて、三省堂書店神保町本店のバイトを週5で始めました。

 その後、父親の伝手で、馬喰町にあった商社に正社員として採用されたんですが。ここから、小6のいじめ地獄に次ぐ苦しい時期を迎えました。男は営業、女は男を補佐する事務。女は結婚したら退職し、若い子に入れ替わるのが暗黙のルール。社風がとことん合わなくてウツ気味に。その頃もやっぱり読書に支えられました。

 大学4年の秋に四方田先生と個人面談の機会があり、将来の希望を訊かれました。まさか中上健次と親しかった人に「作家になりたい」とは言えないでしょう。漠然と「文章を書く仕事に就きたいと思っています」と言ったら、「じゃあ、海外の古典をたくさん読むといいね。日本の現代のものは読まなくていいから」とあっさり言われたんです。そのときは、私はカミュにハマっていて。『ペスト』の感想で先生と盛りあがった記憶がある。他にも、ドストエフスキー、カフカ、フォークナーなど、近代文学の名作を手当たり次第読み始め。海外文学に目覚めました。現代の国内文学はよほど気になるもの以外は読まなくなっていきました。

――では日本のものだと、どのような作品を?

木村:ついに、尾崎翠と巡り会う時が来ました。私の書きたい理想の小説をもうすでにこの人が完璧なかたちで成し遂げている、という強い衝撃を受けました。

――『第七官界彷徨』とかでしょうか。

木村:そうです。ちくま日本文学全集の『尾崎翠』の巻が大きかったです。私はもう自分の小説を書くのはやめて、翠の小説を一生読み返しているだけでいいかもっていうくらいハマりました。それが24、5歳の頃です。

 尾崎翠は人間の根源のさびしさを書くのが絶妙に上手い。せつないのに軽やかで、可笑しみもあって。たったひとりで荒野を歩いてゆくような孤独を五感を震わせる詩的な文体で書いていて。私はヴァージニア・ウルフを読んで大好きになったのは、30すぎてからなんですけど、翠は実は、手法も、『ダロウェイ夫人』や『灯台へ』を思わせる自由関節話法に近い書き方をしていたり、何度読んでも新しさがある。

 のちに、翠好きがもとで、『第七官界彷徨』や『こほろぎ嬢』を映画化した浜野佐知監督と交流が始まって。監督は、私の『雪子さんの足音』も映画にしました。その主演の吉行和子さんも翠好き。自分にとって大きな出会いをいちばんもたらしてくれた作家です。

 文芸評論家の田中弥生さんとは、癌で亡くなる3年ほどまえに初めて会って仲良くなり。村田喜代子さんの小説を薦められ読み始め『屋根屋』『ゆうじょこう』など大好きになりましたが。2016年に浜野監督が企画し鳥取県でおこなわれた翠生誕120年記念イベントで村田さんの講演があり、はるばる聞きに行きました。

 話は二十代半ばに戻りますが、翠が好きな作家ということでチェーホフの小説をはじめて読み、これまた好みで。最初は新潮文庫の『かわいい女 犬を連れた奥さん』。自分の基礎にしたくて、古書店で全集を買いました。坂口安吾もチェーホフ好きらしいというのを何かで知って、『堕落論』から読み始め、『白痴』はよく読み返します。

 それと、森茉莉のエッセイに深沢七郎が出てきて。茉莉って毒舌なのですが、珍しく褒めるように書いてあり、そそられました。読んだらやっぱり大好きに。深沢七郎、田中小実昌、色川武大あたりは、会社で心を殺して働いている頃に読んで、支えられました。

――それぞれで好きな作品はありますか。

木村:深沢七郎は『楢山節考』から読み始め、『笛吹川』『みちのくの人形たち』。『笛吹川』は、とにかく夥しい数の人が死んでは生まれ、死んでは生まれする話。人間ってこんな虫けらみたいにあっけなく惨く死ぬんだと頭に叩きこまれると、会社が大変辛かった自分としては、かえって、生きやすくなる気がしました。自分にとっては、へんにハッピーエンドを迎える小説より、徹底して救いのない小説のほうが読んで解放される感じがありました。その感触が今、自分の小説に活きているといいなと思うんですけれど。

