白尾悠さんの読んできた本たち ゲームに負けて砂浜に書いた「宮部みゆきの本」(前編)

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
白尾:就学する前は神奈川県の横浜市に住んでいたのですが、実家が市立の図書館から長期で本を借りて、図書室を作って近所の子供たちに開放していたんです。近所に図書館のない地域でそういう試みがあったんです。家の中に本がたくさんある部屋があって、そのなかで私がすごく好きだったのは、シャーロット・ゾロトウの『ねえさんといもうと』という本でした。お姉さんが世話を焼いてくれて、探してほしくて隠れちゃったりする話なんですが、私にも姉が二人いるので「これは私の話かな」と思って。図書館から借りた本だというのは分かっていたんですけれど、あまりに好きだったので、私、その本に自分の名前を書いちゃったんです。たぶん、親が弁償したと思うんですけれど...。
――ご自宅に、近所の子供たちが自由に出入りできる部屋があったということですか。
白尾:そうです。当時住んでいたのは、もともとお米屋さんだった建物でお店のような作りで、玄関から入るとすぐ部屋があったんです。そこを図書室にしていました。家族の友人の方が図書カードの管理など貸し出しの仕事をしてくれて、子供たちはいつでも利用できる状態でした。庭に桃の木があったので、「ももの木文庫」という名前でした。
――図書館から借りる本はどなたが選んでいたのですか。
白尾:自分たちです。家族総出で大きな図書館に行っていた記憶があります。貸出期間は3か月くらいだったと思いますが、いちばん上の姉が読書家で、毎回自分の好きな本をたくさん借りては貸出期間内で読破していました。それを見ていたので私は逆に「お姉ちゃんみたいには読めない」と、読書コンプレックスみたいなものがありました。
――お姉さんたちとは何歳違いなのですか。
白尾:ちょうど3歳ずつ離れています。私はいちばん上の姉の本棚から選んで本を読むことが多かったですね。それと、うちの父は広島で被爆しているので、家には原爆関連の本が多くありました。私が最初に読んだ漫画は『はだしのゲン』です。母が丸木俊さんにサインをもらった『ひろしまのピカ』の絵本もありましたし、原爆資料館にも行ったので、3、4歳の頃にはもう、そういうことがあったと知っていました。
――お母さんが丸木俊さんのサインをもらったというのは...。
白尾:母が丸木さんのサイン会か講演会かに行ったんだと思います。ほかに『ごんぎつね』の、いもとようこさんのサイン本もありました。当時母は非正規の教師で、父も塾を運営していて、どちらも教育者だったんです。
私は絵の方に興味があったので、それで本を選んでいるところがありましたね。岩崎ちひろさんの本が大好きでした。『モチモチの木』の滝平二郎さんの切り絵も好きでした。それと、安野光雅さんの『旅の絵本』のシリーズが好きで、小学生の頃は絵を眺めながら勝手にお話を作っていました。
――『旅の絵本』は文字が一切なくて、旅人が訪ねるいろんな町の光景がすごく細かく描かれているんですよね。
白尾:有名な絵画のシーンが描きこまれていたりするんですよね。あとは『さかさま』。エッシャーの絵がモチーフだということは大きくなってから気づきました。見れば見るほど発見がある絵本でした。
――絵がお好きだったということは、自分でも描いていたのですか。
白尾:ずっと描いていました。一番目上の姉が読書好きで勉強家で、二番目の姉が運動が得意で、私は絵が得意だったんです。でも、あまりインドアな子供ではなかったですね。かなり活発でした。二番目の姉ほどではないけれど私も運動は得意で、保育園に通っていた頃は「番長」と言われていたんです。ケンカが強かったので。
――白尾さんが、ですか? ふんわりお優しい雰囲気なので想像できないんですが。
白尾:体が大きかったので。友達をいじめたら許さない、という感じで、ジャイアンみたいな子とタイマンはってました(笑)。
うちは横浜といっても隅っこのほうで、近所に雑木林や丘がありました。小さな崖のような傾斜があるところの木にロープをつるしてターザンごっこもやっていました。今考えると結構危ないですね。
私は勝手にどこにでも行ってしまう子供で、朝起きたら私がベッドにいなくて家族を驚かせたことも何回かあったそうです。朝から勝手に出掛けて、丘をふたつ越えて姉の友達の家に行って、朝ごはんを食べさせてもらったりして。向こうの家もしかたなくだったと思うんですけれど...。今でも、丘なりの町を見るとワクワクします。「坂の上になにがあるんだろう」という気持ちになります。
