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身体の手応えを取り戻す 齋藤陽道

「人間が始まる」 (C)齋藤陽道

  ここのところ、本が読めない。ページをめくる指が重たく、文字が頭に入ってこない。子育てや日常のあれやこれやに気をとられていることもあるけれど、それ以上に、40を過ぎた僕の身体(からだ)は、どこかで「生きる」ことに立ち止まってしまったのかもしれない。自分の身体の手応えをいま一度、取り戻したい。

 そんな思いで本棚を眺めると、目に入ったのが荒井裕樹『生きていく絵 アートが人を〈癒(いや)す〉とき』(ちくま文庫・990円)だ。東京の精神科病院「平川病院」の〈造形教室〉で、心に病を抱えた人々がアートを通じて自らを癒し、生きる力を得ていく姿を描く。作品と人生を見つめ、生きづらさの本質を考えながら、癒しの可能性を探っていく。〈造形教室〉は「“癒し”としての自己表現」という理念を掲げる。ここにおける癒しとは「自らの混沌(こんとん)とした内面と向き合い、自己表現を通じて、生きる支えと拠(よ)り所(どころ)を見出(みいだ)す能動的な営み」であるという。

 傷ついた心を無理に正そうとはせず、そのまま包み込む穏やかさに満ちた文章によって、登場する作家たちの制作に対する渇望がきわだつ。誰かのためではなく、己の身体と共にある傷をもとに制作と向き合う。それは、目をそらし続けてきた僕自身と再び向き合う勇気を呼び覚ましてくれた。この身体でできることは、まだいくらでもある。

 僕はろう者であり、普段から「日本手話」で思考、会話をしている。雫境(だけい)編著「『LISTEN リッスン』の彼方(かなた)に」(論創社・2200円)は、映画「LISTEN リッスン」(2016年公開)が探求した「ろう者にとっての『音楽』のありか」をテーマにした一冊である。ろう者がどのように音楽を感じ、世界を広げるのかという問いに深く迫る。

 手話には2種類ある。「日本語対応手話」は日本語の語順に合わせるもので、僕が使う「日本手話」は独自の文法や表現を持つ、ろう者の自然言語だ。視覚的な日本手話を日本語に翻訳するのは難しい。本書はその困難さを理解しつつ、手話にまつわる感覚を多方面から言語化しており、類書のない読み応えに喜びを感じた。「手話は表情、顔、空間と結びついていて、それが私たちの生き方」と著者の一人で映画の共同監督である牧原依里(えり)は語る。日本手話は身体の動きそのものが意味を持ち、人の存在が「ことば」になる。ろう者のダンサー、シャニー・マウが、踊る時の音楽を「生命の通った振動」と表現する一文も。その言葉のように本書は、身体に響く全ての現象をことばとして聴く感覚を拓(ひら)いていく。

 そして、柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)、熱田千鶴『柚木沙弥郎のことば』(グラフィック社・2200円)も手に取る。染織家・柚木の哲学を通して、身体の老いと向き合う強さ、その先に見える美が示される。柚木は老化を嘆くことなく、変化を望んで受け入れて楽しむ。名前の沙弥が「勉強中の坊主」という意味であることもひとつの理由なのだろう。

 本書にまさに“積読(つんどく)”について書かれていた。「忙しい合間に、ぱらぱらとめくってはっとする言葉に出会う。それが面白いんだな」。何げない言葉だが、70代から本格的に読書を始めたという柚木が語ると一層の説得力がある。なによりこの本自体が、どこをめくっても響く言葉で満ちている。柚木の視点には「今、ここを、楽しむ」ことへの深い理解と覚悟がある。それはこの言葉に集約されている。「いつからはじめたっていいんだよ。僕だって物心ついたのは80歳になってからなんだから」

 現実から逃げず、身の回りから楽しみを見つける探究心さえあれば、大抵のことはどうにかなる。この身体が置かれた、この土地で、今という瞬間をまっとうする。僕の身体でこそもたらされる葛藤や悩みがあり、感動がある。茨木のり子は言った。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」。自分だけの感動を諦めない、諦めてたまるか。=朝日新聞2024年9月28日掲載