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増田俊也さんの読んできた本たち デビュー作に大きな影響を与えた「血と骨」(後編)

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>【前編】増田俊也さんの読んできた本たち

「退学して新聞記者になる」

――そして札幌で4年間を過ごして、函館には行かずに退学されましたよね。辞めることに迷いはなかったのですか。

増田:すっきりしました。それで次に何をするかとなった時に、やっぱりクマ研のこともあって動物もやりたかったし、と同時に芸術にも興味があった。でも大学時代に書き溜めたものがあったんですよね。カメラをある一点にすえて星の観測とか動物の移動記録とかを記録する定点観測と同じように、柔道場で定点観測したものを書き留めていたんです。それで土木作業員をしながら考え続けて、まずはジャーナリズムというか、書く仕事にいこうと思いました。

 それは沢木耕太郎さんや本多さんの影響があった。あともうひとつ、後に阪大教授に転じる朝日新聞の大熊一夫記者の新聞連載をまとめた『ルポ・精神病棟』という本も大きかった。東京の大きな病院で男性看護師たちが統合失調症や老人性痴ほう症の人に対して暴力的な支配をしているという噂があって、それを確かめるために大熊記者がアルコール依存症のふりをして入院するんです。体中に日本酒をこすりつけて暴れながら奥さんに連れられて入院した。そこで観察したことをスタッフの目を盗んで紙切れに書いては、丸めて窓の格子から外に捨てて、それを別の記者が拾っていった。この連載によって日本の精神科医療は大きく変わったんです。日本の精神科を変えたのは大熊記者だったんですよ。

 精神科系ではその後に読んだ統合失調症で入院していた松本昭夫さんの『精神病棟の二十年』という本にも衝撃を受けました。淡々と長い入院生活を綴っていて迫力があった。草間彌生さんに興味を持ったのもこの本を読んでからです。草間さんの小説『クリストファー男娼窟』とか自伝『無限の網、草間彌生自伝』なんかへ興味が拡がっていって、芸術理論や芸術史に興味を持っていったのは、もとを辿れば大熊一夫記者のおかげです。ですからペンの力というものを実感させられた初めての本が大熊記者のものだったかもしれない。僕が新聞社に入ったのは大熊記者の影響が少なくありません。

――すんなり新聞社に入社できたのですか。

増田:自分も記者として動物学にアクセスできないかと思った。それであちこち新聞社に電話した。北海道新聞はもう採用試験が終わったといわれ、北海タイムスも試験は終わっていたんだけれどなんとなくいけそうな気がして学生服着て行ったんです。総務局長の村木さんという方がいたんですけど、その机の横に椅子を引っ張っていって、そこに座って村木さんの就業時間中、ずっと「どうしても入りたい」って言った。総務局長って重役だったんです。それで村木さんは記者からその重役になった人。今でも覚えてますが村木さんがセブンスターをふかしながら奥様との出会いを嬉しそうに話すんですよ。自分が新聞記者で、奥さんはヘプバーンみたいで『ローマの休日』みたいだったと。テーマ曲をハミングしながら奥さんがいかに魅力的かを話す。それでヘプバーンの話で盛り上がって「しょうがないやつだな」といって追加で入社試験やってくれて、ぜんぜんできなかったと思うんだけど作文が面白いからと入れてくれました。

 最初はまだ北大生だったので、北大の籍とタイムスの籍と両方あったんですよ。11月1日に入って、11月8日に24歳の誕生日を迎えました。当時は雪が多かったし、長時間労働で校閲やるのはきつかったんですけれどね。その頃、論説委員にクマ研の創設にかかわった斉藤禎男記者がいて、その人と飲んだときに吉村昭『羆嵐』を教えてもらった。

――ただ、2年後には名古屋の中日新聞社に転職されてますよね。

増田:いろいろ北海タイムスであって、僕のなかでは辛いことがたくさんあったんですが、最終的に食えなくてね。上の人が僕の尊敬する人を馬鹿にしたことを言って、それで最後は人間関係で揉めて喧嘩になって。もう辞めようと思った。飯が食えないし。全国の新聞社に電話したら琉球新報が「受けにきなさい」と興味を持ってくれて「やった。沖縄でマイアミバイスみたいな生活だ」とか思ったんだけど、新千歳空港行ったら台風で飛行機が飛ばなくて。駄目になっちゃった。

