「本と自然が好きな子供」
――いつもいちばん古い読書の記憶からおうかがいしております。
増田:小学校の2年生くらいから学校の図書室で本をたくさん借りてました。でも最初に大きな影響を受けた本はクラスの友達が家から持ってきたバージェス・アニマル・ブックスというシリーズです。すぐにそれにはまってしまい、図書室で繰り返し読みました。アニメになった「山ねずみロッキーチャック」の原作です。アニメのほうも好きでしたが、原作本のテイストはアニメとかなり違うんです。動物寄りというか動物学寄りというか、地下のトンネルを逃げるネズミとそれを獲ろうとするキツネの駆け引きとか。アニメに出てくるキツネのレッドのようなキャラではないんです。後に動物生態学に興味を持ったのにも影響があるし、空気感作りとかで僕の他の小説のバックグラウンドのひとつになっています。それからポプラ社の伝記シリーズ。ガリレオとか石川啄木とかコロンブスとかたくさんありましたよね。そらからまさに全盛時代になろうとする少年漫画誌、「マガジン」とか「チャンピオン」とか「ジャンプ」とか「キング」とかを貪るように読んでいました。もちろん他の作家さんたちも挙げられている、子供向けにリライトされたコナン・ドイルとかモーリス・ルブランとか江戸川乱歩。
――シャーロック・ホームズとかアルセーヌ・ルパンとか少年探偵団とかですね。
増田:ええ。それを小学校2年生から3年生、4年生の中頃まで読んで、5年生くらいからぼちぼちと大人版、日本語版の原本に移りました。公立の図書館で大人版のホームズや横溝正史さんとか借りて。友達のT君という子と一緒に事件や人物の表を作ってシャーロキアン気分になってました。もちろん小学生だからシャーロキアンなんて言葉は知らないですが、子供も研究オタクにしてしまう力がドイルにはあるんでしょうね。大人版はルビがないから当時はわからない漢字だらけでしたが前後関係から読み方を類推して読んでいた。大人になってパソコンで文章を書いていて、漢字を変換しようと思ったらできなくて、それで初めて間違って読みを憶えていたと気づくこともあります。でもこれは英語で単語の意味を類推しながら読むのと同じですよね。だから長じてから英語を読むときに役立ちました。
勉強は比較的好きだったんですけれど漢字の練習とか九九とか、そういう単純作業は面倒に思う子供でした。後に中卒で大相撲へ行く同級生がいたんですけど、小学生のとき彼と2人だけ授業後に残されて九九の練習させられたりしてたのを覚えています。それでも馬鹿らしくて最後までやらなくて、逃げ回って、今でも最後まで九九が言えません。
――小さな頃から本を読むのが好きな子供でしたか。
増田:小学校入ったときはもう「趣味は読書」という感じでした。当時、小学校の図書室でいちばん本を借りていたから、おそらく相当読んでいたんだと思う。1日1冊読んでた。だって当時の子供はほかにやることがなにもないもん。インターネットがない時代だから知識を得るのは本だけでしょう。図鑑も好きでした。図鑑の写真やイラストを見て解説を読んで本物を想像したり空想したりするのが好きだった。だから外で遊んでる時間以外は本を読むか漫画を読んでるかアニメを見てました。
――あ、アニメもご覧になっていたのですね。当時好きだった番組は。
増田:当時リアルタイムでいちばん衝撃を受けたのは「アルプスの少女ハイジ」です。あれ、崖の上のシーンから始まるでしょう。オンジの家の辺りが切り立った崖だらけなんですよ。ネットなんかない時代だから当時の子供はアルプスの写真すら見たことがない。それをアニメーションでいきなり見せられて衝撃を受けました。しかもカメラのアングルがカメラマンが落ちそうなアングルで撮る感じなんです。巧いですよね。
――アルプスの切り立った崖と青空を背景に、ハイジが勢いよくブランコを漕いでいるオープニングでしたね。
増田:アングル。カメラワーク。シーンの見せ方というものを僕はあのアニメで体感的に知りました。完全に実写映画のカメラワークですよ。いまでも小説を書くときにカメラワークというのを無意識に使ってるのはあの衝撃があったからかも。プロットを作って構造を作って書き始める作家さんが多いと思うんですけど、僕は場面を描くところから始めます。アングル、カメラワークから入るんです。頭に浮かぶ映像のままに描いていきます。ハイジの影響じゃないかな。ローレンツのハイイロガンの実験みたいなもんですよ、生まれたときに見た動くものを親だと思うっていう(笑)。それがハイジのカメラワークだったのかもしれない。
毎回、TVの前に正座して妹と見入ってました。スイスなんて知らないし、海外の映像を見るといったら「野生の王国」や「驚異の世界・ノンフィクションアワー」で動物とか自然とかを見るくらいだったから、もう、衝撃でしたね。オンジの家が崖のところにあるじゃないですか。あんな崖の上に住んで落っこちないのかなと思った。チーズを暖炉で柔らかくしてパンにのせて食べるのを初めて見て美味そうって思った。カメラワークにしても、人間関係の描き方にしても、すごく影響を受けている気がします。宮崎駿さんとか高畑勲さんとか、現在の大御所たちがバリバリの若い頃みんな関わっていたんですよね。脚本も素晴らしい。子供向けではなく大人でもグッとくる複層的な物語にしている。オンジの心理とかもしっかり描いている。だから小学生の僕や妹だけじゃなく父や母も一緒になって泣いてました。当時、宮崎駿さんたちはスイスまで直接取材に行ってたと聞いてます。一流の制作陣の考え方にハイジというアニメを通して小学生時代に触れることができたことに感謝します。今、あのレベルの脚本のアニメってないでしょう。
――増田さんは子供の頃、インドアタイプでしたか、アウトドアタイプでしたか。
