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金原ひとみさん「ナチュラルボーンチキン」インタビュー 停滞する40代を揺さぶる「世界がそこだけだと思うなよ」

金原ひとみさん=篠塚ようこ撮影

40代は自分の限界を定めてしまう年代

――本作は、毎日同じような食事をし、同じような服を着て、ルーティンに忠実に生きる45歳の事務職・浜野文乃が主人公。20代の平木さんというパリピ編集者と出会い、新しい世界へ引っ張り出されます。昭和世代とZ世代のコラボレーションを描いた理由は。

 私には中高生の2人の子どもがいるのですが、彼女たちと向き合うとき、宇宙人と向き合っているような感覚があるんです。昨年書いた『腹を空かせた勇者ども』(インタビュー書評)では、世代間の対話の不可能性みたいなものがテーマだったのですが、「こいつらワケわかんねえ」と切り捨てるわけにもいかないので、大事に思っているものが違っても一緒に生きていく、共存していくことの可能性を探りたいと思いました。

――『腹を空かせた勇者ども』の「勇者」は子世代を指しているのに対し、『ナチュラルボーンチキン』の「チキン(臆病者)」は親世代である浜野さんを表しています。対になっているのが面白いですね。

 世代でどうこう思ったわけではないのですが、40代って自分の限界とか、死に様がなんとなく予想できるようになってくる年代ではないでしょうか。体の衰えもあり、新しいことに挑む気力も持てなくなったり、自分はここに留まる人間だっていうふうに、枠を定めてしまう人が多いように思います。

――それはご自身にも感じていますか。

 感動力や共鳴力が少しずつ低下していっているというか、その方向性が変化しているのを感じます。上の世代と下の世代の中間にいる自分の在り方を意識するようになったんです。自分とは違う価値観の人が出てきたとき、それを否定せずに受け入れたいし、かといって自分の世代を完全否定するのも違う。上の世代に対して凝り固まっているなあ、と感じることもあって、中間にいる者として、〈いいものを残し、悪いものを淘汰していく〉意識が芽生えました。

――作中、浜野さんは破天荒な平木さんに対して、「私たち昭和世代が信じてきたものとか、大切にしてきたものを雑に打ち壊してくれることにちょっとした快感もある」と感じます。これは金原さんの実感ですか。

 そうですね。若い人たちの「なんでそんなものに迎合しなければいけないの?」という無邪気さに、ハッとさせられることや、気が楽になることがあります。世代に限らず、同じ文脈を共有していない者の斬新な視点によって、自分が縛られてきたものから解放されることが多いんです。「世界がそこだけだと思うなよ」と。

――『腹を空かせた勇者ども』『ハジケテマザレ』に続いて、今作も陽キャが物語をリードしますが、近年、明るい作品が続いているのはなぜですか。

 明るいキャラクターでないと打ち壊せないようなものをテーマにしているからかな。暗さや悩みを共有していない人だけが投じられる一石ってあると思うんです。

 平木さんのモデルにした一人に、私の担当編集者がいるのですが、彼女はいわゆるパリピで、何にでも「行く! 行く!」と言うような人。以前は苦手だったそういう人も大きな存在として受け入れられるようになってきた私自身の変化が、この明るい3作には表れているのかもしれません。

 

金原ひとみさん=篠塚ようこ撮影

中年版「君たちはどう生きるか」

――作中、浜野さんはある男性から思いを寄せられ、大いに戸惑います。40代を過ぎての恋愛って、コースも目的地も不明で、その戸惑いに共感しました。浜野さんの殻を破るファクターとして恋愛を選んだ理由は。

 私の中では、あれは既存の恋愛とはちょっと違うものだととらえていて、相手の男性は浜野さんに対して「これからの人生の中で、時々寄り添いたい」と思っている人なんです。浜野さん自身も、一人で余生を終えて、赤の他人に看取られるような終わり方をするよりは、自分が認めている人に殺される方がギリ、プラスなんじゃないか、などと考えます。

 恋愛に限らず、友人関係でもいいのですが、お互いを一緒に生きていく存在として認め合い、縛り合わず、子どもをつくるとか家を買うとか親に挨拶とか、そういうことも言わず、ただそっと寄り添うだけ、みたいな関係。そんな関係があれば、自分の終わりを考えるようになった浜野さんにとって大きな変化になると思いました。

――これも死に様を見据えた発想なんですね。「一緒に生きていくと思うと重いけど、一緒に老いて潰えていくんだと思うと、気が楽になります」というセリフもありました。

 そうですね。人の死も20代の頃だと遠い話だったものが、身に迫って感じられますよね。私自身、コロナ禍もあり、漫然と続くだろうと思っていた日常が、そんなに頑強なものではなかったと気づきました。「この小説は中年版『君たちはどう生きるか』です」と帯に書いたのですが、改めて人間関係をどういうふうに自分で配置していきたいのか、どういう人たちの中で生きていきたいのか、最近考えるようになりました。

 

「あの時、言うべきだった」という無力感

――虐げられた過去のある浜野さんが、時代が変わって、今はみんなが「それっておかしいよね」と言ってくれるようになったけど、「私自身は何もできなかったという無力感が残り続けた」という一文に深く頷きました。

 ある程度の年齢の女性たちは、みんな無力感を抱えたまま現在を生きているんじゃないでしょうか。もちろんそれには私も含まれます。あの時、こう言うべきだったという思い。自分が受けた圧力を根底から拒否できる人たちが現れてくると、無力感、罪悪感が蘇ってくる。