 田中小実昌は...。当時、井の頭線の西永福で一人暮らしをしていて。会社帰りに下北沢のヴィレッジヴァンガードに寄るのが息抜きで、そこで推していました。従軍体験を基にした『ポロポロ』は、ひらがなが多くて飄々とした雰囲気の文体で書いているのに、ずっしり、重さが伝わってくる。句読点のひとつひとつ、神経を研ぎ澄ませ打ち方を選び書いているのに感銘を受け、文体というものについて考えさせられた小説でした。

 色川武大は『怪しい来客簿』『狂人日記』。後者はとくに、どん底をさ迷う人生経験をしているのに、突き放し方が心に残る。人間の暗く危うい部分でも、突き放して書くと、哀愁を帯びたり、ちょっと笑えるところが出てくる。

 その頃、オールドミスという言葉が気になって。田辺聖子さんの小説も読み始めて短篇集『ジョゼと虎と魚たち』の全部が好きなんですけれど、田辺さんの言葉に「嫌な奴ほど面白い」というのがあるんです。私は会社で自分にいやがらせをする女の先輩たちをそれに当てはめていました。

 ああ、現代の作家だと群ようこさんのエッセイも好きで読んでいました。疲れている時でも、読みやすくて。小説の『無印OL物語』も好きでした、OLだったし。群さんも、どこか「嫌な奴ほど面白い」という視点がある。そしたら、ある時、大の苦手だった先輩の一人も群さんの愛読者だって分かったんですよ。会社に出入している本屋さんがいたんですけれど、「なんでもいいから群ようこの新刊持ってきて」と頼んでるのを聞き、え、この人にとっても息抜きなのかと。耳を疑いましたね(笑)。と同時に、犬猿の仲の両者に好かれる群さんという作家を尊敬しました。

――その会社員時代は5年間ほどだったわけですか。作家デビュー前に辞めたんですか ?

木村:はい。同じ課の、合わなかった先輩が2人いるんですけれど、1人が休んでいる時に、もう1人に、いつも微妙に遅刻し出社するのを咎められて。逆上して「あんたたちはいつもピーチクパーチク私語がうるさい!」とフロアに響きわたる声で怒鳴ってしまったんです。それがきっかけで退職。

――なんと。辞めてどうされたのですか。

木村:会社員時代の一時期、帰宅して仮眠を2、3時間とって夜中に小説を書いて、朝4時くらいからまた仮眠をとって満員電車に揺られ出勤する生活をしていたんですが、倒れそうになるだけだったんですよね。それもあって、もう書くのはやめようと思っていましたが、ひまができたので再挑戦してみることにしました。

 有休消化中に「野性時代」が青春文学大賞という新人賞を始めたと知ったんですよ。無職になり初めて書きあげてその賞に応募したのが「島の夜」でした。後に2冊目の単行本として刊行する小説ですが、実は、デビュー作よりも先に書いたんです。

 最終候補にも残らなかったのですが、誌面に編集者同士の座談会があり、一人だけ推してくれていたんです。それが嬉しくて励みになって、年内にもう一作、全く違うのを書こうと思い書いたのが「風化する女」。純文学っぽかったから文學界新人賞へ送りました。

 投稿したのが、2005年の年末。1月に入ってからしばらく沖縄を旅行して、帰ってきてパソコンを開けたら、「野性時代」で「島の夜」を推してくれた編集者からメールが来ていたんです。「応募作は落としてしまったけれど、ぜひ一度お会いしたい」みたいなことが書かれてました。「実は文學界に応募しました」と返信したら、「それもいいところまでいくんじゃないでしょうか」と返ってきて、そうしたら4月に受賞。

――勢いで会社を辞めてから、それほど時間をおかずにデビューが決まったということですよね。よかったですね。

木村:びっくりでした。ただ、「風化する女」執筆時は、ハローワークに通ったり、転職が上手くいかないので、お客だった下北沢のヴィレッジヴァンガードで時給最安のバイトを始めて。けっきょく小説を仕上げるのに集中するため、12月の繁忙期で辞めてしまいました。受賞時には、派遣社員として朝日新聞社の経理課で事務をしていました。