増田:さっきも少し言いましたが、もともとは勉強が好きな子供で、根本的にはインドアです。でも池とか川で泳いでいたからアウトドアでもありました。
親父が警察官で「勉強なんかしないで遊べ」というタイプだったんです。「もっと男らしくしろ」って。その後、あの頃の自分はその言葉に相当傷ついていたなと気づきました。僕は動物図鑑を見たり昆虫図鑑を見たり、小説を読んだりするのが好きだったんです。海外ものも6年生くらいでヘミングウェイとかを読んでいました。難しくて頭の中になかなか像を結ばなかったですけど、大人のものに触れることによって大きな刺激があったと思います。
――図鑑も好きだったんですね。
増田:読書については僕はいくつか柱があるんです。もちろん、『このミステリーがすごい!』大賞でデビューしたのでエンターテインメントはひとつの大きな柱ですけれど、もうひとつは、自然科学系のノンフィクションです。僕、中退ですけど大学は理系なんです。海洋生物系。北海道大学水産学部です。水圏生態系をやりたかった。とくに海洋動物生態学です。南極のペンギンにも興味はありましたけど、それよりも北極のホッキョクグマですね。あとセイウチとかアザラシとか。当時は地上波TVで観るか図鑑でしか見れなかったけど、あの氷の上や下に住んでること自体が驚異的だった。しかもあいつらでかいでしょう。泳いでる哺乳類のクジラとかシャチも含めて。もう驚異的な世界ですよ。いま考えてるだけでも鼓動が速まるくらい好きです。当時はもっと感覚的に地球が広かったんですよ。それに暑い場所と寒い場所の差が大きかった。だから子供にとって想像するだけでワンダーランドだったんですよ、地球そのものが。
動物そのものだけではなく学問としての動物学に興味を持ったのは、小学校6年の時に『有限の生態学』っていう有名な本と出会ってです。東北大学の栗原康先生の。中学でも高校でも大学でも読み直しましたが、これは名著中の名著です。最初子供には難解なところがありましたが、あそこから入ったのが僕が動物生態学に興味をもつ端緒でした。瓶の中に水を入れて外に置いておくと微生物とか繁殖してだんだんと生態系を作っていくんです。それで大きな池だって有限じゃないか、海だって有限じゃないか、地球だって有限だぞってことが、感覚的に理解できます。中学生くらいから地球環境のことを考えるようになったとき、すごくその考えが生きた。そして実はこの考えは、社会科学や人文科学にも流用できるというか本質を衝く考え方なんです。そういうものの見方があると知ったのがその本です。そして今に生きている。『有限の生態学』の小さな生態系を作ってその中の生態系の変化を細かく記述していく手法、実は小説の書き方と一緒なんですよ(笑)。
小説というのは、1冊のなかにひとつの生態系を作る作業なんです。その1冊分の人生なり出来事なりを時系列に記録したものなんです。でもその有限の世界に無限の大きさが潜んでいる。たとえば僕の『七帝柔道記』『七帝柔道記Ⅱ』なんかは北海道大学柔道部という20人とか30人とか40人とか非常に狭い世界の話ですけれど、組織の復活論が軸になってる。これは5万人や10万人の大企業と同じ組織論なんです。まったく変わりません。大きかろうが小さかろうが、そこにすべてが含まれるっていう考え方は僕は最初に『有限の生態学』で知りました。
「旺盛な知識欲」
――愛知県のご出身ですよね。
増田:名古屋市に隣接する尾張の穀倉地帯です。おそらく江戸期から昭和中期まで農地だったところで、平地にも大きな森があちこちにあった。生物学で二次遷移っていうんですけれど、人間の手で畑とかになったところが放っておかれると、またゼロから生態系の遷移が始まるんです。まず草が生えて草地になり、木が少しずつ生えて疎林になり、林になり、さらに樹が増えて森になっていく。僕が育った土地はそういう二次遷移の場所で、クヌギなんかの天然林と、桃とか柿とかイチジクといった果樹が混じった森がたくさんありました。もともと農地だから桃や柿の樹が混じってる。その森のなかを駆け回って鳥を獲ったり、川や池で魚を獲ったり。野いちごとかアケビとか、そのへんにいっぱいおやつがありました。だから、暗くなるまで家に帰らなかった。そして帰宅すると寝るまで読書です。
小学生の中学年くらいまでは自然の野池だと思ってたんですが、高学年になると元々は農業用の溜池だったのだとわかってきた。どの池にも小さな石碑があるのを見つけたんです。15XX年とか16XX年とか書いてあったから400~500年前に作った池なんですよ。当時は外来種のブラックバスやブルーギルもその地方ではいなかったから、もう底が見えないくらい様々な在来種の魚がいました。それにイシガメやクサガメ。タガメとかゲンゴロウなど昆虫類もいっぱいいて、服着たまま泳いだり魚追いかけたりして遊んでた。家に帰ると母親に怒られて外でホースで水かけられて。夜も当時はクーラーなんて普通の家にはまだない時代だから網戸にして寝るでしょう。そうするとカエルの声で眠れないくらいうるさい。秋の虫もそう。そしてイタチやタヌキ、キジやウズラが走り回っていた。地面や草地なんて昆虫だらけですよ。そうした生き物を、図鑑で見ながら憶えていきました。父やおじさんの世代はみんな知っているから教えてくれたし。いま思うと非常に恵まれた生活でした。
――まわりにいろんな生き物がいたんですね。
増田:ところが、小学6年生の終わりから中学1年生くらいの頃に、魚も昆虫も鳥たちも突然消えたんです。スズメくらいしかいなくなっちゃった。衝撃だった。あとでわかったんですけど、農薬ですよ。あと河川の護岸工事。
