とんち話の一休さんでおなじみの禅僧は、どんな人物だったのか。木下昌輝さんは新刊の長編「愚道一休」(集英社)で、その型破りで愛すべき姿を活写している。
「愚かな人だと思った。でも、生き方が芸術品なんです」。木下さんから、そんな一言がこぼれた。
室町時代を生きた一休宗純。禅寺で出世してほしいとの母親の期待を担って修行するが、そこは腐敗した世界だった。権力闘争に直面し、出生の秘密を背負いながら、母親との確執にも苦しむ。女性と酒を愛し、風狂を尽くして80代にいたる生涯を追いかけた物語だ。
一休という人が木下さんには初めはわからなかったという。何者なのか。毎日考えた。「それが修行でした」
師兄の養叟(ようそう)に敬意を抱くのに、のちに対立し、非難していく。
ある研究者の一言で視界が開けた。「2人は漫才師でいえば“やすきよ”(横山やすし、西川きよし)。人を笑わせるという目的は一緒だった」と。そうか。禅を正しい方向へ導こうと目指すところは一緒だが、手段が違い、たもとを分かつことになったのか。
では、ちまたで「一休さん」と親しまれたのはなぜか。「権力者をやっつけるパフォーマンスに芸がある。人をディスる時の美学がある。失敗したらバカにされる危うい場所にいながら。それがかっこいいからでは」
自身も数回、座禅の経験をした。朝から片付けなどの作業をし、講義を聴き、座禅を組む。「悟ってはいませんけど」と言いつつ、執筆する中で「はからいをなくす」という意識は得られた気がするという。「こうあるべきだという固定観念をなくせたかなと」
公案(禅問答)を書くのは難しかった。でも、座禅の修行をさせてもらった老師に本作を届けると、「公案を理屈だけでとらえず、自分の腹に落としこんで書いている」とほめられた。「うれしかったですね」と顔をほころばせる。
「求道」とかけた「愚道一休」というタイトルは自然に思いついた。愚かとは、悪いだけの意味ではない。
「自分がつきつめようとしているものが正解なのか、最後までわからないものです。途中で夢をあきらめる人もいる。それでも、愚かでもいいんだよと言いたい。半分は自分に対してですが」
苦しんでいる人、がんばっている人、がんばったことのある人に読んでほしい。応援歌になったらいいなあ。木下さんは目を細めて言った。(河合真美江)=朝日新聞2024年7月17日掲載