AI(人工知能)やロボット(以下、単にAI)との付き合い方を考えるときに、「今」だけを見ていては時代遅れになる。彼ら彼女らはこれからもどんどん賢く高性能になっていくのだから、未来永劫(えいごう)続く宿命的な問題として対峙(たいじ)しなければならない。
AIは、機械ではあるけれども人間によく似ている存在だ。そのような「亜人(あじん)」についての思索を晩年に深めていた科学思想家、金森修の遺作『人形論』は、人形の意味として呪術・愛玩・鑑賞の三要素を抽出する。これらはAIにも必要なはずなのだが、現状はあまりにも実利の方に傾きすぎてはいないか。
同じ著者の『ゴーレムの生命論』(平凡社新書・品切れ)を合わせ読むと、古今東西、人間が亜人をどのようにイメージし、扱ってきたか、より鮮明に浮かびあがってくる。亜人には文化的な影響が大きいというのもそのひとつだ。世界にはさまざまな亜人が存在する。
東洋からの視点
ならばAIも同様だろう。今のAIがユダヤ=キリスト教的な価値観の上に成り立っていることを1980年代から指摘し続けてきたのは情報学者の西垣通(『AI』講談社現代新書・品切れ)だが、ここではAIに限らず、ひろく科学技術全般を文明論的な視座から把握し直す哲学者ユク・ホイの『中国における技術への問い』を挙げる。
ホイは、現在の技術が自然収奪的な西洋文明の価値観の中で作られ、発展してきたことを指摘する。これは中国の伝統的な技術観とは異なるものだ。近代化とはすなわち、中国や日本を含む非西洋圏がこのような「技術」を採り入れ、その根底にある価値観に同化していく過程でもあった。なので、高度に技術化した先進国の社会では、むしろ人間疎外が進行し、格差や分断が拡大するという事態になっている。
だが、中国古来の技術観では、技術は宇宙と一体のものであり、その宇宙は倫理的な存在であった。すなわち、人間疎外を引き起こすような技術は「技術」ではない。現状を打破するためにはこのような「宇宙技芸」を、現代の科学技術を取り巻く状況を踏まえて再生させる必要があるとホイは主張する。
生命的な性質も
とはいえ、その現代版宇宙技芸の具体化は困難な作業だ。準備段階として、宇宙の前に生物と関連付けるところからはじめてみよう。人工物や機械に生命的な性質、とくに霊魂を感じ取る心性は「テクノアニミズム」と呼ばれる。日本人に特有の技術観として、2000年代前後から人類学者のアン・アリソンや、奥野卓司(『人間・動物・機械』角川oneテーマ21・品切れ)らが提唱した概念だ。
実はその数十年前に、梅棹忠夫『美意識と神さま』が、この用語こそ使っていないものの、同じ現象をすでに指摘している。同書所収の「家庭における神と芸術」が梅棹テクノアニミズムの嚆矢(こうし)で、その初出は今から半世紀以上前の1959年である。
彼がアニミズムの発露として指摘するのは、冷蔵庫の上に鏡餅を置いたり、自動車のフロントグリルやテレビに注連(しめ)飾りを付けたりする日本人の風習だ。これらは今ではほとんど見られなくなっているが、その代わり今の人はスマホにあれこれとアクセサリーを付けて飾り立てている。あんなにしたら使いにくかろうとも思うのだが、そんな批判は野暮(やぼ)な話で、当の本人たちは「スマホの神さま」を崇(あが)め奉っているのだ。
いつも身近にいる等身大の存在。西洋近代的な資源収奪型・人間疎外型のAIではなく、使って楽しく、そこにあってうれしいAIと共存する社会は、このような見方から生まれてくるのではないだろうか。=朝日新聞2023年9月16日掲載