それで図書室や図書館でいろいろ読みました。有吉佐和子さんの『複合汚染』とかレイチェル・カーソンの『沈黙の春』『われらをめぐる海』とか。カーソンはアメリカ内務省魚類野生生物局を辞めて著述に専念していた水産生物学者です。その彼女が一般の人にもわかりやすい啓蒙書として『沈黙の春』とか『われらをめぐる海』を出して世界的なセンセーションを起こしていた。僕はそれを読んで相当な衝撃を受けました。自分が愛していた水棲生物や鳥たちがいなくなってしまっているのに国も自治体も何もしないから。
僕はきっと、心から生き物が好きなんです。だから突然いなくなったのがショックだった。同級生たちは成績とか恋とか野球とかサッカーに目がいっていたんだろうけれど、僕は生き物に目がいっていたんです。
それが昭和40年代、50年代でした。まだ野犬もいっぱいいたし、家には「弁慶」という名前の大きな秋田犬がいた。ウサギやモルモットやキジやインコやウズラや、いろいろ飼ってた。親父が名古屋コーチンを庭で放し飼いしていました。他の農家の家は卵とか食べてましたけど、うちは父が警察官でしょう。別にそれが仕事じゃないんです。名古屋コーチンもチャボもアヒルもみんなペットですよ。そして僕が世話係をさせられていた。いずれそういう土地で暮らす少年たちの生活を小説にしたいです。
――知識欲の強いお子さんだったようですね。
増田:研究者タイプなんですね。だから『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』みたいなのを書けたんだと思う。小学校高学年の頃にはコンピュータ関連、電気関連のことに凝ったことがあります。その時は「トランジスタ技術」をぼろぼろになるまで読み込んだ。当時はネットがないから誌面でマニアたちが意見交換をしたり部品を売り買いしたりしていました。子供だから毎月雑誌は買えないので同じものを何十回も読んでジャンルを理解していきました。やらされる勉強じゃなくて知的欲求だけで難解なマニア向けのものから入るから覚えるのが速い。漫画家の板垣恵介さんと話したときに「昔は漫画の単行本を買う金なんて田舎の子供は持ってなかったから数冊しかなくて、同じ漫画ばかり、あるいは同じ漫画雑誌ばかりボロボロになるまでめくっていた。それで物語の作り方が身体に染みついた」という話を互いにしたんです。まったくそのとおりで、子供のころに繰り返しひとつの場所を理解していくことは大切なんじゃないかな。
小学校時代から趣味はすべて専門誌から入った。例えば釣りに関しては「釣り人」とか、ラジコンに関しては「ラジコン技術」とか、当時は雑誌全盛時代だから中心になる老舗雑誌があって。今は僕は釣りはやりませんが、小学時代に雑誌の広告で憧れた海外メーカーの製品を今でもやたら詳しく知ってるんです。リールだったらアブのアンバサダーとかミッチェルとか。だから釣り好きの人と会話していて驚かれることがあります。
ラジコンは小学6年の時だと思いますが田宮模型がコンバットバギーという初の本格的な電動ラジコンカーを出したんです。すぐに貯金箱を割って購入して徹夜して組み立てて、それからはまた「ラジコン技術」で大人たちと交流を持って手紙とかやりとりしてた。その後、エンジン式のものが欲しかったんですが、それを買うお金ができる前に中学に入学して野球部に入って時間が無くなってしまったからラジコン熱は冷めてしまいました。あのときもう少し早くエンジン式のラジコンを購入できていれば、いまは自動車か飛行機の技術者になっていたかもしれません。
そうやって、あるジャンルを深掘りしていく手法はノンフィクション執筆でも小説執筆でも同じだと思うんです。だから今でも非常に役立っています。
――ミステリの他に小説は読みましたか。
増田:富島健夫先生の『女人追憶』はよく覚えてます。「週刊ポスト」で連載していた作品です。当時は富島先生みたいに芥川賞候補にも挙がったりした作家さんが色物の小説を週刊誌に連載してたから非常にレベルが高かったんです。宇野鴻一郎さんとか団鬼六さんとかも書いていましたが、富島先生はもっとスタンダードな文体と表現なんです。
小学生の頃、親父とお袋がいない時に富島先生のその連載を読んで、あんまり意味がわからないけれどなんか面白いな、と思っていました。動物を飼っているとウサギとか鶏とかも交尾するでしょう。あれと関係あるのかな、とか類推してね。子供向けにリライトされたダーウィンの『種の起源』とか動物系の本を読んでいましたから、脳内で細かい知識のシナプスが少しずつつながって、生物学の基礎みたいなものが何となくわかってきていた。
富島先生は非常に文章がきれいで勉強になりました。しなやかというか艶のある文章で、リズムもあって、難解でなくて、決してそのものは描かなくて。だから小学生の僕が読んでも空気感が伝わってきたんでしょう。
相変わらずドイルやルブランや横溝正史も読んでいました。ドイルに関しては完全にシャーロキアンでしたが、乱歩は大人向けになるとおどろおどろしいから、6年生くらいの時に1、2冊大人向けを読んで怖くてちょっと遠ざけちゃったけれど。中学生になってから大人向け乱歩を続けて読んだ。でもやっぱり怖かった。怖がりなんです。妹はテレビで明智小五郎の怖いやつ観てたけど、僕は怖くて観ることができなかった。
ああいう空気が怖くて怖くて、僕は幽霊も怖くて、最近まで電気つけたまま寝てたんです。小学生の時はとくに幽霊は怖かったです。夜おしっこしたくて目が覚めてもトイレに行けなくて、朝まで我慢していました。大人になったらトイレまで行かなくていいホースを開発しようと思っていました(笑)。
――小中学生時代は柔道は習っていなかったのですか。