――その町にはいつまでいらしたんですか。
白尾:私が小学校に上がるタイミングで東京に引っ越しました。そこが高級住宅地のそばで、公立小学校に行ったんですが、小学校受験をしたけれど国立の受験はくじ引きで落ちたからこの学校に来ました、みたいな子が多くいたんです。みんな勉強もできるし、本も読めるし、それですごく萎縮しちゃった記憶があります。
――番長と呼ばれる感じではなくなったわけですか。
白尾:最初は萎縮しちゃたんですけれど、勘所をつかめば勉強も運動もできたし相変わらず体は大きかったので、やっぱり自分の友達を守る、みたいなところはありました。いちばん上の姉は中学校に入るタイミング、私は小学校に入るタイミングでの引っ越しだったんですが、気が弱い二番目の姉だけ転校生で、同級生からからかわれたんです。受験もしていないし塾にも行っていないなんて、みたいな感じで。それで代わりに私が怒って姉が止めに入るということがありました。私は1年生で、相手は4年生なので取っ組み合いはしませんでした。でもまあ、同級生はわりとボコっていました。得意技は往復ビンタと跳び蹴りでした。
――ぜんっぜん想像できません(笑)。
白尾:1年生から3年生まで体操を習っていて、バク転もできたので跳び蹴りは余裕でした。まわし蹴りもできます。
――(笑)。そんな小学生時代の読書生活はいかがでしたか。
白尾:姉の本棚にあるものを読むことが多かったです。『エルマーのぼうけん』とか、柏葉幸子さんの『霧のむこうのふしぎな町』とか。佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』から始まるコロボックルのシリーズも大好きでした。姉はSFが好きで、新井素子さんのことが死ぬほど好きで揃えていたので、それを私もつまんで読んでいました。
母の薦めで灰谷健次郎さんの『太陽の子』や、松谷みよ子さんの『ふたりのイーダ』といった、戦争の話も読みました。
それと、『くるみ割り人形』の絵本を買ってもらったんですが、それがサンリオの人形映画の絵本版だったんです。なので絵ではなくて人形の写真が載っていました。あとで知ったんですけれど、寺山修司の翻案をもとにした脚本なんですよね。寺山は途中で映画の制作からは降りたようなんですが。可愛くてきれいな世界というよりは寺山風味が入ったダークな内容で、それがすごく好きでした。
――漫画も相当読まれたそうですね。
白尾:姉が、当時オタクのはしりだったんです。「風の谷のナウシカ」も映画館に観に行っていて、家にはナウシカと佐々木淳子さんの『那由他』のポスターが貼ってありました。姉は少女漫画も少年漫画もまんべんなく読んでいて、その影響で私も新谷かおるさんはだいたい読んでいます。『エリア88』とか『ファントム無頼』とか『ふたり鷹』とか。『キャッツ・アイ』などの北条司さんの漫画や、『スケバン刑事』や『超少女明日香』といった和田慎二さんの漫画も読んでいました。それと、日渡早紀さんの作品。『ぼくの地球を守って』が有名ですけれど、姉がデビュー作から追いかけていたので、私もいろいろ読みました。日渡さんや『エイリアン通り』の成田美名子さんは姉から教わりました。
自分で見つけた漫画は、清水玲子さんの『竜の眠る星』や佐々木淳子さんの『ダークグリーン』といったSF漫画や、篠原千絵さんの『闇のパープル・アイ』ですね。
母も漫画が好きだったので、『ベルサイユのばら』とか『ガラスの仮面』とかは小さい頃から読んでいました。友達のお姉さんの漫画もよく読ませてもらって、それで高橋留美子さんや山岸涼子さんを知りました。
両親が共働きだったので児童館の学童クラブに入っていたんですが、そこに寄付された漫画がいっぱいあって、萩尾望都さんの『ポーの一族』とか、『三つ目がとおる』などの手塚治虫作品を読んでいました。
――好きな作品の傾向はありましたか。
白尾:漫画では絵がすごく大事でした。清水玲子さんの絵はもう感激したんですよね。デビュー作からまんべんなく美しかったし、お話も面白くて。いわゆるブロマンスみたいなものに萌えるようになったのはそこからだという気がします。
それと、漫画でも小説でも、違う場所に行く話が好きでした。ここではないどこかへ行く話といえば、『霧のむこうのふしぎな町』もそうだし、佐藤さとるさんのコロボックルのシリーズは自分の隣に違う世界がある話だといえますよね。タイムスリップ系の話を読むことも多かったです。『ふたりは屋根裏部屋で』という、さとうまきこさんのタイムトラベルミステリーも好きでした。アリソン・アトリーの『時の旅人』も時を往復する少女の話で印象に残っています。
