「照子と瑠衣」書評 人生の忘れ物愛しみ なお前へ
ISBN: 9784396636517
発売⽇: 2023/10/12
サイズ: 19cm/216p
「照子と瑠衣」 [著]井上荒野
人生には忘れ物が付き物だ。あの時に諦めた恋、手を離してしまった大切な人、選ばなかった仕事。とはいえ大抵の人間は様々な忘れ物に悔いを残しつつも、年齢や立場を言い訳に、それらに知らぬ顔を決め込む。
照子と瑠衣は70歳。モラハラ気味の夫、終(つい)のすみかに選んだ高齢者専用住宅、それぞれに見切りをつけた旧友同士は、シルバーのBMWで東京を離れ、無人の別荘に勝手に入り込んで共同生活を始める。その暮らしは2人の人生経験に支えられ、逃避行中であることを忘れさせるほどのびやかだ。だがこの物語最大の魅力は、彼女たちがただ現状から目を背けるのでも、老いに急(せ)かされて過去の忘れ物を拾い集めようとするのでもなく、過ちも失敗もある来し方をしっかり踏みしめた上で、更なる人生を楽しもうとする点にある。
「さようなら。私はこれから生きていきます」
照子は45年連れ添った夫に、こんな書き置きを残す。2人とて無論、自分の年齢を顧みぬわけではないのだ。しかし、それがどうした。誰だって、生きていれば年を取る。ならば何かを成そうとした時、年齢は決して何の言い訳にもなるまいとばかり、彼女たちは互いのために様々な思惑を巡らせる。中でも最大のものは、照子による物語の中核を成す企(たくら)み。ただ、万人が納得する分かりやすいハッピーエンドはそこにはない。人生の忘れ物を愛(いと)しみ、そのかけがえなさを確かめつつも、なお前へと進む照子と瑠衣の背中には、人生の価値を決めるのは自分だという強い意志が漂う。
軽トラに乗って現れるベレー帽の老婦人、夫の健康を知って落胆する主婦。「『冴(さ)えない、平凡な一生』なんてものはそもそも存在しない」とは照子がある小説を通じて得た結論だが、誰の生涯にも等しくひそむ豊かさと悲しみを洒脱(しゃだつ)な眼差(まなざ)しで切り取り、読者にそっと勇気を与えてくれる物語である。
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いのうえ・あれの 1961年生まれ。2008年に『切羽へ』で直木賞受賞。著書に『僕の女を探しているんだ』など。