増田:僕は小学校のときはソフトボールとサッカー。中学では野球部です。だからサッカーや野球の技術本を多く読んでた。柔道をやりたいと思ったのは、小学校6年生の時に、母親と喧嘩したことがきっかけです。その頃はもうだいたい母親と同じくらいの体格だったんですよ。言い合いからつかみあいの喧嘩になって、こっちは野山を駆け回っているから勝てると思ったんだけど、不思議な技で投げられたんです。いま思うと小手返しです。僕は一回転して吹っ飛んだ。それで馬乗りになられて顔をバチバチ叩かれた。母親は「ここで締めておかないと手の付けられない男の子になる」と思ったみたいです。あとで聞いたら、母親はもともと警察の職員だったんですね。それで父親と出会ったんです。その時代に護身用の逮捕術の講習とか受けて、柔道とか合気道をやっていたんですよ。
僕ら小学生の喧嘩って技術なんてないんですよ。押したり引いたり脚を蹴ったり、ちょっと拳を握って猫招きパンチしたり。そんなものです。それが母親に投げられて「喧嘩にこんな不思議な技術があるんだ」って知って、コペルニクス的転回くらいびっくりしちゃって。親父の本棚に警察学校時代の柔道の本があったのでそれをめくったら、いろいろ載っていました。中学校で相撲が流行った時にそれに書かれてある通りに一本背負いをかけたら、全然力が要らずに梃子の原理で簡単に投げることができた。それで柔道って面白いなと。でも中学には柔道部がなかったし、近所に道場もなかった。高校に柔道部があったのですぐに入りました。
――ご家族は、ご両親と妹さんですか。
増田:4つ下の妹がいます。僕が読む少年漫画を一緒に読んでいました。僕が小学生の時に「ジャンプ」で連載が始まった「こち亀」(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』)とか、「チャンピオン」の『ブラック・ジャック』とか『マカロニほうれん荘』とか。あと『エコエコアザラク』とか『三つ目がとおる』とか『けっこう仮面』とか(笑)。兄妹って面白いんですよ。4つ違いなのに僕が読んでる漫画や小説を手にするからどんどんませていく。僕が高校生のときに読んでた小説版の『家畜人ヤプー』に彼女は小6でハマってましたから。『ドグラ・マグラ』とか『虚無への供物』とかも中学生で読んでた。意味わかってたのかな。そういえば女子高校生時代に『柔侠伝』とかシブい柔道漫画も読んでましたよ。
うちはテレビを見るなとか漫画を読むなという親ではなかったので、漫画はたくさん読んでいます。憶えているのは小学校2年生の時のクリスマスに、初めてサンタからプレゼントをもらったんですよね。枕元に「ジャンプ」が1冊ありました。警察官の子供で金持ちの子みたいに単行本が買えないから、その「ジャンプ」をボロボロになるまで繰り返し読んだのが漫画沼にはまるきっかけでした。
――逆に妹さんからの影響もありましたか?
増田:もちろん。妹は少女漫画も読みはじめたから、僕もそれを借りて読みました。一世を風靡した『エースをねらえ!』とか『ガラスの仮面』とか『キャンディ♡キャンディ』とか。彼女も小学校や中学校で友達と全巻セットの貸し借りとかするでしょう。それを家に持ってくるからたいていの少女漫画も読んでたと思います。
『キャンディ♡キャンディ』では最後の巨大などんでん返しに「ええっ!」と驚いて、創作の凄みを初めて知ったんじゃないかな。アンソニーへの恋。テリーへの恋。他の女の子たちがキャンディス・ホワイトに最後は持っていかれちゃって嫉妬するその気持ちも面白かった。それにアンソニーの死があるでしょう。だからこそその後のキャンディの人生がエッジのきいたものになってます。
『エースをねらえ!』も恋愛と死の話ですよね。死があるからやっぱり物語に腰があって強靱です。それから桂コーチ。彼の宗教性の描き方というのが素晴らしい。今思うととにかく勉強になってます。「花とゆめ」の『パタリロ!』にもはまりました。あれはアニメが非常に忠実に作られていてアニメ版も欠かさず観てました。今でも好きです。
妹と共有したスポーツものではあだち充先生の『タッチ』は上杉達也の最後のど真ん中ストレートがとにかく響く。ストレートといえばノンフィクションで30年も前に読んだものですが『初球はストレート』という荒木大輔を扱ったものがあります。僕はあれも大好きですね。
――ところで『家畜人ヤプー』みたいな本って、どうやって見つけたのですか。
増田:図書館にも行っていたし、近くにあった12畳くらいの小さな本屋にも行ってた。近くといっても自転車で20分くらいかな。そこに置いてない本も、目録とかを見て頼むんです。そうすると1カ月くらいで来た。逆にいうと当時は1カ月もかかったんですよ、本が届くのに。
僕は小6で筒井康隆さんにはまって、小6から中1にかけてずっと筒井さんの本を読み返してはゲラゲラ笑っていたんです。『家畜人ヤプー』はおそらく、筒井さんのエッセイか何かに出てきたんじゃないかなあ。
――筒井さんはどのあたりから入っていたんですか。
増田:短編集から入って、「だばだば杉」(『おれに関する噂』所収)とかを読んで。それで富島健夫先生の本のなかの描写とかと繋がって、庭で飼ってる動物たちの交尾とかも知識が繋がってきた。
筒井先生からものすごく影響を受けたのは彼の読書嗜好です。エッセイ集を当時たくさん出していて、そこで自分の嗜好を開陳するんで、僕の読書もどんどん拡がっていった。インターネットのないあの時代は、読書というのは一人の作家の山を食い尽くしては次の山へ行くという、山脈の登山行みたいなところがありましたよね。
筒井先生のエッセイには山藤章二先生のイラストがありました。筒井先生の目やら鼻がないイラストが妙にツボでした。というより田舎の生徒ですから、文化的なものに見えたのかもしれない。実際に文化的でしたし(笑)。
――筒井さんの作品で一番はまったのは?