教科書に載っているもので好きな話もありました。『西風号の遭難』という、ヨットで空を飛ぶ航海術が存在するところに流れ着いてしまう話です。あとから知ったのですが、訳が村上春樹さんでした。
教科書といえば、詩も載っていて、好きでしたね。姉が谷川俊太郎さんの詩集を何冊か持っていたので、それも読みました。
――ところで、体操を1年生から3年生まで続けていたとのことですが、3年生でやめたというのは。
白尾:うちは習い事は一度にひとつだけという決まりがあったんです。絵が好きだったので体操は3年生でやめて、油絵を習い始め、画家の方のアトリエに通っていました。そうしたら父が、祖父が譲ってくれた画集を見せてくれたんです。近代ヨーロッパ絵画がメインで載っているシリーズで、それをわーっと机の上に並べるのが好きでした。それでスーラとかエゴン・シーレとか、モネといった画家たちの作品を知りました。
イラストレーターの永田萠さんもすごく好きで、画集を持っていました。飽きるほど眺めながら頭の中でいっぱいストーリーを作っていました。
――お話を作るのも好きだったのですね。その頃、将来は何になりたいと思っていましたか。
白尾:絵描きさんか漫画家と言っていました。漫画も自分で描いてはいました。
お話を作るのも好きでした。私、小学校に上がる前にイマジナリーフレンドがいて、その子の話をずっとしていたんです。自分では想像と現実の境目がなくて本当にいると信じていて、あの子とこういう遊びをした、あの子はこういうところに住んでいる、と話していました。
小学校に上がると、怪談話ができる子が人気があったんですよね。私はそれが得意で、キャンプや林間学校に行くと怪談話をせがまれて、その場で適当にお話を作っていました。だいたい「その土地にまつわる話」という嘘をついていました。
――即興で怪談話ができるということは、怪談話のフォーマットが頭に入っていたということですよね。
白尾:どうでしょう。でも楳図かずおさんの漫画とかは読んでいたので。
――ところでイマジナリーフレンドは、どういう子だったのですか。
白尾:まりこちゃんという女の子でした。可愛い子で、自分の理想の女の子像だったのかなという気がします。でも、自分ではイマジナリーフレンドという認識がなかったんですよね。だいぶ後になって、テレビの「世にも奇妙な物語」かなにかでそういうストーリーを見ていた時に、姉が「あなたにもいたよね」と言うので「なんのこと?」って訊いたら、「え、保育園の時にいたでしょう」って。ずっとその子について話しているから、保育園の連絡帳にも「仲良しの子の話をよくしてくれます」と書かれていたそうです。母が先生に「近くに住んでいる子なんですか」と訊かれて、「そんな子いません」って。
――小学生時代、映画など映像作品にも触れていましたか。
白尾:父はハリウッド系の映画が好きで、母は文芸系の映画が好きで、両親ともに自分が観たい映画しか連れて行かないので、わりと子供向けかどうかは関係なく観に行っていました。80年代だったのでスピルバーグ、ルーカス、ゼメキスあたりの映画は全部、家族と映画館で観ました。母と観た映画で印象に残っているのは、「愛は静けさの中に」。ウィリアム・ハート演じる男性とマーリー・マトリン演じる聾啞者の女性との恋愛の話で、マーリー・マトリンは本当に聾の方なんですよね。いま思うとセックスシーンもあったんですが、映倫が厳しくなかったのか、子供でも普通に観てました。
子供向けでいうと、「ラビリンス/魔王の迷宮」はデヴィッド・ボウイとジェニファー・コネリーが美しかったなとか、ゴブリンが気持ち悪かったな、という記憶があります。「オズ」も印象に残っていて、わりとダークで怖かったんです。それは『オズの魔法使い』の続篇が下敷きなんです。冒険から戻ってきたドロシーがオズの国の話をしても誰も信じてくれなくて、頭がおかしくなったと思われて病院に連れていかれるんですよね。そこでは他の子がロボトミー手術を受けていたりして。そこからまたオズの国に戻るんですが、出てくる魔女が首がなくて、毎回好きな首を選んでつけているんです。魔女が集めた首がわーっと並んでいるシーンは、綺麗だけれどめっちゃ怖かったです。
「ネバーエンディング・ストーリー」もエンデの『はてしない物語』が原作と知らずに観ました。ほかには「ポルターガイスト」なんかも憶えていますね。
