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「ふりさけ見れば」(上・下)書評 仲麻呂 鬼になりきれない痛み

評者: 有田哲文 / 朝⽇新聞掲載:2023年09月09日
ふりさけ見れば 〈上〉巻 著者:安部龍太郎 出版社:日経BP日本経済新聞出版 ジャンル:小説

ISBN: 9784296117482
発売⽇: 2023/07/21
サイズ: 20cm/456p

ふりさけ見れば 〈下〉巻 著者:安部龍太郎 出版社:日経BP日本経済新聞出版 ジャンル:小説

ISBN: 9784296117499
発売⽇: 2023/07/21
サイズ: 20cm/455p

「ふりさけ見れば」(上・下) [著]安部龍太郎

 歴史上の人物を思い描くとき、ドラマや小説の影響はとてつもなく大きい。豊臣秀吉というと評者は西田敏行の顔が浮かぶが、これからはムロツヨシが定着するのか。小説でも、司馬遼太郎が書かなければ、私たちの坂本竜馬像は大きく違っていたはずだ。
 歴史小説のベテラン、安部龍太郎は本作で、阿倍(あべの)仲麻呂(なかまろ)にいきいきと命を吹き込んだ。8世紀、留学生(るがくしょう)として遣唐使船で海を渡り、唐の官僚として一生を終えた人である。望郷の念を歌った一首〈あまの原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも〉は有名だが、ではどんな人物かと問われれば、多くの人は答えに窮するだろう。
 本作で仲麻呂は、なんとスパイとして描かれる。日本の朝廷から「ある秘密の任務」を命じられ、断る選択肢はなかった。任務を遂行するには、唐政界の中枢を泳ぎながら、上司や親友、現地でめとった妻をも欺かねばならない。しかしもともとは生真面目で、はかりごとには無縁の性格である。鬼になろうとしてなりきれない、そんな仲麻呂の心の痛みが、これでもかと伝わってくる。
 仲麻呂の苦難の背景には、当時の日本の置かれた立場があった。超大国である唐と、いかに向き合うべきか。先進的な文明があり、仰ぎ見る存在だが、全面的に従属し続けたくはない。現在の日中関係も一筋縄ではいかないが、先人たちはもっと難しい局面を切り抜けてきたのかもしれない。本作に出会い、そう思い至る。
 新聞に連載されていた時には、翌日が待ち遠しくなるほどだった。登場人物は楊貴妃、安禄山、鑑真、吉備真備などきら星のごとくである。唐でも日本でも歴史上の大事件が相次ぎ、要所要所で仲麻呂がキーパーソンになる。さすがに突飛(とっぴ)すぎると思うこともあるが、しらけた気分にはならない。創作の力が、膨大な資料と取材に裏打ちされているからだろう。
    ◇
あべ・りゅうたろう 1955年生まれ。『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞。『等伯』で直木賞。他に『信長燃ゆ』など。