増田:筒井先生の本当の怖さというか、大人の怖さ、社会の怖さ、文学の怖さ、深さ、不可思議さ、宇宙的感覚というか、そういう感覚を得たのは「七瀬」シリーズです。『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の三部作に衝撃を受けました。
あれは最初は七瀬がお手伝いさんとして八件の家のいろんなことを知っていく話で、最後には神の話になるでしょう。壮大な物語です。ミュージカルの最後の盛り上がりみたいな感じで、最後のシーンで何が起こっているのかわかっていないけれどただ感動があって、小説ってこんな高揚感をもたせるんだと思いましたね。
並行して星新一さんにもはまりました。ショートショートも好きでしたけれど、自分がぐっときたのは、星新一さんが書いたお父様の評伝、『人民は弱し官吏は強し』ですね。おそらく中学1年のときに読んだ。
星製薬の創業者で社長だったお父さんの伝記で、結構な長編なんですよね。ショートショートを読んでものすごくテクニカルに短いものを書く人だと思っていた星さんが、そういうものを書いてることにまず驚きました。しかも、魂を叩きつけるように書いている。題名からもわかるように、民間企業が官吏につぶされていくさまを描いているから。あれを書きたくて小説家になったのかもしれないですね。
だから、筒井さんの七瀬シリーズで物語の壮大さと盛り上がり、星さんの『人民は弱し官吏は強し』で、血のついたペンで叩きつける情熱っていうのを知りました。それと、おそらく七瀬シリーズより先に、北杜夫さんを読みました。
――北杜夫さんのどの作品ですか。
増田:『楡家の人びと』です。戦争に関する興味が拡がって、その流れで読んだ作品でした。北先生自体は、トーマス・マンの『ブッデンブローグ家の人びと』からインスパイアされたことを度々エッセイなどに書いていますが、僕は原典ともいえるトーマス・マンのほうは何度か挑戦しましたが最後まで読めませんでした。中に入り込めなかったんですね。一方で「楡家」のほうは何度も繰り返し読みました。ある一家の代々の歴史を大河的に描いていて、その大河性が、中学生だった僕にはショッキングでした。それは筒井康隆さんの七瀬シリーズが最後に巨大な話になっていくショックとも少し似ていた。
僕の小説やノンフィクションがやたらと長くなって群像劇のようになるのは、「楡家」の影響が強いかもしれません。大長編でしか味わえない感動を、まだ子供だった中学1年で経験したことが。
「楡家」でとくにショッキングだった場面、そして大人となって読み返しても素晴らしい場面は、関東大震災の描写です。あの一瞬を、あの時間を、見事に切り取ってます。あの場面は僕の小説の目標となっています。僕が『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』というノンフィクションの、さまざまな人物を多角的に延々と描写していき、中盤でエリオ・グレイシー戦や力道山戦に持っていくところ。あれはまさに北さんの影響ですよ。企んでやったわけではないですが、思考回路に入り込んでるというか。
――中学生時代、他にどんなものを読みましたか。
増田:中学1年生の時にジャック・ケルアックの『路上』を読みました。当時は受験戦争がすさまじい時代です。中学生なんてまだ子供だから、小6ののんびりした時代からいきなりその受験戦争に巻き込まれて大いに傷ついた。つい先日まで小学校で牧歌的に暮らしていた同級生たちが内申点のために必死に勉強を始めて、席次という名の暴力の前にお互いをライバル視するようになってしまったから。愛知県は公立優位の県で、その公立高の入試は内申点が半分のウェイトを占めたんです。だから受験前に半分結果が決まってしまう。みんな必死になり、小学校時代のような純真な眼差しは消えた。僕はひそかに傷つきました。そのとき読んだのがケルアックの『路上』です。そこにはあてのない逃走が書いてあった。その逃走は《闘争》でもあったと思います。教師たちや社会との闘争。そしてそこからの逃走。ふたつの《とうそう》が僕には非常に魅力的というか蠱惑的にうつった。「文学とはこういうものなんだ」と気づいた作品であるし、「ノンフィクションとはこういうものなんだ」と気づいた作品でもあります。だから僕がいま小説も書き、私小説も書き、ノンフィクションも書くのは、ケルアックの影響が大きいかもしれません。
それと藤原ていさんの『流れる星は生きている』。これは中学1年で読みました。「勉強で競いあう同級生たち」が汚く見えて、当時はできるだけそこから距離を置くために、読書量がさらに増えていった時期です。
『流れる星は生きている』は、自分が私小説にはまることとなった作品です。普通は夫の新田次郎の諸作品を読むうちに藤原ていにいきつく人が多いらしいけど、僕は奥様のほうからはまった。《経験》の強靱さを知った作品だし、《過去》というものをどう捉えるかを、後々まで決定づけた作品です。これが戦争と満州を描いているのも大きかった。脳味噌が「そっち」へ行ってしまった。
他には、岸田秀さんやフロイトとかユングも読みました。中1の時、『夢判断』を読んだりして。その頃、僕ともう一人、建築家の息子のS君と2人で先生に反抗して、班ノートに「チョークのような尖ったものを握るのは男性器の象徴だ」みたいなことを書いたんですよね。わかりもしないのに(笑)。中1がそんなこと書いてきたらむかつきますよね。先生がその班ノートに「彼らのように若いときから変な本を読んだら変な大人になる」みたいなこと書きこんだんです。それで班ノートが今のネットでいう炎上状態になった。
僕はあとで知ったんですが、その建築家の息子のS君のお母さんがノートを見て、「ほかの生徒も見る班ノートにこんなことを書くとは、いじめを煽っているのも同然だ」といって僕の親にも連絡してきて、両親4人で先生に抗議しにいったらしいです。随分あとになってから知ったんですけどね。そうやって陰で親に守られたのを。