それと、ジブリの映画も、映画館で観られるものは全部観ました。いまでも忘れられないのが、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の2本立て。先に「火垂るの墓」を観てボロ泣きしながら「節子...!」と思っていたら、「♪トットロ、トットロ~」って(笑)。あの落差の衝撃は忘れられないです。
あとは、テレビの「ヒッチコック劇場」や「ジェシカおばさんの事件簿」がすごく好きでした。SFでは、「V(ビジター)」というドラマシリーズを姉とレンタルして完走しました。ある日人間そっくりの宇宙人が飛来して、という話です。本来彼らは爬虫類系の顔をしているんですけれど、人間の仮面をかぶっているんです。美女がネズミを丸呑みするシーンがあって、それが有名です。
――学校で小学校受験した児童が多かったということは、中学受験する生徒も多かったのですか。
白尾:そうですね、当時でも1/4くらいいました。仲がいい子が中学受験のために塾通いしていたので、私も6年生の2学期にちょっと入ってみたりもしました。塾の先生には「こんなタイミングで入る子はいない」と言われました。友達の親御さんから「うちの子は受験するから一緒に遊ばないでほしい」と言われたりして、ちょっと嫌な思いをしました。
――白尾さんは公立の中学に進んだのですか。読書生活はいかがだったでしょうか。
白尾:私は公立中学校に進みました。中学生の頃の読書は、やはり姉の影響が大きかったですね。新井素子さんの次に栗本薫さん時代がありました。「伊集院大介」シリーズや「ぼくら」シリーズが好きでした。伊集院先生はすごく好きで、自分で先生をイメージして絵を描いたりしていました。
あとは赤川次郎さん、筒井康隆さん。赤川さんは「三毛猫ホームズ」などのミステリーシリーズを読みましたが、本当に読みやすくてびっくりしたというか。筒井さんは『驚愕の曠野』が強烈に印象に残っています。今でもあれはベストワン級に怖い話だと思うんですよね。そんなに長くないのに、どんどん無間地獄の奥に落ちていくような内容で、逃げ場がなくて苦しくなる感覚になったのはあの本くらいです。筒井さんはもちろん『家族八景』の七瀬シリーズや『パプリカ』なども読みましたが、やっぱり真っ先に浮かぶのは『驚愕の曠野』です。
他には、姉が村上春樹さんの『ノルウェイの森』を持っていたので、中学生の時に一応読んだんです。先生に「読んだ」と言ったらすごくびっくりされました。でも正直、その時はまだ、内容はなにも分かっていなかったと思います。
――海外の小説は読みましたか。
白尾:姉がエンデの『モモ』が好きだったので、そこから繋がって『はてしない物語』を読みました。
それと、姉の本か母の本か憶えていないんですけれど、流行りものも結構家にあったんです。シドニイ・シェルダンの超訳の小説や、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』や『24人のビリー・ミリガン』なども読みました。『アルジャーノンに花束を』は文章でこんなことができるのかと思ったし、『24人のビリー・ミリガン』は多重人格の人の話で、自分の中の別人格に話しかけたりしているのを読んで、私のイマジナリーフレンドもこういう感じだったのかなと思ったりして。
それと、シルヴァスタインの『ぼくを探しに』がすごく流行っていたので読みましたね。あとから倉橋由美子訳だったことを知りました。
スティーヴン・キング原作の映画を観て、原作小説も読むようになったのも中学生時代でした。『ペット・セメタリー』も『スタンド・バイ・ミー』も『シャイニング』も『キャリー』も、全部映画からでした。『IT』のテレビシリーズも好きだったんですが、前篇と後篇の落差がありすぎて...。前篇はもう絶品で、本当に排水口が見られなくなるくらい怖かったんですが、後篇に出てくるペニーワイズの正体がしょぼすぎたんです。だからリブート版の映画で、最新の技術でいろいろやってくださっているのを観た時は「ありがとう」という気持ちでした。
――お話うかがっていると、怖い話やホラーもお好きなのかなあと。スプラッター系も好きですか。
白尾:「13日の金曜日」は楽しんで観ましたけれど、心理的にぞわぞわくる話のほうが好きでした。なのでヒッチコックの「サイコ」は素晴らしいなと思っていました。
――小説以外の本では、どんなものが好きでしたか。