 それでまたあちこち電話かけたけどちょうど他社も試験が終わる頃だったんです。でも中日に電話したら受験させてくれると。1次2次と通って、会長から重役まで20人以上ずらっと並んでいるところで面接を受けた。「最後に2分間、自分の長所をアピールしてください」と言われて、僕は「人前で自分の長所をアピールするようになったらおしまいです」って言ったんですよ。シーンとしました。柔道家だから、たくさん人がいる前でアピールができないんですよ。勝ってガッツポーズとかしたら怒られる世界だったから。練習中に笑っても怒られる時代でしたからね。入社してから聞いたんですけど、それで大変もめたらしいんです。でも当時の重役の1人が「面白いやつじゃないか。伸びそうだ」って言ってくれて採用されたそうです。僕は子供だったから臨機応変に対応できなかったんですね。冷や冷やですよ。

 それで名古屋本社の中日スポーツ総局に配属された。中日は中日スポーツ総局といって部署のひとつなんです。朝日新聞と日刊スポーツ、読売とスポーツ報知みたいな系列の会社ではなくて、部署のひとつで普通に異動であちこち動く。今から思うと、スポーツ総局に引っ張ってもらってよかったです。一般紙のほうだと定型文だけの短文の世界でしょう。スポーツ記事だと一応はある程度の尺を物語として書く。僕は編集の仕事が長かったので一面とか芸能面とかカラー技術も覚えたし、デザインも覚えたし、Macintoshも覚え、Photoshopも覚え、Illustratorも覚えた。編集を現場のプロとして学んだことが『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を書く時にも役立ちました。だから「ゴング格闘技」の校了間際にPDFのゲラ見て電話して「内容はOKですがバックにマジェンタ10%とシアンを20%くらい足してください」とか言って編集長に「それどころじゃないです!」と怒られたりしてた。

 中日時代は暇で暇で、映画を大量に観て小説を大量に読んだ。北海タイムスがあまりに忙しかったから、時間が余ってる感覚があった。だって休みの日数が3倍になったし、1日の拘束時間が半分になったから。それで入社2年後に北大柔道部の後輩たちが七帝戦で優勝してくれて気持ちがふっと抜けた。そしてすぐにそのときの主将が自死したんです。そのショックは大変なものでした。いま考えても人生最大のショックでした。その1年後に今度は副主将をやっていた中井祐樹がVTJ1995で、あの伝説の試合をやるんです。1回戦で右眼を失明しながらジェラルド・ゴルドーにヒールホールドで勝ち、ピットマンに十字固めで勝ち、ヒクソン・グレイシーと決勝で戦った。その試合を日本武道館の2階席から見ていて「俺は何をやってるんだ」と恥ずかしかった。生きているのに全力を出し切っていない自分が情けなくて、死んだ後輩に顔向けできないと思った。

――他に記者時代の読書で印象深かったのは。

増田:北海タイムスの先輩に貰った『新聞整理の研究』というのはマニア向けで面白かったですね。ホット時代(鉛活字)の本ですが、真面目に新聞の編集についてびっしり書いてある。ノンフィクションではシュテファン・ツヴァイクの『人類の星の時間』をみすず書房版で読んで衝撃を受けました。無駄を省いたあの文体は、当時すでに取りかかっていた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』に大きな影響を受けています。そして運命というものに関して具体的に強く考え始めたものこの作品が大きかったと思う。だって「星の時間」なんて、ほんとうに素晴らしい文言ですね。よく考えると梶原一騎先生の未完の絶筆『男の星座』も似た題名ですね。梶原先生は題名がとにかく上手かった。『あしたのジョー』とか『愛と誠』とか。『空手バカ一代』も素晴らしいですね。こういった感性というのは梶原先生が持っていた天才性だと思います。

 それと野田知佑さんの『ユーコン漂流』。帯が素晴らしかったんです。僕は中日スポーツ総局で編集者をしていたから見出しとかキャッチに眼がいく。《ひかる風、はねる魚、信じるに足る愛犬、カヌーに満ちるウィスキー。これ以上、何が必要だろうか。さあ、ただ独り、征け!》ですよ。カヌー犬ガクもそうだし、もちろん野田さんもそうですが、一世を風靡したという言葉がこれほど似合う人はいない。最後は地元の熊本に戻って亡くなられた。いま本を開いて読み返すと泣けてきます。ガクの写真集『しあわせな日々』とか。

 なぜ泣けるのかというと、それは本を通して野田さんやその世代の書き手たちとの交流を積み重ねた日々の重みだと思う。まだ携帯電話もインターネットもない時代、作者と本を通して遠距離恋愛というか遠距離友情というか、そういうものをしていた。