「高校から柔道を始める」
――高校時代はいかがでしたか。
増田:自由な高校だったからとにかく授業は聞かなかったですね。というより授業にあまり出なかった。他の生徒もそういうやつが多かった。留年しないために1単位あたり何回まで休めるという情報が生徒間で出回っていて、ぎりぎりまでサボった。私服だったので、1年生の時は外の喫茶店に行って本読んでたりパチンコ屋行ったり映画を観に行ったり。2年生からとくにひどくなった。で、ときどき授業に出ると「刑事コロンボ」のノベライズをずっと読んでた。もちろんドラマのほうも当時は再放送でやってましたから見ました。小学生の頃はNHKで観てて。あれはいろんな人が脚本を書いているんですよね。スピルバーグが監督の回もあった。それくらいいろんなバリエーションがあって、伏線の張り方もいろいろだった。ノベライズもすごく工夫して書かれてましたね。それから初期のスペンサーシリーズも高校2年の授業中に読むようになった。『初秋』とかね。
――旭丘高校では柔道部に入ったんですよね? 授業をさぼりながらも部活には出ていた、という感じですか。
増田:そうそうそう。僕は田舎の中学から入学したから、名古屋市内の子供たちと差があって、高校に入ったらまわりができすぎて驚いた。最初の定期テスト受けた時、自分の平均が75点くらいで、これはまあまあの位置だろうと思ったら、学年の平均が90点代だったの。それで駄目だと思いました。そこからはだいたい学校に行くのが11時くらいで、午後3時に柔道場に行っていました。旭丘は教師も旭丘OBばかりで午前中は先生自体が休講にしちゃうから(笑)。長閑な時代でした。当時あった柔道場は古い木造2階建てで広くてね。部室も8畳か10畳くらいあってキッチンみたいな大きなテーブルがあって椅子があって寛げるの。屋根裏部屋もあってロフトみたいになってた。畳も敷いてあるからすごく快適で、部員はみんな授業さぼって部室に来てごろごろしながら本を読んでた。
柔道を始めたばかりの高校1年の時に僕が部室で読んでいたのが、岡野功先生の『バイタル柔道 投技編』という技術書です。当時は基本的な技の入り方や投げ方を紹介している本ばかりで、応用的なことや試合で使うときの実際の動きをダイナミックな連続写真で作った本書は画期的なものでした。
でも当時、旭丘高校の柔道部師範は「この本はおまえらには早すぎる」と言って読むのをすすめませんでした。それくらいレヴェルの高い技術書です。でも「投技編」は高校時代に繰り返し読んで研究しましたし、『バイタル柔道 寝技編』は北海道大学に入って七帝柔道をやるようになってから研究するようになりました。
――柔道部の稽古は大変でしたか。
増田:旭丘の柔道部は愛知一中以来100年以上の伝統があって、昔は全国制覇もしていて、いろんなOBが顔を見せたりしてました。合宿も高校としては本格的なものだった。僕は歴史も好きだから当時から柔道の歴史の本を図書館で漁って読んでました。三船久蔵先生の『柔道の神髄』とか嘉納治五郎先生の伝記とか。そして当然のことながら専門誌の「近代柔道」を毎月ボロボロになるまで隅々まで読んで柔道マニアになってた。練習はきつかったけど、僕はなぜか受け腰が強くて、返し技が巧い選手でそれなりに強くはなれたと思う。3年生の時にインターハイが愛知県で開催されることになって、体重別個人戦も団体戦も愛知県に2枠与えられたんです。それで僕は1年生と2年生のときの手応えから体重別はもしかしたら代表になれるんじゃないかなと甘く思ってた。今から考えると、ほんとに甘いんですけど(笑)。県予選で東海高校の1個下のやつに投げられて、一本負けしちゃったんです。僕は立技で投げられた記憶があまりなかったんですが、そいつに綺麗に投げられた。あとで聞いたら彼は柔道家の息子だったらしいです。そいつは医学部へ行って、いま医者やってますけど、30代のときに共通の友達の結婚式で久々に会って「君に運命変えられたのに君は医者かよ。柔道でも勉強でもかなわないとか勘弁してくれよ」と言ったら笑ってました(笑)。
僕ははじめは早稲田の体育に行くつもりだったんです。当時はスポーツ科学科がまだなくて、教育学部に体育学専修というのがあって、そこにほかの運動部の先輩が指定校推薦で行っていました。それで自分でもそのつもりでいたら大会で一本負けして、全然推薦なんて話にならなかった。ほんとに箸にも棒にもかからない。いろいろな意味で考えが甘かったんです。「俺ってこんなに弱いんだ」とそのとき初めてわかった。
その数カ月前、2年生の終わりの春休みに名古屋大学柔道部が近隣の学校を集めて大会と合同練習をやった時に、七帝柔道という寝技の柔道があると聞いていたんです。なので3年生のそのインターハイ予選で投げられて負けて、大学では旧帝大へ行って寝技を中心にやろうと思った。投技は才能が必要だけれど寝技は努力がものをいう世界だと名大生に言われて。俺は才能ないけど寝技でどこまでできるかやってみたいと思った。
――七帝柔道は戦前の高専柔道を受け継いだ柔道で、七つの旧帝大が集まって年に一度大会が開かれているんですよね。『七帝柔道記』にも書かれてありますが、その合同練習の時に井上靖の自伝小説『北の海』で高専柔道が描かれていると教えられて、すぐに読んだそうですね。
増田:そうそう、名古屋大学のキャプテンとかにその本を薦められたんです。その本に大天井という豪傑が出てくるんだけれど「ここにおられる名古屋大学の師範、小坂光之介先生が大天井のモデルです」と言われて「すごい」と思って帰りに名古屋市内の本屋で買って帰って朝までかけて読んじゃって。ものすごく魅力的な世界でした。
それで七大学のどの大学を受けるかとなった時、受験勉強してなかったからどうせ最初はどこ受けても落ちるから、一番遠い北大にしたんです。九大も昆虫で有名だったから少しだけ迷ったけど、やっぱり大きな動物がやりたいと思った。まだ青函連絡船があったころだから、北海道の観光ブームも始まる前。温暖化も進んでいないから3月の頭なんて札幌でも雪が2メートルくらい積もっていて、街中のホテルの窓から見ても一面真っ白で。受験当日も大雪が降ってて、雪が踏み固められてアイスバーンになった道を雪まみれになって歩いて行きました。