白尾:漫画で自分で発見したのは、秋里和国さんの『それでも地球は回ってる』。構図としては3人の美形の男性と女の子という、ザ・少女漫画なんです。でもその男性3人が、それぞれナルシストとマザコンとマゾヒストという秘密を抱えている設定でした。話の帰結としては、人とちょっと違っていてもいいんじゃないか、っていうもので、今思うと先進的でした。他には、あだち充さんの漫画なども読みました。
それと、中学の時に読んだ本で強く印象に残っているのが、母から薦められた藤村由加さんの『人麻呂の暗号』です。柿本人麻呂の詩にこめられている暗号を解いていく内容です。中学校で『奥の細道』の序段を憶えたりして、短歌や俳句を知り始めた時期だったので面白く読みました。
――柿本人麻呂の歌には、暗号が潜んでいるんですか。
白尾:その本の説を信じるなら、潜んでいました。『万葉集』の「東の野にかきろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」という歌などは、日の入りの情景を詠んでいるようで実は夭逝した皇子がそこにいるように読み解ける、とか。遊び女が沈められているように読み解ける、みたいな歌もありました。柿本人麻呂が言葉の天才だったというのは間違いないんだなと思いました。
――小中学生時代、国語の授業は好きでしたか。
白尾:小学生の頃は音読が得意だったので、結構いい気になっていました。読書感想文も得意でした。こういうところに感動しましたとか、こういうところに気づきを得ました、と書けばいいんだなと思っていました。それを、小学校の同級生に指摘されたことがあったんです。その子も感想文が得意だったんですけれど、「先生受け狙ってるよね」と見透かされました。
中学生の時だったか、灰谷健次郎さんの『太陽の子』で感想文を書いた時だけは、ちゃんと書けました。沖縄に行った実体験も交えて、本当の感想が書けたなと自分でも思いました。
――沖縄に行ったというのは。
白尾:中学生の時、母が、二番目の姉と私を連れて行ってくれたんです。うちは離婚家庭なのでその頃父はいなかったし、いちばん上の姉は部活で忙しかったのかな。ひめゆりの塔はすごい体験でした。資料館で生存者の方がお話をしてくださって、涙が止まらなくて。そういう体験を含めて感想を描いたら賞をいただきました。
――中学生になっても油絵は続けていたのですか。
白尾:中学1年でやめました。油絵は月に2回、日曜日に通っていたんですが、バスケ部に入ったらその練習日と重なっちゃったりして。先生のアトリエも最初は家の近所にあったんですが、建物のオーナーがカフェにすると言うので、先生の埼玉県のご自宅のアトリエで続けることになって。しばらく埼玉に通っていたんですが、片道40分はかかるし、行くと5時間はずっとそこで描いているので、両立がきつくなりました。それに、自分に絵の才能がないということもはっきり分かったんです。中学にもっとすごい子が2人くらいいて、1人はその後プロになりました。
――バスケ部に入ったのはどうしてですか。
白尾:二番目の姉がやっていたんです。姉はキャプテンで、私も後にキャプテンになりました。私はぜんぜんいい選手じゃなかったですが、高校までずっとやっていました。
――振り返ってみて、自分はどういう子供だったと思いますか。
白尾:いやらしいほど先生受けがいい子だったんです。経済的に都立高に行かねばならないから内申を取ろうと思って、学級委員をやって生徒会役員をやって、バスケ部でキャプテンをやって...。小学校の頃から仲良かった女の子が、本当に絶世の美少女だったんです。少女モデルで、CMとかにも出ていたんですね。私はその子のナイトなような気持ちでいました。中学生になって彼女が好きな男の子のことで騒いだりすると、「え、私のほうが格好よくない?」って思っていました(笑)。
ただ、中学時代の後半は家族が別れちゃったりして周囲と話が合わなくなったり、騒いでいる子たちが子供っぽく見えたりして、学校にあんまり行かなくなりました。出席日数を計算して、母のふりをして学校に電話をして「今日は体調が悪いので」と言って、適当にさぼっていました。
――高校は都立に進学して、バスケ部で。読書生活は。
白尾:引き続き姉の本棚をあさっていました。高校時代はもう、宮部みゆきさんですね。衝撃的に面白くて、眠るのも忘れて読むという経験ははじめてでした。ちょうど『火車』が人気の頃でした。『パーフェクト・ブルー』などの元警察犬マサのシリーズがすごく好きでした。あとは『レベル7』、『龍は眠る』...どれも本当に寝食を忘れて読みました。