 野田知佑さんの本になぜ色気があるか。それは彼の文学が「ガクの一生」を書いたからものだからだと思う。野田さんとガクとの関係も恋愛に似てますね。

 印象に残ったもので、映画だと「プリティ・ウーマン」。何度も観た映画です。封切りされた直後から観ているから、最初に観たのは学生の頃だったかもしれません。30年ぶりに観たら自分が思ったものとは違ったんですが、それは僕が歳をとったからでしょうね。最後、ジュリア・ロバーツが高級ホテルから自宅に戻らねばならなくなった時に、彼女をゴミ扱いしていた高級ホテルの支配人そのほかが、最高級のもてなしで黒塗りハイヤーで彼女を送り出す場面で泣いてしまいました。僕にも似たことがあったのを思い出した。大宅賞を受賞して帝国ホテルで記者会見を終えたらホテルにハイヤーが横付けされていたんです。副賞にそんなのが付いていて僕はびっくりした。まだ46歳だったし、僕みたいな小者に身分不相応ですよね。でも他の社の編集者みんなが「ほら。松山さんと乗って」って言ってくれて。そのハイヤーで「ゴング格闘技」の松山編集長と2人で神保町の小さなホテルに戻って、部屋で2人でポロポロ泣きながら2人だけの受賞インタビューを受けました。PRIDEが無くなって売れなくなった格闘技雑誌の編集長と二人三脚で、誰も知らない木村政彦というモチーフで、世間の偏見をひっくり返すつもりで必死に4年間連載したものが受賞したんです。一晩だけだけど黒塗りのハイヤーに乗れた。近くのコンビニ行くにもハイヤーで、ラーメン食べにいくのもハイヤーです。「プリティ・ウーマン」観てそれを思い出して泣けてきた。

 映画でいうと、「アイズ・ワイド・シャット」はキューブリックの遺作にして最強の映画だと思っています。初めて観た時は衝撃を受けました。あの空気感を撮れるのはキューブリックしかいないですし、トム・クルーズとニコール・キッドマンが当時現役夫婦だったからこそ演じられる濡れ場が美しかった。夜中に街をぐるぐるトム・クルーズが廻る。あの場面がずっと頭から離れません。僕はこの作品は映画から入って、シュニッツラーの原作『夢小説』を読んだんですが、ストーリーラインうんぬんはともかく空気感がまったく同じなのに驚きました。キューブリックは自分の死が近づいていることを知って、とにかくこの空気感を、と思って撮影したんじゃないでしょうか。あの空気は死者にしか描けない。撮影時にはすでにしてキューブリックは死者だったんじゃないかな。

「スペンサーシリーズへの思い」

――大人になってからの読書で、とりわけ好きな小説家はいますか。

増田:ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズ。伴走期間が長いですからね。半年に1冊のペースで出ていたし。僕はパーカーが亡くなった時に「本の雑誌」に「さよならスペンサーなんていわない」という追悼文を書いたので、えらくハードボイルド好きの作家だと誤解されているようですが、僕はパーカーはハードボイルドの書き手ではないと思っています。

 彼は2024年の今のような世界を予見していた、非常にリベラルな作家だったんじゃないかな。彼が造形したスペンサーという人物を"リベラリストのパーカー"とする視点で見ると違う物語が見えてくると思うんです。スペンサーの軽口も、相手を翻弄するためのマッチョな言葉ではなくて実は自嘲なんじゃないかと。

――スペンサーというと料理好きでビール好きで野球好きな私立探偵というイメージもありますが、それだけではないという。

増田:シリーズのなかで好きなのは、もちろんファンに一番人気の『初秋』を外す気はないですよ。先日書庫を整理していてたまたま見つけた『初秋』を読んで号泣してしまったほどです。でも僕が推すナンバーワンは『レイチェル・ウォレスを捜せ』です。

 この作品では、女性人権運動関連の書籍を出す出版社からスペンサーが仕事を依頼されるんです。時代の先端を往くフェミニストでレズビアンのレイチェル・ウォレスの護衛です。でも出会った瞬間からレイチェルは筋肉の塊、男性誇示そのものに映るスペンサーに嫌悪感を抱きます。そのなかで反フェミとか反同性愛の団体に講演を妨害されたり、脅されたりする。そのたびにスペンサーが腕力で解決するので「非暴力」を標榜するレイチェルは怒り心頭に発してスペンサーに強く抗議し、強く軽蔑します。