「ルポルタージュの魅力を知る」
――そこから二年かけて北海道大学に進学されるわけですが、受験生時代も本は読んでいたんですか。
増田:僕の高校は図書室がデカかったんですよ。全国の高校で蔵書数が一番多かった。小説だけじゃなくて漫画もだいたい全部置いてあって、よく授業さぼって床に座り込んで読んでた。本屋の立ち読みより高校の図書室のほうが漫画がたくさんあるっていう学校は珍しかったんじゃないかな。
1回目の受験で北大に照準を絞ってからいろいろ調べて北大のヒグマ研究グループの『エゾヒグマ―その生活をさぐる』という、クマ研がはじめて出した本を、これは家の近所の本屋で取り寄せました。『北の海』と同じくらい何回も読みました。ヒグマの生態を研究している任意団体の学生たちが書いているんですが「教養部4年」みたいな人もいて。教養部は2年で終えるはずなのに。それで「ああ、北大ってこんなに留年していいんだ」と思いました(笑)。
――クマ研の本は、どうやって存在を知ったのですか。
増田:本多勝一さんのエッセイで知ったんだと思う。本多さんは、実家が薬局をやっていて、薬剤師の資格とったら好きなことやっていいといわれたので千葉大の薬学部を出て、それから京大の農林生物学に行き、朝日新聞社に入って多くのルポルタージュを出した人ですよね。初期の自然科学系の作品には素晴らしいものが多い。本多さんの『きたぐにの動物たち』は北大入学前から何回読んだかわかりません。非常にすぐれた動物生態学の本です。ああいった分野が商業書籍になるというのは、動物研究者たちにとっても励みになったはずです。
本多さんの本は他にも高校時代に『カナダ・エスキモー』や『ニューギニア高地人』などを読みました。今はすっかり表に出てこなくなってしまった本多さんですが、僕は彼がやったことは文筆史に残ることも少なくないと思います。『日本語の作文技術』というたいへんな名著も残している。文章を書く人で、あの本の影響を受けていない人なんていないでしょ。それくらい画期的だった。特に、「、」と「。」の打ち方と修飾の順序。僕はこの本を浪人時代に読みました。
僕がいちばん本を読んだのは浪人生の頃です。なにしろ受験勉強さえしなければ時間が有り余ってる(笑)。2浪するまではまったく勉強しなかったから1浪のときはまるまる自由に使えた。ノンフィクションでは沢木耕太郎さんの『敗れざる者たち』とかで愕然とした。若いのにこんなのが書けるなんてその才能のきらめきみたいなのに驚いた。僕には絶対に書けないと思った。『深夜特急』を読んだのは大学生になってからで、僕が1年の時に最初の単行本が出たんだったかな。
――ノンフィクションでは他には。
増田:他に、浪人生の頃に読んだのは駿台予備校の伊藤和夫先生の『英文解釈教室』ですね。参考書を浪人生が読むのは当たり前ですが、でもこれは参考書の域を超えた名著です。僕がいちばん影響を受けたのはこれかもしれない。構文から読み解いていく精読法ですね。日本語でもこれができるようになった。2浪目の時は宅浪して、この『英文解釈教室』とZ会をやった。それで英語が飛躍的に伸びた。付随して国語まで伸びた。これは1浪で先に名大医学部に入った親友に「これをやれば英語は簡単だから」と言われて渡されたの。『英文解釈教室』とZ会の旬報をどっさりと。たしかにやれば簡単だろうけど、やるのが簡単じゃなかった(笑)。でも、とにかく難解であっても必死に読んだのは、その友人がそれ渡すとき「もしまた落ちたら縁切るから」とまで言った。「たかが受験勉強を突破できないのか」とか「そんな情けないやつと付き合えない」ってそこまで言った。いま思うとあれはありがたかった。励まそうとかじゃなくて本気で言ってたからね。『北の海』のなかにも「四高に受からないようでは柔道をやってもだめだ」と主人公が言われるシーンがあるんです。まさにそういうことですよ。やるべきことはやれと。
僕の中で『日本語の作文技術』と『英文解釈教室』はセットになっていますね。それとZ会は全部記述式で長文を書かせるから、美しい日本語になるように何度も書き直したり推敲したことは今に生きています。やっぱり、まず論理的に相手に伝わるように書くっていうことが大切だと学びました。論理的に書いてはじめて感性ってものが生きてくる。
『日本語の作文技術』も『英文解釈教室』も、基礎を吹っ飛ばしてレベルの高い応用をやっている。やっぱり基礎の文法とかをずっとやっていると嫌になるでしょう。それよりもまずは一番上の一番高いレベルの応用をやってみるのがいいのかなって思う。
――いろんなルポやノンフィクションを読んで、自分でも何かルポを書く人間になりたいという気持ちは芽生えませんでしたか。
増田:もちろん思っていましたね。だけど、柔道がやりたかったから。北大のヒグマ研究グループにも入りたかったんですけれど、結局、柔道が忙しくて入れませんでした。忙しいというか苦しいというか、もうほんとに(笑)。
ただ、2浪っていうのがスポーツに与える影響はやっぱ大きいですね。瞬発力が落ちちゃってて、投技なんかは切れがなくなって引退まで戻らなかった。心肺機能や筋力は1年半くらいかけて少しずつ戻ってくるんですけれど、スピードは最後まで戻らなかった。まあ、七帝柔道は寝技中心だからそこはいいんですけれど。
「柔道と読書の学生時代」
――水産学部を選ばれたのはどうしてですか。途中から校舎が函館になってしまうわけですよね。柔道部の練習場は札幌にあるのではないですか。
増田:いや函館にも柔道場はあってそこで水産学部だけで練習はするんです。夏休みとか春休みには札幌に来て一緒にやる。年に5回ある合宿も札幌に来ます。函館では出稽古にも行ったりする。でもやっぱり練習の質が落ちるだろうなとは思った。北大に行くことは決めていた。でも2浪時の受験は最後まで文1か文3か理3か水産かで迷った。プライオリティが柔道部だったから、馬鹿みたいな悩みになっちゃった。