「海外の現代作家を読む」

――デビュー後の読書生活はいかがでしょう。

木村:車谷長吉さんが『世界一周恐怖航海記』を文學界に連載中で。私のデビューした号で、この業界の厳しさについて書いていました。たとえ大きな賞を受賞しても、まずいのを2,3作書いたら、編集者は無慈悲に縁を切る。「生き馬の目を抜く世界」とあり、震えあがって(笑)、面白い作家だなあと思って読み始めました。私小説から離れた短篇集『忌中』がいちばん好き。

 あと、初めてついてくれた担当編集者に「海外の新しい小説は読んだほうがいい」とアドバイスされました。

 大学時代に、フリッパーズ・ギターの頃から好きな小沢健二さんが東大で学んでいたから、という理由で、柴田元幸さんの翻訳するアメリカ文学を読み始めました。当然、ポール・オースターから入って。レベッカ・ブラウン、最初に読んだのは『家庭の医学』という、癌になった母親を看取る話。それは会社員時代、ちょうど、父方の祖母が末期癌で都内の病院に入院し、お見舞いに通っていた頃に読んで。つらいのに、こんな淡々と抑制した書き方があるのかと感動しました。以来、レベッカ・ブラウンは追って読んでいます。

 ヴィレヴァンでバイトしていてよかったのは、岸本佐知子さんを知ったこと。ニコルソン・ベイカーが猛プッシュされていたので、手に取るしかなかった(笑)なんでこんな変な話を考えつくんだろうと目が点になりますよね。

――『中二階』とか。

木村:そうそう。岸本さんの訳では、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』はお墓へ持って行きたいくらい好きです。話題になったルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』も全部よかった。そこはかとなくチェーホフを感じるなと思っていたら、解説に、チェーホフを尊敬していたとありました。

 他には、書評やSNSで気になって面白そうだなと思ったものを読むことが多いですね。最近だと、ナターシャ・ヴォーディン『彼女はマリウポリからやってきた』が大当たりでした。著者の少女時代に自殺した、ウクライナ生まれだった母親の人生を掘り起こし、亡くなるまでを書いた、半分ノンフィクションのような小説で引き込まれました。

 名作なのに読んでいない本のリストは、つねに自分の中にあるので、そういうのも少しずつ読む。昨年は、20代の頃に挫折した谷崎の『細雪』が今読んだら面白くて一気に読破。今年はマルケスの『百年の孤独』を読みたい。もちろん、日本の現代作家の新刊も気になったものは読みます。昨年だと、松浦理英子『ヒカリ文集』の全てが好きでした。ただ、同世代の作家の小説はもっと読みたいんですけれど、読んで打ちのめされるのが怖くてなかなか手が出せない傾向があります(笑)

 数少ない作家友達の朝比奈あすかさんは、現代の、日本、海外問わず純文もエンタメもいっぱい読んでいるんですよ。私の小説も、文芸誌に新作が載ると、感想が届くのが早くてビックリします。朝比奈さんの『自画像』は、文庫を頂いて。読み始めたら全身ざわついて止まらなくて徹夜で一気読みしました。性犯罪者である中学校教師への、かつて生徒だった女の人たちの復讐を描いた小説ですが。ラストまで息が止まりそうな緊張感。タイプは全く異なるものの、『夜のだれかの岸辺』に影響を与えられていると思っています。

――SNSで情報を得ることも多いとのことですが。

木村:ツイッターで海外文学の翻訳をしている方を多めにフォローしているので、その方たちの発信を参考に本を選ぶことも多いです。ここ数年は、ハン・ガン『少年が来る』『回復する人間』『すべての、白いものたちの』、キム・エラン『外は夏』、ファン・ジョンウン『年年歳歳』、パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』など、韓国の現代文学にもっともハマっているかも。会社員時代に韓国の現代映画にも魅了されて。ポン・ジュノなど、とんでもない才能の監督がごろごろいるのに圧倒されたのですが、文学も凄かった。

 韓国文学の翻訳者、斎藤真理子さんの評論集『韓国文学の中心にあるもの』を読んだら、すでに読んだ小説もけっこう取り上げられていたので、内容を踏まえつつ朝鮮半島の歴史の勉強にもなりました。これから読みたいのもいっぱいあって。