――私たち世代は、それをどう乗り越えていけばいいのでしょうか。

 忘れないことが大切だと思います。今年の前半まで「YABUNONAKA」という告発がテーマの小説を書いていました。自分がされてきたことを、過去のことだからと切り捨てずに、それは今現在の問題でもあると、向き合っていく人々の話なんです。10代から50代まで様々な視点人物を盛り込んで、それぞれからどう見えているかを描きました。これは書いておかなきゃいけない。この時代を生きてきた者としての使命感がありました。

――一方で、無力感のあまり、「同じ辛さを味あわないのはズルい」と若い世代への攻撃に向かってしまう人もいますよね。

 それは本当に害悪になるのでやめた方がいいです。変化をどうやって受容するかは自分との戦いで、他人を攻撃することじゃない。子育てでもよくありますよね。自分はこれだけ苦労したんだから、みたいな。いつの時代もそういう層が一定数いるので、言われた側はスルースキルを発動させて距離をとるしかないと思います。

タイパ、コスパ信仰は人生を貧しくする

――金原さんといえば、昨年、朝日新聞に寄稿された「『母』というペルソナ」が大きな反響を呼びました。作中で浜野さんは、子育てを、得体の知れない存在に3000万の課金をする狂気の沙汰だと感じています。この考え方は最近SNSでも目にするようになりました。母である金原さんは、どう反論しますか。

 本当に子育てって一概に言えなくて、「私の場合は後悔してないよ」としか言えない。私は、小学生の頃から不登校で、我ながら育てにくい子どもだっただろうなと思っていたので、元々は子どもを持つことに恐怖しかなかったんです。でも、うちの子たちはなぜか2人とも楽しそうに学校に通える子たちで、それなりに物分かりがよく、たぶんイージーモードな育児だった。これがハードだったらどうだったかは何とも言えない。しかも、私は産んだことを後悔してないけれども、産んでなかったら産んでなかったで、多分後悔してないはずなんです。だから、「持った方がいいとも、持たない方がいいとも言えない」というのが正確な答えになると思います。

――危惧しているのは、若い人たちが子育てをコスパ(コストパフォーマンス)やタイパ(タイムパフォーマンス)で測り、「やめておこう」となっていること。その考えでいくと人類滅亡しない?って思うのですが……。

 わかります。コスパとかタイパを気にして生きていくのは、人間の存在そのものを否定することにも等しい。例えばタイパで言ったら「本なんて読む意味ないじゃん」ってなりますよね。お金と時間かけて、何が得られるの、みたいな。でも、そうやって生き急ぐことによって損なわれるものって、人間にとって最も重要なものだとすら思います。

 先日、映画『ナミビアの砂漠』の山中瑤子監督と対談したのですが、あの映画を考察映画として観る人がいるそうなんです。「答えがあると思って観たけど、答えが出されなかった、ざわざわ……」みたいな。答えがわかってすっきり!という対価を映画に求めている。
 でも、わからなさを自分の中に住まわせて、そのわからなさと向き合う時間はとても豊かで、面白い。そこを切り捨てていくと、翻って自分の中のわからなさも切り捨てなきゃいけなくなるよ、って思うんです。コスパ、タイパといった不寛容さが、到底答えの出ない存在である自分自身を切り刻んでしまうことに気づいてほしいです。

金原ひとみさん=篠塚ようこ撮影

小説家を目指す人へ伝えたいこと

――世代間の対話がテーマの本作ですが、金原さんは「すばる」「文学界」「新潮」と、3つの文芸新人賞の選考委員をされています。若い世代の書く小説についてどう感じていますか?

 すごく面白いですね。大田ステファニー歓人さんの「みどりいせき」には、「こんな小説読んだことない!」と興奮しました。そして、LINEなど文章を書く機会が多いからか、みんな文章が上手いんです。新人賞の選考は、時代と人が影響しあって生じた変化をまざまざと掴みとれる、刺激的な体験です。それは受賞しない作品にもすごくあって、小説の中の人々の価値観だったり、それに対する他の選考委員の人たちの意見だったりが自分の中に蓄積されて、現代を表すための新しい言葉が溜まっていっているような感覚があります。

――20歳でデビューされ、時代の寵児となった金原さんですが、小説家として年を重ねることに不安はなかったのでしょうか。

 それはないですね。たくさんの素晴らしい成熟した作家の作品も読んできましたし、いくつになっても名作が書けるという例もたくさん目にしていますので。

 小説って、時代と自分をかけ算して、その計算の先に出てくる現在や未来予想を割り出すみたいなことだと思うんです。だから、その時々でしか書けないものを書いていきたい。とくに震災やコロナ禍など大きなことが起きた時の人間の変化は、スピーディーに表現していきたいです。

――私は小説家志望なのですが、公募勢の間で毎回話題になるのが、金原さんの応募要項に寄せるメッセージ。「何でもいいよ! 小説書けたら送ってみて!」(文學界)など、毎回すごくシンプルなんですよね。これはなぜなんでしょうか。

 他の作家さんたちは、「小説とは~」と小説観を語るものもあって読み応えがありますよね。ただ、私の中には「小説とはこういうものである」という考えがそもそもないんです。もちろん差別的なものなどはそれなりに排除しないといけないですが、小説は何でもありなのが一番の魅力です。だから、「何でもいいよ」は本心なんです。

 もう一つは、文学が権威的なものであるという立場には、絶対に立ちたくないと思っています。私は、「文学とは何なのか」といったことを何も知らないままデビューしたんですよ。文芸誌に載ったら芥川賞の候補になる可能性が生じる、というシステムも知らなかった。そういう、何も知らないけどただ好きで小説を書いている人や、書くことに救われている人をふるい落としたくなかったので、誰でも応募できるようなフランクさを担保しておきたかったんです。

 大事なことは他のみんなが書いてくれているし、私はただ未来の作家を応援する、この立ち位置でいようと思います。

金原ひとみさん=篠塚ようこ撮影

◇清繭子さんの連載「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」はこちら