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「方舟を燃やす」書評 信じることは救いにも呪縛にも

評者: 藤田香織 / 朝⽇新聞掲載:2024年03月16日
方舟を燃やす 著者:角田 光代 出版社:新潮社 ジャンル:日本の小説・文学

ISBN: 9784104346080
発売⽇: 2024/02/29
サイズ: 20cm/425p

「方舟を燃やす」 [著]角田光代

 子どもの頃、漠然と信じていたものがあった。ネッシー、UFO、ツチノコ、透明人間。信じた理由を明確に説明はできない。テレビで見たから。みんなが噂(うわさ)していたから。それだけで、自分にもスプーンを曲げる力があると思い込み、口裂け女に怯(おび)えて泣いたのだ。
 一九六七年に鳥取で生まれた柳原飛馬(ひうま)と、同年高校二年生になった東京に暮らす谷部不三子(ふみこ)を視点人物とした本書は、世代と性別の異なるふたりの生きた昭和から平成、令和へ続く歳月を丁寧に描きだしていく。
 ともに十代で片方の親を亡くし、それぞれに苦労も挫折も経験するが、ふたりはごく「ふつう」の範疇(はんちゅう)の大人になる。結婚し、不三子は出産もする。しかしその「ふつう」は、本人の思う「ふつう」であるとは限らない。満たされぬものを抱えたまま異なる時間を生きるふたりの世界が、やがて交差し重なる構成は巧みで、同世代の読者には懐かしいエピソードも散見される。
 しかし何より印象的なのは、ある物事を信じるが故に、とらわれ傾倒していくふたりの姿だ。震災ボランティアや自然食へのこだわりは決して悪いことではなく、だからこそ、あぁ、と目を伏せたくなる。
 飛馬と不三子が信じたものも、信じられなかったことも私が生きてきた歳月のごく近くにあった。悪意ある噓(うそ)やデマもあれば、根拠のない善意の押しつけもあった。自分もあのとき、と、引き起こされた記憶にまた目を伏せる。
 信じられるものがあれば、心のよりどころになり救いになるが、痛みになり呪縛にもなり得る。信じられるのは自分だけ、と言えるだけの強さはふたりにも、私にも、恐らく多くの読者にもない。
 では、どうすれば。
 ネットやSNSから溢(あふ)れ出る情報をどう取捨選択すればいいのか。誰か教えて欲しいと思うが、それこそ甘えだと途方に暮れる。厄介な、けれどこれが読書の醍醐味(だいごみ)だ。
    ◇
かくた・みつよ 1967年生まれ。2005年『対岸の彼女』で直木賞。21年『源氏物語』訳で読売文学賞(研究・翻訳賞)。