 どんどん2人の間の溝が深まっていき、遂にスペンサーは馘になる。そんな時にレイチェルが誘拐される。そこからのスペンサーの活躍がすさまじく、あらゆる妨害と戦って捜し出して救出するんですが、その時にスペンサーもレイチェルも抱き合っておいおい泣くんですよ。2人とも、もともと暴力論とか男女論なんかでぶつかってたくせに、おいおい泣く。僕も泣いた。ハードボイルドとかミステリとは違うキュンキュンくるラストです。真反対の考えを持つ2人の性別をこえた友情が泣けました。そして仄かに香る互いの恋愛感情みたいなもの。最後まで絶対に2人は口にしないんですが、だからこそなんともいえない感覚です。それをね、最後はスペンサーの恋人スーザンもわかっててワインを片手に横で見てる。いい感じのラストですよ。

『失投』も好きです。奥さんがもともと売春をやっていたことを「表沙汰にするぞ」と裏社会から脅されて八百長をやってしまうメジャーリーグのピッチャーの話です。彼が何かで揉めてスペンサーに殴りかかるんですが、元ボクサーのスペンサーがこれをあしらってボコボコにしてしまう。奥さんの眼の前で。僕はそのピッチャー側に立って読んでいたんで自分が殴られている気がしました。ほんとうに苦しくて痛い作品でした。いま読んだらまた違う気持ちになるかもしれませんが。スペンサーシリーズで他に好きなのは『ユダの山羊』『キャッツキルの鷲』とかです。

 そういえば訳者の菊池光さんが『羊たちの沈黙』も訳しているんですよ。数年前に新訳が出ているんですけれど、僕は菊池さんの訳の『羊たちの沈黙』がすごく好きなんです。スペンサーシリーズの時はあまりパーカーの文体と合っていないと思ったけれど、トマス・ハリスの文体と菊池光さんはすごく合っていて、文体と呼吸の勉強になるからよく読み返します。調子が乗らないときに音読すると仕事のやる気がでることもある。原著と照らし合わせて読んで「この部分はこういう言い回しなのか」と英語の復習をしたこともあります。

「はじめて書いた小説でデビュー」

――増田さんは2006年に『シャトゥーン ヒグマの森』で『このミステリーがすごい!』大賞の優秀賞を受賞して小説家デビューされていますが、小説を書き始めたきっかけは。

増田:小中学生の時からもう真似事はしていましたよ。ただそんな長いもの書けないから文学賞ではなくて、「ジャンプ」だったか「マガジン」だったかの漫画とかに応募したこともありました。もちろん箸にも棒にもひっかからなかったけど。

『このミステリーがすごい!』大賞を獲った『シャトゥーン ヒグマの森』がはじめて書いた小説です。2、3週間で書きました。いや1カ月くらいかかったかな。いまの遅筆を考えると信じられないスピードですが、あのスピードじゃないと逆に書けなかったかもしれない。勢いで書いた。

 応募作でいちばん多いのは捜査一課が出てくる殺人事件の話でしょう。それに関してはもう何年も応募してスキルを磨いている方がたくさんいるだろうから、僕は勝負できない。だから何をどう書くか、それをまず考えなければいけませんでした。それでヒグマを選んだ。

――『シャトゥーン ヒグマの森』は北海道の森の中で、冬眠することができなかった、いわゆる危険な"穴持たず"のヒグマに襲われる人々の死闘を描いた作品ですね。自然の中でどう闘えるのか、さらには人間関係もいろいろあって読ませます。

増田:小菅正夫さんという北大柔道部の17期上の先輩が旭山動物園の園長時代に一緒に御飯を食べたんです。小菅さんの研究の専門はオジロワシの野生復帰で、「あいつら、すげえ巣がでかいんだ」って言うんですよ。「毎年同じところに枝を集めていくから年々大きくなって人間が何人でも寝られるくらいになっちまうんだよ」って言ったんです。それを使おうと思って、実際に主人公たちが一晩そこで眠るシーンを書きました。

「『シャトゥーン』は『ジョーズ』の影響を受けてるんでしょう?」とよく聞かれます。たしかに受けています。でも本当はもっと大きく影響を受けた作品があって、それが梁石日さんの『血と骨』です。あの圧倒的に強い父親の暴力を描きたかった。ああいう作品を何とか書きたかったけれど、僕には梁石日先生のような人生経験がない。だからヒグマに託したというのはあります。クマ研に入りたかったくらいだからヒグマへの興味はものすごくありましたし、ヒグマと『血と骨』を足せばデビューできるのではないかと思って頑張って書いたのがあれです。とんでもなく稚拙で粗いものになってしまいましたが、とにかくぎりぎりデビューさせてもらえたのは梁石日先生のおかげだと思っています。