バスケ部の人たちと海に遊びに行った時に、ゲームをして負けた人が砂浜に好きなものを書かなきゃいけないことになって。たぶんみんなは、好きな人を書くものだと思ってやっていたんですけれど、私は負けて「宮部みゆきの本」と書いた記憶があります(笑)。
あとは乃南アサさん、小池真理子さん、宮本輝さん、山田詠美さん、吉本ばななさん、原田宗徳さん...。乃南アサさんは『凍える牙』が好きでした。小池真理子さんはホラーが好きで、『墓地を見下ろす家』をよく憶えています。山田詠美さんは『僕は勉強ができない』をはじめて読んだのかな。姉の本棚にほぼ全作品ありました。山田さんが編者をされた『せつない話』というアンソロジーがあって、その「第2集」にカポーティの「誕生日の子どもたち」という短篇が入っていたんですよね。それが衝撃を受けるくらいよくて、山田さん経由でカポーティも読むようになりました。
宮本輝さんは『錦繍』『ドナウの旅人』などから入り、家にあったものはすべて読みました。吉本ばななさんは当時、みんな読んでいましたよね。『キッチン』とか『TUGUMI』とか。その後アメリカの大学に入った時に、日本語の先生が『キッチン』を英訳された方で、すごく話が盛り上がりました。
それと、やっと村上春樹さんが面白いと分かってきたんです。中学生の時は分かったふりをしていただけですが、『羊をめぐる冒険』は留学の準備をしている高校3年生の時に英訳でも読んだりしました。
学校の課題で夏目漱石の『こころ』を読んで、それも衝撃的な面白さでした。それと、向田邦子さんの『思い出トランプ』です。向田さんは他の作品もすごく好きですけれど、これが私にとって今でも大事な一冊です。
――どこにそこまで惹かれたのですか。
白尾:最適な書き方というか。人物表現、展開、台詞、心情の描写も含めて、すべてに過不足がなく品格がある感じがしました。劇的なことが起きるわけでないけれど後を引く、何度読み返しても味わえる短編集だと思いました。
ノンフィクションでは沢木耕太郎さんの『深夜特急』ですね。それと、母が仕事でDVなどの対応をしていたので、トリイ・ヘイデンの『シーラという子』なども読みました。
あと、姉が『ソフィーの世界』を持っていたんです。読んだら止まらなくなって、哲学をやってみようかなと思うくらい面白かったです。
――大学はアメリカに留学されたんですよね。なぜ留学を考えるようになったのですか。
白尾:理由は複合的です。私はそんなすごく勉強するタイプではなかったので、ちゃんと勉強したいなというのがありました。高校がそれなりに進学校だったので大学の推薦は取れたんですけれど、そのまま行ったら本当に私、なにも勉強しないアホな大学生になると分かっていたので。大学に行くからには勉強をしよう、というのがまずひとつありました。それと、うちは父方の祖父母が二人とも留学していて、アメリカで出会っているんですよ。父は大学在学中に祖父が亡くなったので留学は経済的に無理だったようで、母は母で学生の頃は女の子だから留学は駄目だと言われたようです。でも母は、娘3人を連れてカナダに行こうとしていたんです。最後の最後で予定していたポジションがなくなったかなにかで行けなくなってしまって。そういうことにも、影響は受けていたと思います。うちは両親2人とも、子供たちに対して高校までは公立で、大学はどこに行って何をしてもいいという考え方だったので、じゃあ留学してもいいのかな、と思うようになりました。
もうひとつの理由として、中学生の時に広島の体験学習に参加したことがあります。中学生が広島に2泊3日で行って、現地でいろいろ調べたりして自由研究をするという。そのときに私のチームは、原爆資料館から出てくる外国人にアンケートを取ったんですね。その時にはじめて実践で英語を使いました。アンケートの最後に「原爆投下は正しかったと思いますか」と質問したら、全員が「イエス」でした。それが衝撃でした。その時の自由研究では、『サード・キッチン』で書いたような、日本に強制連行された在日朝鮮系の人たちの被爆問題も調べたんです。そうしたことも留学の一因でした。
――白尾さんの『サード・キッチン』は、その留学体験をベースにした小説ですよね。
白尾:『サード・キッチン』のなかでは主人公の父親が英語を教えてくれるんですが、私にとってそれは祖母でした。小学校に入る前は隣に住んでいたので、よく祖母の家で過ごして、簡単な英会話を教えてもらったりして。
