夏日が観測される日が散見される四月だった。雨の日も多く、湿度で髪のおさまりが悪く、体も怠(だる)い。この体感は五月か六月のものではなかっただろうか、と急な暑さに戸惑った。年々、蒸し暑いと感じる期間が延びている気がする。
梅雨のない北海道で生まれ、幼少期はサバンナ気候のアフリカで育ったせいか、湿度に弱い。梅雨の時期はいつも体が重くて、胃腸の調子も悪い。大学進学で京都に住んでからは蒸し暑い夏場は虫の息だった。盆地も、梅雨のある気候も、体に合っていないと感じた。この先、温暖化が進んで暑い時期が延びたら、一年のほとんどを体調の悪さを抱えて過ごさねばならなくなるのかもしれないと思うと気が滅入(めい)った。この世にはもっと自分の体に合った土地があるのではないかと思いを馳(は)せた。
しかし、寒くなって乾燥してくると、きれいに梅雨や夏のしんどさを忘れる。最適な気候を求める気持ちも霧散する。その繰り返しで、二十年ほど京都に住み続けてしまった。
三年前に東京に引っ越してきたとき、乾燥しているな、と感じた。京都よりは気候が合うとは思うが、梅雨や夏はやはりつらい。冬場の風の強さもちょっと困る。なにより水が硬い。茶や出汁(だし)の味が京都にいるときと違って感じられて、最初はそれに一番困惑した。友人から「京都のほうが水が合うんじゃない?」と訊(き)かれたが、確かに水の味だけでいったら京都のほうが好みだ。けれど、その土地の風土で快適に過ごせているかというと、どちらも違う気がする。違う、合わない、と感じながらも人は暮らせるのだなと思う。
世の中の人はどうなのだろう。住んでいる地域の気候が自分にとって最適だと溌剌(はつらつ)として生きているのだろうか。それとも騙(だま)し騙し暮らしていくうちに順応するのか。訊いてみたい、と思いながら、今日も最適とは言い難い気温と湿度の中、生活を営んでいる。もし、最適と思える気候に出会えたら、その地は私のユートピアとなるだろう。=朝日新聞2024年5月8日掲載