上がり続ける物価。相次ぐ災害。先行きの見えない世の中に不安や窮屈さを感じる時は、近世の文学をひもといてみたい。様々な制約のもとで生きざるを得なかった時代、人々はどのように現実と向き合っていたのだろうか。
『大田南畝(なんぽ) 江戸に狂歌の花咲かす』(小林ふみ子著、角川ソフィア文庫・1386円)が描き出すのは、十八世紀後半の江戸で狂歌を詠んで笑い合っていた武士や町人の姿である。中心にいたのは大田南畝。下級の幕臣で裕福ではなかったが、文芸に秀で、自らのつつましい暮らしをも作品の題材にした。
狂歌集を作る時に南畝がくり出したのは「むやみやたらと『めでた』がる戦術」だったと著者はいう。例えば「かくばかりめでたくみゆる世の中をうらやましくやのぞく月影」という狂歌。和歌の世界では「かくばかりへがたくみゆる世の中にうらやましくもすめる月かな」(『拾遺和歌集』藤原高光)と、生き難い世を嘆き、澄んだ月をうらやむ。南畝はこれを反転させ、月の方がめでたいこの世をうらやましく思っているに違いない、と詠む。憂さつらさを言うのではなく、ひたすら現世を祝福する。
言葉の持つ霊力
地味な日常のひとこまや市井(しせい)の人々の姿を捉えた狂歌もある。冷笑も批判もしない詠みぶりには、足るを知る精神も感じられる。狂歌が流行した天明期は、現実には洪水や火山の噴火などの天災が続いていたが、それらを詠んだ狂歌はごく少ないという。著者はそこに、言葉の持つ霊力への感性を見いだす。
同時代に読まれていた黄表紙(絵入りの戯作〈げさく〉小説)には現実そのものを笑いの種にした作品がある。『江戸の戯作絵本 2』(小池正胤〈まさたね〉・宇田敏彦・中山右尚〈ゆうしょう〉・棚橋正博編、ちくま学芸文庫・1980円)は寛政の改革下の世の中をちゃかした作品など十六作を収める。そのひとつ、唐来参和(とうらいさんな)の『天下一面鏡梅鉢』(一七八九年刊)には「かかるめでたき御代に戸をたてるでもあるめえ」と人々が自分の家の戸を壊す場面がある。「閉ざさぬ御世」(戸締まりをしなくても心配のいらない世)だから戸は不要という理屈だが、これは天明の飢饉(ききん)の際に江戸で起きた「打ちこわし」のパロディーだった。他にも浅間山の噴火による降灰と人々の困窮という現実を転じて、諸国に金銀が降って人々が喜ぶ様子を描いた場面などがある。不謹慎かもしれないが、もはや笑い飛ばすしかないという感覚であろうか。
怪談に効用あり
内臓を擬人化するという奇抜な手法で人間の体調の変化を可視化してみせた芝全交の『十四傾城(けいせい)腹之内』(一七九三年刊)もおもしろい。「腹の中の番頭」たる肝臓、酒を飲みたがる「ぐいぐい虫」など、登場するものたちの見た目はどれもユニークである。個人的には勧進僧の姿で歩いている大腸と小腸が好きだ。
非現実的な物語を読むと、現実に向けるまなざしが変わってくる。近世文学は怪談の宝庫でもあった。なぜ人はわざわざ怖い物語にふれようとするのか。『江戸歌舞伎の怪談と化け物』(横山泰子著、講談社選書メチエ・品切れ)は江戸で上演された怪談物の歌舞伎について考察する。四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談』をメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』と比較して読み解く章が興味深い。著者は、お岩の物語に男性作者が出産を「他人事」としてとらえる発想を読み取り、「産婦が毒を飲まされて顔を醜くされたうえ、夫に捨てられて死ぬという話が、女にとって恐怖でないはずがない」と指摘する。と同時に、女をいじめた男が復讐(ふくしゅう)されるこの物語は、女にとってどこか痛快であるとも。鬱屈(うっくつ)した心を解放するのは笑いだけではない。抑圧された者の復讐劇がもたらすカタルシスも、怪談の確かな効用のひとつである。=朝日新聞2024年11月16日掲載