それで共通一次が終わって悩みに悩んだ。最後は子供の頃歩き回った溜池へ行って、座って水面のさざ波をぼんやり見て昔はいっぱい生き物がいたのにといろいろ考えて。そして家に戻ってレイチェル・カーソンを読み直して、ああ、やっぱりここだと思った。それにモラトリアムを先延ばしてやれと思って。入学してからわかったんだけど、実は学部を変わるのは当時案外多かったんです。柔道部の先輩はとくに昔から学部を変わってる人が多かった。送り出す教授と受け容れる教授がOKすれば簡単に変われた。柔道のためだけに水産学部から獣医学部へ移った先輩が何人かいた。だから悩む必要はあまりなかったんです。でも入学して柔道部に見学に行って、ミーティングで挨拶してくれたと言われた時に「僕は北大に柔道をやりに来ました。2回留年して4年間は函館に行くつもりはありません」って言ったんです。そうしたら、先輩たちがパチパチパチって(笑)。
――『七帝柔道記』に書いてある通りですね。あれって多くがノンフィクションなんですね(笑)
増田:うん。だけど、喧嘩とかハチャメチャの部分は5%くらいしか書けてない。だってあの頃の柔道部員は他の柔道部もそうだけど、いま、会社の重役や社長になるかどうかの瀬戸際の年齢なんです。彼らの悪いことは書けないですよ(笑)。バンカラだった応援団員とかでさえ「あれはやばい。書くな」と言ってますからね。だから5%。
――あれで5%なんですか。読んでいると確かに練習も過酷だしいろんなハチャメチャなことが起きますが、それでも主人公の増田青年はものすごく本を読んでいますよね。
増田:だって学校行ってないんだもん。正確には道場へは毎日行ってたけど教養部の校舎へは行かなかった。いや、最初の夏休み前までに3、4回は行ったかな。当時の北大は教養部の成績上位者から希望の学部学科に振り分けられていったんですよ。成績が悪いと希望のところに行けないから、みんな受験勉強以上に血眼になって勉強していて、ノートも貸してくれない。これはやってられんと思った。ようやく受験が終わったと思ったら「またこんなことやるのか」と思って。だって教養部は数学とか英語とか化学とかのリベラルアーツだけですよ。専門のホッキョクグマとかクジラとかイルカとかの授業なら聞きたいけどそれは3年生からなんです。
――そして教養部の授業に出ずに本ばかり読まれていたわけですね。読む本はどのように選んでいたのですか。
増田:僕は毎日新聞を取っていました。なんでかというと、当時って新聞の拡張販売員がやってきて「うちの新聞をとってくれたらこれとこれを付けます」みたいなことを言って、契約すると洗剤とか鞄とかをくれたんです。で、いろんな新聞の販売員が来るんだけれど、毎日新聞がいちばんくれるものがよかったんです(笑)。それで毎日新聞を読んで、書評欄に載っていた本を本屋で注文して買ったりしていました。他には、筒井さんが薦めているラテン文学とか、沢木さんの本に出てくるいろんな作品とか。
――ラテン文学はどのあたりですか。
増田:やっぱりガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んだ時は、すべてを想像で書く力がすごく強いと思った。SFを読んでいるような感触なんだけど、文体が洗練されていて、そこもすごいと思いました。
エンタメでは西村寿行さんの作品とかもまとめて読んだ。あの人は最初、動物文学を書いていたんですよ。名作がいっぱいあるし、ハードボイルドを書くようになってからも動物の描き方、使い方が非常にうまいんですよね。
自然科学系で読んだのは石牟礼道子さんです。水俣病の患者や家族について書いた『苦海浄土』の人ですよね。そっち系を読んでいたのは、やっぱり沢木さんと本多さんの影響があったんじゃないかな。
それと、その頃は格闘技の黎明期だったんです。プロレスはそもそも真剣勝負なのかという議論が尽くされている時代を経てUWFとかができたりしたので、僕も「格闘技通信」や「ゴング格闘技」といった雑誌を読んでいました。『七帝柔道記Ⅱ』でも小さい本屋に入って「『格闘技通信』の最新号は入っていますか」と店員に尋ねるシーンがありますけれど、それくらい発売日を楽しみにしてた。
日曜日に時々すすきのの本屋まで行くんです。地下鉄で2駅くらいの距離なんですけれど、当時はすすきのに行くことを「町に行く」って言っていました。町には普通の書店から古本屋まで、小さい本屋がいっぱいありました。店では棚の前でみんな本を開いていたから、後ろから手を伸ばさないと読みたい本が取れなかった。それくらい本があふれて、売れていた時代ですね。だから今は少し寂しいです。
――学生時代、岡野功さんの『バイタル柔道 寝技編』も読まれていたわけですね。
増田:「寝技編」は七帝柔道をやるようになってから研究するようになりました。でも、それでも難しかった。そもそも柔道では相手がこちらの動きに逆らうわけですから、いくら連続写真があってもそのとおりにはいかないんです。のちに50歳近くになってからブラジリアン柔術の人たちとスパーリングしてわかったのですが、ブラジリアン柔術の人たちはスパーリングでは6割か7割しか力を出さないんです。「増田さんは力入りすぎ」って注意されるんです。7割の力でいろいろな技を試してくださいという練習法なんですね。ところが柔道の練習というのは常に100パーセントのガチガチのものです。だからブラジリアン柔術がバスケットボールやサッカー、柔道がラグビーに似てるなと。50歳近くになってやっとわかりました。
大学で他に使った技術書はUWFのプロレスラーの『藤原嘉明のスーパーテクニック』です。これも連続写真で研究しました。もちろん『高専柔道の神髄』という技術書もバイブルのように繰り返しめくってました。