――その次に出されたのは小説ではなく、ノンフィクション『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』ですよね。それで大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をされている。木村政彦は史上最強といわれた柔道家ですが、プロレスラーに転身した際の力道山戦で、だまし討ちにあってKO負けしたとも言われている人物です。さきほどのお話からすると、記者時代から取り掛かっていたのですね。

増田:1993年に木村先生が死んだんですよ。その時に猪瀬直樹さんが「週刊文春」に、晩年の木村先生に取材した時のことを書いていたんです。力道山戦について聞いていたら、木村先生が「力道山は俺が殺しだんだ」と言ったって。自分が座禅を組んで額に"殺"っていう字を書いたから死んだんだって。猪瀬さんが、いや彼はヤクザに刺されて死んだんですよって言ったら、「あんたについても"殺"を書こうか」って言われた、って書いている。

 僕は木村先生を尊敬していたから、それを読んで怒ってね。中日新聞の公衆電話から「週刊文春」に電話して猪瀬さんと討論させろ、って言ったんですよ。結局会えなかったんですけれど。それで、木村先生についてと七帝柔道、このふたつは書かなきゃって思ってました。

 そのためには、やっぱり作家になることだと思ったんですよね。それで新人賞に応募した。運よくデビューさせていただいて、ちょっとハードルが下がったところで、もうできていた『木村政彦~』の草稿を「ゴング格闘技」に送って連載を頼んだんです。

 そうしたら数日後に松山編集長から興奮した電話がかかってきて。「ちょうど本の雑誌社の北上次郎さんから"すごく面白い本がある"と言われて『シャトゥーン』を読んでたんです。読み終わったところに増田さんから荷物が届いて、開けたら木村政彦の草稿と一緒に『シャトゥーン』が入っててびっくりしたんです。すぐやりましょう」って。松山さんは学生時代に「群像」編集部でバイトしたり本の雑誌社でバイトしたりの文学青年なんですよ。それで北上次郎さんからいろいろ教えられて影響を受けていて。僕は運が良かった。松山さんは文芸編集者なんですよ。だからあの『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』でも盛り上がる前のディテールの部分を連載させてくれた。僕が連載途中で方向性を見失って書けなくなったときに電話で「何を書いたらいいかわからない」と相談したら「増田さんがいつも『こんな面白いことが昨日あった』とか『大学時代にこんな面白い友達がいた』とか電話で話すでしょう。そのとき僕はゲラゲラ笑うでしょう。それこそが読者が読みたいことなんです。増田さんが面白いと思ったことを書いてください」っていうアドバイスをくれた。

「自伝や評伝に惹かれる」

――プロの作家になってからの読書生活はいかがですか。

増田:評伝や自伝は好きですね。いまでも海外ものも国内ものもたくさん読んでます。木村政彦先生の評伝を書いているので、評伝の新聞社の書評を依頼されることも多いです。そういうときは楽しんで読んでます。仕事とは関係なく読む評伝ではダイアン・アーバスの『炎のごとく─写真家ダイアン・アーバス』とかヴァージニア・ウルフのものとかには、プラスにもマイナスにもエネルギーを感じました。生きるウェーブというか、ああいった感性の人たちはそのウェーブが大きいですよね。ダイアン・アーバスの堕ちていくときのやるせなさとか読んでいて苦しくなります。小野田寛郎さんの自伝も何度か読み返してます。軍に入るときに母に短刀を渡されて「小野田家の名誉を辱めず切腹せよ」と言われた話とか。戦争とか軍人とか、やっぱり究極の話なので、人間のあらゆる局面を見ることができる。

――小野田寛郎さんは戦地に赴いて、終戦を信じずに駐留先に長年とどまった、いわゆる残留兵の人ですよね。

増田:はい。ルバング島の。何冊か本を出されていて、そのうち何冊か読んでいますが、数年前に読んだのは東京新聞出版局から出ている版『たった一人の30年戦争』という自伝です。横井庄一さんもそうですが、僕は2人が戻ってきたときのニュースをぼんやり憶えています。当時僕は幼稚園か小学生だった。横井さんが「恥ずかしながら帰ってまいりました」とか言ってテレビに出ていたのを覚えてる。流行語にもなってましたね。僕は西暦2000年くらいまでは、今もまだどこか南洋の島に1人2人、旧日本軍の軍人が隠れてるんじゃないかと思ってました。実際にいたでしょうね、知られずに生きて知られずに死んだ軍人が何人も。いつか小野田さんや横井さんのような軍人をモチーフにした小説も書きたい。

