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「ショットとは何か」書評 「不在」なる映画に肉薄する企て

評者: 福嶋亮大 / 朝⽇新聞掲載:2024年10月05日
ショットとは何か 歴史編 著者:蓮實 重彦 出版社:講談社 ジャンル:エンターテイメント

ISBN: 9784065358962
発売⽇: 2024/08/22
サイズ: 13.5×18.8cm/340p

「ショットとは何か」 [著]蓮實重彦

 映画を観(み)た。だが、本当にそう言えるのか。先ほど観た映像の流れは、映画として確かな輪郭をもつだろうか。それらは実は、瞳の奥のはかない「残像」の群れにすぎず、映画そのものはとっくに立ち去った後ではないか。ならば観る者にとって、映画とは決して存在しない何かではないか。
 これらの原理的な問いから、実に半世紀にわたって、驚くほど多彩で刺激的な批評言語を立ち上げてきたのが蓮實重彦である。映画という「不在なるもの」に、テクストの運動によって肉薄する――かつて『映画の神話学』で鮮明にされたこの企ては、1980年代から今年までの批評を集めた本書でも続行された。
 例えば、映画史が取り逃がしてきたラオール・ウォルシュの映像の艶(あで)やかさを論じたかと思えば、30年代ハリウッドのコメディの物語的パターンが抽出される。レマン湖畔のゴダールをめぐる私的な回想にはつい引き込まれるし、ソ連映画の作家性が匿名化されるプロセスを追った論考は、大胆にして繊細である。どれ一つとして同じアプローチはない。これらはまさに、映画と出会うために準備された〈手法〉の総覧なのだ。
 特に、80年代に発表されたロッセリーニ論は、映画批評の紛れもない傑作だが、まるで今しがた書かれたように新鮮である。これを読んで、ロッセリーニに興味をもたない読者はいないだろう。と同時に、この特異な映画作家の「捨て子」のような「孤立」は、既存の映画史的評価の外に出ようとする本書の企てとも、静かに共鳴する。
 蓮實にとって、映画は歴史とは無関係に「生成」し「反復」されるものである。生成AIは「みんなの意見」を洗練させるだけだが、蓮實的な生成は逆に、観る者ひとりの瞳にすべてがかかっている。この絶対的な孤独だけが、不在=未来の映画の生成にひとを立ち会わせるだろう。孤独の価値を、本書ほど精魂込めて教える本は稀(まれ)である。
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はすみ・しげひこ 1936年生まれ。仏文学者、批評家。東京大名誉教授、元総長。著書に『凡庸な芸術家の肖像』など。