学校の英語の勉強は若干苦手でしたが、授業自体は面白くはあったんですよね。授業で『マクベス』やラフカディオ・ハーンを読んで、英語で読んでも面白い話は面白いんだなと思いました。でも、英語の先生に留学先への推薦文を頼みに行ったらすごくびっくりしていました。「そんなに英語好きだったけ」って(笑)。
――留学先はどのように選んだのですか。
白尾:TOEFLを受けなきゃいけないんですが、たまたま近所にそれを専門で教える塾があったので、そこでいろいろ聞いたり、父の知り合いが留学情報誌に関わっていたので向こうの学校の情報をくれたりして。
問題は自分の英語の成績でしたが、SATという向こうのセンター試験みたいなものを受けておくと有利になると言われたんです。日本人は数学が得意なので、問題文の意味さえ分かれば数学の成績はとれるよと教えてもらい、それでなんとか点数を稼ぎました。提出するエッセイでは課外活動が重視されると聞いて、部活をがっちりやっていたこととかを書いて。うちの学校は文化祭で全員で映画を作るんですが、私はその脚本を書いて一応学年で一番だったので、それをさもすごいことかのように書いたりしました。
――全員で映画を作ったのですか。
白尾:文化祭で、1年生は研究発表して、2年生は演劇をして、3年生は映画を作るのが伝統だったんです。2年生の時から映画の準備ができるように、3年進級時はクラス替えしないという学校でした。昔はぴあフィルムフェスティバルに入賞するくらいのレベルの映画もあったらしいです。それで、2年生の終わりくらいから役割を決めていくんですが、私は留学するので受験のタイミングがみんなと違って、夏が本番になってしまうんですね。夏の撮影にあんまり参加できないから脚本を書くことになったんです。
――どんな脚本を書かれたんですか。
白尾:星新一さんの『かぼちゃの馬車』と『笑ゥせぇるすまん』を足して薄めたような(笑)、ダークな内容でした。怪しい人が売っている薬によって女の子が綺麗になっていくんですが、実は薬自体に効果はなく、薬を売らせていたのはクラスメイトで、最終的には薬が切れたと思い込んだ女の子が元に戻ってしまうという話です。
――アメリカでは『サード・キッチン』の主人公のように、白尾さんもリベラルアーツカレッジに行って、最初は寮生活を送り、学生が運営する食堂に参加されたそうですね。食堂では和食を振る舞っていたとか。
白尾:料理はできたんで。親が共働きだったので、基本、家の食事やお弁当は姉妹三人でまわしていたんです。
――白尾さんが参加した食堂はさまざまなマイノリティの学生が集まる場だったそうですね。小説でも、主人公が差別や人権についての問題を見つめていく。
白尾:まず大学自体が、成り立ちからして反人種差別のところだったんです。入学の時に新入生全員に配る本があって、それがコーネル・ウェストの『人種の問題』でした。私も行く前から「マルコムX」のような映画を観たり、ロス暴動のニュースを見て差別問題を考えていました。高校最後の夏には祖母と一緒にアメリカに行って、祖母が留学していた頃に仲良くしていた日系人の方にお会いしました。祖母が、この先そんなに動けなくなるから今のうちにお礼の挨拶に行きたいというので。その時に、そのご家族が戦時中に強制収容された話などをしてくださったんです。そういうこともあり、大学入学前から日系人に対しても含め、さまざまな差別問題があることも分かっていました。その上で大学に入ったんですが、やっぱり肌感覚が全然違いましたね。ゲイやバイの人も30%くらいいる大学だと聞いていたんですが、同じ寮の男の子から「うちのお母さんたち」と家族を紹介されて、はじめて同性婚のファミリーに会いました。それが特別なことではない感じでした。
――読書生活はいかがでしたか。
白尾:私は漱石以外は日本の近代文学を避けて通ってきてしまったんですが、留学前に、「アメリカ人は三島由紀夫が好きだから読んでおけ」ってすごく言われたんですよ。そうしたら案の定よく話に出てきました(笑)。今も仲良くしている子はトルコからの留学生だったんですけれど、彼女の生涯ベストテンに三島の『豊穣の海』の四部作が入っているんです。読んでおいてよかったなと思いました。実際、面白かったし。
大学では、図書館に日本語の蔵書が充実していたんです。夏目漱石や谷崎潤一郎などの全集も揃っていました。それより教科書を読むことでいっぱいいっぱいではあったんですけれど、読んでぱっと分かる感覚が懐かしくて、図書館のそのエリアをうろうろしては日本語の本を読んでいました。その時に川上弘美さんの本に出合ったんです。『蛇を踏む』です。そこから純文学を読むようになり、図書館の蔵書ではなかったんですけれど、小川洋子さんを読むようになりました。『薬指の標本』『密やかな結晶』から入って、夢中になりました。