 軍人といえば原一男さんの「ゆきゆきて、神軍」はいまだにどんよりと残ってます。ドキュメンタリーを撮るならあれくらいいかないとだめだと思う。「ゆきゆきて」は奥崎謙三じゃなくて原一男さんの仕事にかかってるんじゃないかな。いくところまでいったドキュメンタリーです。このあいだキネ旬の編集者と話したら、原監督はバリバリの現役でまだまだエネルギーの塊だと言ってました。

――なぜ自伝や評伝に惹かれるのだと思いますか。

増田:僕は、巨大なウェーブが好きなのかもしれない。時代のウェーブを知りたいんですよ。

 今58歳だけど、僕が生まれた昭和40年(1965)って、その20年前は戦争していたんですよね。「北大柔道」っていう学生やOBがいろいろ書く年刊誌があるんです。僕が大学生の頃に定年を迎えるOBが寄稿してるんですよ。自分の仕事について。クジラの捕鯨船のこととか、炭鉱の現場監督のこととかを書いていたんです。入社当時はそれが選ばれた人の仕事だったから自信満々に書いている。でも僕が読んだときは「なんでそんなことやってるのかな」という時代になってた。それなのに先輩たちは「クジラを捕鯨砲で何頭仕留めた」とか、そんなことを嬉しそうに書いてる。ひとつの業界の栄華って30年とか40年しか続かないんですよね。他の業界もそうでしょう。新聞社だって民放だって昔は花形でした。入社するための予備校があったくらいですから。その業界でさえ今は沈みかけている。30年40年で世の中は驚くほど大きく変わるし、過去100年で起きたことなんて33年×3でしかない。

 書き手としてその100年の歴史と、その中での思想のウェーブを知りたいと思う。この100年を動かしてきた人たちの実態に迫りたい。だから評伝とかドキュメンタリーを読んだり映画を観たりしているんです。実在した人をモデルにした映画も多いですよね。それがドキュメンタリー映画と併存してある。カポーティを追ったドキュメンタリー映画もあるし、彼を俳優に演じさせた映画もある。あるいは「ヴォーグ」の編集長のアナ・ウィンターを追ったドキュメンタリー映画もあるし、彼女をモデルにした人が出てくる『プラダを着た悪魔』もある。

 僕は作家としてそうした評伝や映画を読み、観て、比べ、その人の人生に入り込んでいくことを繰り返しているんです。憑依するようにしてのめりこんで観るのが好きなんでしょうね。感覚としてリアルにつかめるまで調べ続けます。戦争についても、なんであんなことやってるのかと思うけれど、太平洋戦争やノルマンディー上陸に関する本や映画なんていっぱいあるでしょう。それらを集中して読み、ドキュメンタリー映画を観たうえで、『プライベート・ライアン』を見直したりする。

 僕は北大を教養部で中退して学部に行っていないので体系的に哲学もやってないし動物学もやってません。でも独学で真ん中から食べていく。食べ物でいえば肉マンの肉を先に食べて、あとから皮を食べる手法です。煎餅の真ん中を食べてからまわりを食べる。文系と理系の間でゆらゆら揺れる浮き草のように、いろいろな角度から見た考え方をする。人物の陰影の闇の部分から入っていく。それがおそらく作家としては結果として一番いい方法だと思います。

 たとえばジャック・ロンドンについては当然『野性の呼び声』とか『白い牙』とかから入っているんですが、彼にほんとうに強い興味を持ったのは彼が最後は滅茶苦茶になって死んでしまったことを知ってからです。作家として紡いだ彼の作品よりも、彼のその最後の燃えるような人生が興味深かった。それまではジャック・ロンドンについては「まあまあの自然観察者」くらいの感覚で、むしろ狼犬のバックのほうに強い興味がありました。それが高校に入ってから彼の死の状況を知って興味が出てきていろいろ調べたり、他の作品も読んだりした。

