稀有(けう)な才能の持ち主が、どのように世界と出会い、覚醒し、様々な価値観を受け入れ、翼を広げるか。その普遍のプロセスを示してくれるドキュメンタリーのような一冊だ。
「これまで何となく通り過ぎていた風景が、言葉として残っていく。書くことで、人生の一瞬一瞬がとても貴く感じられるようになった」
昨年からベルリンで一人暮らし。家事や散歩など音楽以外の日常に意識して心を向けるようになった。
ピアノに向き合っていない「寄り道」の時間に、音楽家としての自分が豊かに育てられていることを今、改めて実感している。ある時、イタリアのレストランで理想のペペロンチーノに出会えた。でも、次に訪ねた時にはもうその時の感動は味わえなかった。店のレシピが変わったのか、自分が変わったのか――。音楽でも、同じ人の同じ曲の演奏で同じ感動が味わえるとは限らない。日常に心を研ぎ澄ませることは、芸術の本質に触れることだと思い知る。
「言葉が音符に似ている」と言う気付きもあった。同じ言葉でも脈絡によって醸す意味は大きく変わる。同じモチーフも出てくるたびに語る内容が違う。何度も立ち止まり、何度も解釈を煮詰める。ものを書くことも、どんな景色も見過ごさず、その前で立ち止まるということだ。
多くの巨匠との出会いとともに、恩師の野島稔との別れもあった。10代の頃、野島の前でプロコフィエフの「戦争ソナタ」を弾いた時のことを思い出す。勢いと陶酔に身を任せることは、作曲家が魂を封じ込めた一つ一つの音をないがしろにすることだとたしなめられた。「作品と一対一になる『私だけの時間』を今は何より大切にしたい」。言葉と同じくらい、自分から生まれる音にも責任を持って生きていく。この覚悟がきっと、未到の躍進の礎となる。(文・吉田純子 写真・伊ケ崎忍)=朝日新聞2023年12月9日掲載