――『韓国文学の中心にあるもの』は本当にいいガイドブックですよね。

木村:宝物の一冊です。斎藤さんは、沖縄に住まれていたことがあるそうで。先に話した外間隆史さんの父親は、外間守善、といって、琉球文学・文化研究の第一人者の先生です。昨年、ちくま学芸文庫で復刊された守善先生の『沖縄の食文化』は解説が斎藤さんで、これもいい本なんです。

「盛岡の日常と自作について」

――いつ東京から盛岡に引っ越されたのですか。

木村:2020年10月の末です。盛岡市は今年、「ニューヨーク・タイムズ」紙の選ぶ「2023年に行くべき52か所」という特集でロンドンに次いで2番目に入ったのが話題になりました(笑)。徐々に観光客も増えてきているみたいですが、まだガラガラです。先日久々に上京し渋谷に行ったら、人混みに呑まれて泣きたくなりました。

――木村さんの作品って、人が移動したり移住したりする話が多い気がするんですが、そうして引っ越しを繰り返した経験が自然と反映されているんでしょうかね。

木村:そうですね。自然に出てくる感覚です。

――先ほどの、渋谷に来る用事があったというのは、昨年『あなたに安全な人』でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞された時のことかと...。

木村:いえ、その時は七尾旅人さんの渋公でした。絶対見たいライヴがあると、上京します。ドゥマゴ文学賞を受賞した時は、打ち合わせと授賞式の時と、2回渋谷に行きました。

――『あなたに安全な人』はコロナ禍が始まったばかりの頃の東北を舞台に、東京から実家に戻ってきて一人で暮らしていた女性と、沖縄の基地建設反対デモで警備にあたっていた男性が偶然出合い、奇妙な共同生活をはじめる話ですね。

木村:私は大学時代から沖縄好きで、たま経由の竹中労『琉球共和国』から始まって、沖縄についての本もつねに読んでいるんですね。ジャーナリストの森口豁さんの社会人向けの、ドキュメンタリー映像から沖縄史を学ぶ講義に通ったこともあるし。島尾敏雄で初めて読んだのは『新編・琉球弧の視点から』、大江健三郎さんは『沖縄ノート』で、お二人の場合、そこから『死の棘』『万延元年のフットボール』など小説も読むように。作家だと目取真俊さんは特別な存在。芥川賞の『水滴』も凄いですが長篇の『眼の奥の森』なんて世界文学だと思います。

 ここ数年は沖縄本島に行く時は必ず抵抗運動に参加していました。抵抗運動のことは上間陽子さんの『海をあげる』などにも書かれていますけれど。少しでも土砂を搬入する時間を遅らせるために座り込みをして、無理矢理どかされて、ダンプカーが大挙し入って来る、ということが繰り返されている。

 私が行った時は、抵抗側よりも機動隊員と警備員が多いという状況。そこで何度か、両手足を広げて機動隊員に運ばれるという経験をしたんです。痛めつけられながら、この運んでいる人の目を通した小説を書きたいと思いました。機動隊員は沖縄出身者が多く、内地に分断されているつらさがある。それよりは、余所から派遣されてくる人が多いらしい警備員を出そうと考え、そこから「忍」を作りあげていきました。

――ああ、男性主人公の忍が先にできたんですね。

木村:発想としては、誰かを傷つけた記憶で苦しんでいる男が先にいて、ならべるかたちで、似たような過失をして苦しんでいる女を一人だそうと思いました。それで、いじめを見過ごしたことで、いじめられていた子が自殺するきっかけを作ってしまったかもしれない、という苦しみを抱えている元女性教師ができました。2人が共同生活を送るというイメージが浮かんでいたんですが、きっかけを掴むのがむずかしかった。

 コロナ禍の初めのほう、岩手のとある町で東京からの移住者が集合住宅に入居させてもらえず、仮住まい先で謎の火事で焼死する事件があったんです。その方は岩手が好きで何度も通っていて、引っ越しがちょうど東京が緊急事態宣言を出した2020年4月で、感染を危惧されて入居させてもらえなかったそうなんです。それも小説に反映しました。