遠藤周作も『海と毒薬』などは日本で読んでいましたが図書館に『深い河』があって、それも面白かった。それと、平岩弓枝さんの『女と味噌汁』があってすっかりはまり、留学期間中に次姉に『御宿かわせみ』シリーズを送ってもらっていました。巻末の本の紹介を読むのが好きなので、それで気になったものを送ってもらったりもしました。開高健とか山本周五郎とか。
それと、私は人類学を専攻していたんですが、先生たちがアイヌにすごく興味を持っていたんです。私も、日本に住んでいた時に家の近くにアイヌのお料理屋さんがあったり、アイヌの踊りや歌を見せてくれるイベントに母が連れていってくれたことがあり、もっと知りたいなと思っていて。それで、本多勝一さんの『アイヌ民族』といったアイヌ関連の本を読んだりもしました。英語の文献が圧倒的に少ないから、人類学の先生たちには日本語の文献を読めるということで重宝していただきました。当時は国立アイヌ民族博物館のような大きな博物館はなかったんですけれど、北海道のアイヌの協会に問い合わせて質問させていただいたり、資料をいただいたりもしました。
それと、図書館には日本の雑誌もあったんですね。アメリカに届くまで2週間くらいかかるんですけれど、「AERA」などの週刊誌や「太陽」がありました。「太陽」が大好きでした。それでクラフト・エヴィング商會を知ったんです。ありそうな架空の職業を紹介する連載があったんですよね。『じつは、わたくしこういうものです』というタイトルで本にもなっています。顔写真も掲載されていて、小川洋子さんが冷たい水を守る「冷水塔守」として登場していました。他にも、森の中の図書館のシチュー番とか、世界最小音楽を作る秒針音楽師とか、ないけれどありそうな素敵な職業がいろいろ紹介されていました。
それと、日本語に飢えまくっていたので、吉本ばななさんの作品を英訳された先生に個別授業をやってもらったんです。夏目漱石をやりたいと言って、初期の三部作『三四郎』『それから』『門』と、後期の三部作で未読だった『彼岸過迄』『行人』、そして未完の『明暗』を読みました。ほかに、当時水村美苗さんが『続 明暗』を出されてすごい試みだなと思ったので、それも読みました。最初は初期と後期で比較エッセイを書こうと思っていたんですけれど、結局『明暗』だけで書いた記憶があります。
あとは塩野七生さんのエッセイですね。大学の途中でちょっとだけイタリアに行ったので、イタリアといえば、という感じで読み始めたんです。最初は短いエッセイかなにかを読んだんですけれど、それが面白かったので、いろんな著作を読みました。
――ちょっとだけイタリアに行ったというのは。
白尾:短期留学という形で行きました。大学で、人類学だけでなく政治学もダブルメジャーという形で専攻して、芸術も副専攻でやっていて、クラスを取りまくっていて。それで、ちょっとバーンアウトしてしまったんです。他校と単位交換ができる制度があって、うちの大学より学費が安いところがあったので、1学期間だけ芸術の勉強をしにローマに行きました。アメリカの芸術大学のローマ校だったので、イタリア語は必修なんですけれど、授業は基本英語でした。ただ、街中での人種差別がすごくて。自分は大学に守られていたんだなって実感しました。
その時にヨーロッパにいる友人を訪ねてまわったんですが、スペインに行った日本の友人が村上春樹の『遠い太鼓』をくれて、旅の間はずっとそれとミヒャエル・エンデの『鏡のなかの鏡』を繰り返し読んでいました。それと、映画の「イル・ポスティーノ」が好きだったので、当然聖地巡礼をしました。
――小さな島の内気な郵便配達員の青年が、チリから亡命してきた詩人のパブロ・ネルーダと交流を深めていく。名作ですよね。あのロケ地ってどこなんですか。
白尾:海辺の場面はシチリア沖のエオリア諸島です。当時はぜんぜん観光客がいない諸島だったんですが、どうしても見たいと思って。あの映画の影響でネルーダもちょっと読みました。
――英語での読書はいかがでしたか。
白尾:スタインベックの『怒りの葡萄』とか、イザベラ・アジェンデの『精霊たちの家』などを読みました。アメリカに行く前にちょっとだけカナダで語学学校に行ったんですが、その時のホストマザーがお別れの際にキャロル・シールズの『ストーン・ダイアリー』をくれたので、それも読みました。
あとは、大学の人類学の教科書に結構エスノグラフィー(民族誌)があったので、それは読み物として楽しめました。