――ご自身は今後、評伝と物語と、どちらも書いていきたいですか。

増田:僕は評伝も物語のひとつの形式だと思っています。事象を時系列に並べていけばそのテキストの塊は必ず物語になる。でもそれをより見えやすくするのが作家の力だと思うんです。エッジーに仕上げるのが作家の我慢の力。僕は文章読本系の本より高村光太郎訳の『ロダンの言葉抄』を創作論・芸術論として繰り返し読んでます。あのなかでロダンが彫刻について「仕上げないこと」の大切さを述べています。まさに先ほどのエッジのことですよ。エッジを粗いままにしておく、綺麗に整えてはいけないということ。勢いというか生命力というか、そういうものがなくなってしまうことを言ってる。僕も時系列にそのままレア肉を置いていったものはすでに物語として力強いものになってるんじゃないのかなと思います。『七帝柔道記』『七帝柔道記Ⅱ』も粗いけど、推敲の回数をあえて抑えてます。なぜなら20代前半の筆が書いている前提ですから。その時代の青年の感覚を、50歳代の僕があまりに丁寧に滑らかにすると力を失ってしまうと思うんです。

 基本的には僕はだからギリギリのところで人物や描写を仕上げない。『七帝柔道記』は極端にそうだけども、現在書くものでもやはり最後の細かいサンドペーパーはかけない。「もう一回だけ」というところで止めておく。そのほうが人物もシーンも見えてくる。その物語のなかに一滴だけ言葉を垂らす、それが僕が描くときの作業イメージです。たとえば勇気って言葉を物語に一滴だけ垂らしたのが『ドラゴンボール』や『七帝柔道記』でですが、『プラダを着た悪魔』の中にも一滴入っている。

 僕はあと1年半で還暦ですけれど、この先の人たちが、倒れて傷ついた時にに立ち上がるきっかけになるようなものを物語にのせることが自分の仕事なのかなって。物語にしておけば、僕がかつて図書館でいろんな本に出合ったように、たとえば学校でいじめられている女の子が僕の本を図書館で見つけてくれるかもしれないし。

 僕は各社の年配のベテラン編集者の重役の方に「増田さんは小説の書き方を勉強しないでほしい」って言われるんです。下手に書き方を憶えると、ダメなものになっちゃうって。だからこれからも、技法を勉強しないで、不器用でいいからこつこつとやっていこうかなって思っています。

「『七帝柔道記』の続篇と今後」

――2012年に刊行された『七帝柔道記』は大変な評判となり、山田風太郎賞の候補にもなりましたよね。これは大学1、2年目の話で、今年ようやく3、4年目のことを書かれた『七帝柔道記Ⅱ 立てる我が部ぞ力あり』が刊行されました。これも本当に面白くて、しかももう、ものすごくドラマティックな展開ですよね。自伝的小説ではありますが、エンターテインメントとして楽しませることは意識して書かれていますか。

増田:してない。だからさっき言ったようにエッジが効いてるんだと思う。実際にあったことの5%くらいしか書かなくてもあんな感じになる。ただ、「Ⅱ」は、みんなの思いが結晶となった試合のことこそが、読者が読みたいところだろうと思っていました。

 ただね、そもそも、人間は全員の人生がドラマチックなんですよ。団体スポーツとか、学校スポーツというのがいろいろ言われる時代になって、実際に悲しいこともあるし、悪い面もいっぱいあるし、50年後100年後にはろいろ変わっているんだろうけれど、でも、確かに輝きというのがある。

 今振り返ってみると、あんな1円にもならないことをよくやっていたなと思いますよ。でも北大では今年2024年、入学式前に6人も新入部員が入ってきて、全員が『七帝柔道記』どころか『七帝柔道記Ⅱ』まで読んでいたそうです。3月18日に発売されたばかりですよ。それから2週間のうちにそれだけの人数の若者が『Ⅱ』を読んで人生が変わったわけです。何かに本気で打ち込むとか、仲間と一緒に頑張ることに憧れる若者の気持ちって、昔も今も普遍的にあるんじゃないかな。

――新入部員に対する奇妙な儀式、「カンノヨウセイ」はもうやっていないんですよね? 

増田:やらないです。やってたら書けない(笑)。まあ、あれは陽性の悪戯だからいいけども、酒はだめですね。もう10年以上前かな。七大学のOB会全体で「20歳未満には絶対に酒を飲まさない」というお達しをお互いに回しています。そこは我々OBも率先して言うべきだろうということで。だから北大生でも東大生でも九大生でも未成年には絶対に酒を飲まさない。コンパでも18歳、19歳はジュースです。2浪すれば1年生でも20歳だからOKですが。そういうことは学生だけでは見えないこともあるから、僕らOBが社会情勢も見ながら上手に学生たちに話してやる必要があります。他の大学の他のスポーツの同好会なんかでときどき問題が起こるでしょう。そういうことは七大学の柔道部では起こしてはいけないと思います。