――新作『夜のだれかの岸辺』は、進学も就職もしていない19歳の茜が、ソヨミさんという高齢のご婦人の添い寝のアルバイトを始めるところから始まります。ソヨミさんは岩手県の出身で、幼い頃に東京からきた人買いに連れられていった友だちのフキちゃんのことを今でも気にしていて、夜うなされている。それで茜はフキちゃんを捜そうとする。

木村:2011年に東日本大震災が起きた時、私は下高井戸で暮らしていたんですけれど、盛岡の母から電話で聞いた話が基になっています。母は、岩手の内陸の紫波という町の出身者なのですが。昔はこういう天災があると、紫波にも、東京から人買いが可愛い女の子を捜しにやってきた、祖母の同級生でも売られていった子がいたという話を聞いて、強烈に印象に残りました。天災が起きると狙いすましたかのように人買いが来るなんて、地方も女性も搾取していると感じました。祖母の同級の子の行方が気になって、想像して書きたいなとずっと思っていて。だからこれは、フキさんという人物から生まれた話なんです。

――添い寝のアルバイトというのもユニークですよね。

木村:この小説のアイデアを考えている頃、私が当時1歳だった甥の添い寝をすることが多く、そこから発想しました。川端康成「眠れる美女」も頭にありました。

――茜とソヨミさんの間に友情めいたものが芽生える話かとも思いましたが、『雪子さんの足音』を書いた木村さんだから、そんな簡単な話ではないだろうと思ったら、その通りでした(笑)。

木村:ああ、そうですね(笑)。『雪子さんの足音』はアパートの大家の老人、雪子さんが下宿人の青年にお小遣いをあげたりご馳走を食べさせたりするけれど...という話ですよね。これは雪子さんの延長線にある話だともいえますね。

――茜は添い寝に対して生理的な嫌悪を感じる部分もあって、それは人買いに女の子が連れていかれる搾取の問題と重なってくると感じました。フキちゃんに関しては、ここでは明かしませんが、意外な展開がありますね。

木村:自分がいじめられた経験があるから思うんですけれど、いじめられた側は仕打ちを細かく憶えているのに、いじめられた側は憶えていなかったりするんですよね。しかもたぶん、いじめているとすら思っていない。そのずれは小説の核になっています。

――一方、茜が高校生の頃からこっそりと京都に通っていた出来事も綴られていきますね。京都の男性にあわい憧れを抱いたり、ひとつ年上の我妻という女性と親しくなったり...。

木村:久しぶりに一人称で書いたんですけれど、今までの作品より思いがけず自分が出ているかもしれません。憧れの男性に関して、茜はつねに微妙なことで傷つくんですよね。人によっては、笑い飛ばせて、傷、とも言えないようなことかも。でも茜は引きずってしまう。こういう微妙さは小説にしか書けないんじゃないかと思ってトライしました。

――今、日々の執筆のペースは。

木村:東京にいた頃よりも自分の時間がぐっと減りました。というのも、私が実家に移ったのと同時に、建築の仕事をしている双子の妹たちが岩手県内のプロジェクトに関わることになって、住民票は東京のままこちらへ来たんですよ。それで今一緒に暮らしているんですが、たまに甥の父親も東京から盛岡に来るので、最大7人家族になるんです。母は専業主婦なんですけれど、どう見ても大変そうなので手伝っています。甥も、いまのところ保育園に入れていないため、私が散歩とか面倒を見ています。家事と育児手伝いの合間に小説を書き、ネットをチェックし、本を読む日々です。

――では、今後の刊行予定などは。

木村:2020年に赤旗で「あの子が石になるまえに」という、沖縄の八重山諸島の伝承が出てくる長篇を連載したんですが、それを一人出版社の里山社から刊行しませんかというお話を頂き、大幅に書き直しているところです。里山社の清田麻衣子さんは以前から知りあいで、編集する本は大好きでよく読んでいました。それこそ去年出たイ・グミの『そこに私が行ってもいいですか?』という韓国の小説も素晴らしくて、2022年に読んだ新刊のベストワン。清田さんとならきっといい本になるし、実際に新たなイメージの湧くアドバイスをたくさん出してくれるので、じっくり直して、いいものにします。

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