長崎編 異文化と祈りの歴史にじむ夏 文芸評論家・斎藤美奈子
16世紀の南蛮貿易、禁教時代の潜伏キリシタン、出島を介した異文化との接触。他国との関係ぬきに長崎県の歴史や文化は語れない。
歴史に取材した作品を1冊だけあげるなら、遠藤周作『沈黙』(1966年/新潮文庫)だろう。
島原・天草一揆からまもない1638年、棄教したと聞くフェレイラ神父の行方を追ってポルトガルを発ったロドリゴ神父。彼らが上陸した潜伏キリシタンの集落トモギ村は長崎市北西部の外海(そとめ)地区(旧外海町)がモデルといわれる。外海や五島列島での信徒との交流や迫害を通してロドリゴの魂の流転を描いたこの小説はすでに長崎文学の古典である。
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80年前の8月9日、長崎に投下された原爆も数々の作品を生んだ。
井上光晴『明日(あした)』(1982年/集英社文庫)はその日の前日、8月8日の長崎を描いている。
工場勤務の中川庄治と大学病院の看護婦ヤエの婚礼に集まった新郎新婦を含む13人の動向を作品は追う。夜、二人だけになった庄治とヤエの会話は平和である。〈不束(ふつつか)者ですばってんどうぞよろしゅうお願いしますけん〉〈おいと一緒になってよかったと思うごと、ああたを大切にするけん〉。翌朝ヤエの姉が出産した場面で物語は幕を閉じる。その先を語らないのが怖すぎる。
その日を直接描いているのは林京子の芥川賞受賞作『祭りの場』(1975年/講談社文芸文庫『祭りの場・ギヤマン ビードロ』)だ。高等女学校の生徒だった「私」は学徒動員先の兵器工場で被爆した。〈大空をかきむしる爆音がした。空襲! 女が叫んだ〉〈ピカもドンもない。秒速三六〇米の爆風も知らない。気づいたら倒壊家屋の下にいた〉。14歳だった作者の体験に基づく記録文学に近い作品。原爆文学の必読図書といえるだろう。
もう1冊。佐多稲子『樹影』(1972年/講談社文芸文庫)は戦後3年目の夏からはじまる。
長崎市内で喫茶店を営む中国籍の柳慶子と妻子ある画家の麻田晋はひそかに逢瀬(おうせ)を重ねる仲。いわゆる不倫の関係だ。が、あの日の後、2人はそれぞれ爆心地に入っており〈おたがい、命ば大事にせんば、ねえ〉〈そんなに簡単には、わたしは死なれんと〉という会話も不安と隣り合わせなのだ。徐々に蝕(むしば)まれていく身体と戦後復興を重ねつつ、小説は戦後22年目までを追う。広島の『黒い雨』と並ぶ「原爆後文学」だ。
佳作はほかにもまだまだある。
ノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロの長編デビュー作『遠い山なみの光』(小野寺健訳/1982年/ハヤカワepi文庫)はまだ戦争の影が残る1950年代の長崎での日々を振り返った物語だ。イギリス人の夫と長女を亡くし、今はイギリスの片田舎に住む悦子はその頃、長崎で日本人の夫と別の家庭をもっていた。彼女の胸に去来するのは佐知子という女性とその幼い娘である。表題は稲佐山の上から佐知子母娘(おやこ)とともに見た長崎の景色に由来する。9月には映画も公開予定のミステリアスな作品。2人の日本人女性の、生き方を模索する姿が印象的だ。
デビュー以来一貫して長崎を描き続けてきた青来有一の芥川賞受賞作『聖水』(2001年/文春文庫)は息子が父を看取(みと)るまでの物語だ。病が進行して死期を悟った父が事業を引退、後任に指名された人物は、あやしげな「聖水」を売る会を主催していた。ところが父は聖水の霊験を信じ、先祖から伝わる潜伏キリシタンの祈り「オラショ」を唱えながら死にたいといいだす。現在品切れなのが惜しい作品(短編集)。ぜひ復刊か電子化を望みたい。
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最後に異色の青春小説を。村上龍『69 sixty nine』(1987年/集英社文庫など)。舞台は東大入試が中止になった1969年の佐世保。庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』と同じ年を描いているが、〈フェスティバルたい〉〈屋上ばバリケード封鎖する〉と暴れ回る高校生は内省的な『赤頭巾ちゃん』と対照的だ。この祝祭的な雰囲気こそ長崎らしさともいえる。
長崎の文化は多様である。まもなく迎える祈りの日。その後には爆竹が鳴り精霊船を流すお盆が来る。夏の長崎を文学からも感じてほしい。=朝日新聞2025年8月2日掲載