――『七帝柔道記』はまだまだ続篇が出そうですね。

増田:「Ⅳ」まで書きます。「Ⅲ」では僕が4年の時に1年だった中井祐樹や吉田寛裕のことを書こうと思ってます。だから彼らは「Ⅱ」にも出てますよね。彼らが4年生になった時に12年ぶりに優勝旗が津軽海峡を渡りますが、吉田はその後、ほどなくして亡くなりました。この本を出すときに、全員違う名前にするか相当悩んだんですよ。先輩の和泉さんに相談したら、いや、やっぱり亡くなった吉田寛裕たちの名前を残すためにね、本名にしたほうがいいって。だから僕らが死んだ100年後も若者たちを励ます本であってほしいです。つらいことがあっても「頑張ろう」ってもういちど立ち直るきっかけになるような本を残したい。

『七帝柔道記』の単行本のカバーは七大学の柔道衣が並ぶ写真ですが、九州大学の道衣は主将だった好漢、甲斐泰輔君の道衣です。彼も24歳で急逝膵炎で亡くなりました。道衣はお父様に貸していただいたんです。吉田寛裕の道衣はもう無かったので使えなかったのですが。「Ⅲ」では吉田寛裕主将が率いる北大柔道部と甲斐泰輔主将が率いる九大柔道部が決勝戦で激突します。そこまで淡々と粛々としっかりと描きたい。「Ⅲ」も「Ⅳ」も頑張らなきゃって思っています。

 先日、沢木耕太郎さんとのメールのやりとりで「七帝柔道記シリーズは『深夜特急』を定点観測でやったらどうなるだろうと思って書いた小説です」ということを書きました。青春時代にユーラシア大陸を横断して、それを作品として昇華した沢木さんですが、僕は青春時代を北海道大学柔道場を中心とした札幌の街のなかで過ごすしかなかった。ある意味で土地に縛られた青春なんです。いまふと思ったんですがそういう意味で、『深夜特急』は『路上』的、『七帝柔道記』は『楡家の人びと』的ですね。『楡家の人びと』も病院という建物があるから定点観測になっている。

 僕は『路上』からも『楡家の人びと』からも影響を受けていますが、こういった長い長編小説で様々な人の思惑や歴史が一点に収斂していき、最後にある出来事が起きるときの爆発のような瞬間が好きなんです。だから書くものは、どうしても大長編になってしまいます。文芸誌で50枚を1年間連載して600枚になって、さて改稿をとなったとき、編集者に「450枚くらいまで削りこんでください」とか言われて「はい」と受け取っておきながら、出来てみると1500枚くらいに増えてしまって編集者に怒られてしまうんです(笑)。

――1日のリズムってどんな感じですか。

増田:一応目標としては、朝方に寝て昼に起きようとしています。それは結構続いたりもするんだけれど、ゲラ直しなんかを始めると、やっぱり妥協したくないからリズムを保てなくなりますよね。30時間作業して1時間横になるとか。40時間作業して2時間横になるとか。基本的に布団には入らない。床で寝ると体が痛くて、熟睡しないですむから。

――そ、それはダメなのでは。

増田:うん、ダメだけど、生きているうちに全力を尽くしたいんです。肉体が強健だと自分で過信しちゃってるんですよね。それでちょっと急性膵炎やって入院したり、いろいろあったんですけど。でもやはり夭折した後輩や仲間のことを思うとね。せっかく命があるのに力を出し尽くさないのは申し訳ない。僕なんて才能も何もないけど精一杯やりたい。

 でもありがたいことですよ。作家になりたいなと子供のころから思っていて、それが運良く実現して、いろんなチャンスをいろんな人がくれて、こんなふうに本が出せて。だから書かなければいけない『七帝柔道記』とか『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を先に書いてきた。『このミス』でデビューしたから「もっとたくさんミステリ書いて売っていかなきゃ作家としてダメになりますよ」という人もいたけれど、そこは曲げなかった。

 60年近く生きてきて、若者に残すべき言葉ってあって、そういうことを物語で書きたいんです。それは警察小説であってもSFであってもいいと思うんです。

――では、今後のご予定は。

増田:次は警察小説を出す予定です。1作目はもう書き終えていて、急性膵炎をやったりしたために遅くなりましたが、今年中には出します。それはシリーズものなんです。警察シリーズものって、2作目、3作目を出していくなかでキャラクターが人気を得ていくものだから、早く書かないといけないですね。

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