万博 美術の故郷で見た「ベラボー」さ 椹木野衣

大阪・関西万博の開幕よりひと足先にテストラン(リハーサル)を訪ねた。万博は世界最大の国際産業見本市だ。なぜ私が? 「美術」の「故郷」が万博だからだ。
日本語の「美術」が最初に公的に使われたのは、明治維新からまもない1872(明治5)年、ウィーン万博前年のこと。万博への国として初の正式な参加が契機だ。美術はその際に造られた官製の訳語だった。その後、美術が国内で定着するにつれ、所管する官庁も文部省(現在の文部科学省)となり、教育概念としての美術がいまに伝わる。が、当初は違っていた。
近年「美術=アート」を国際的な産業振興のために再生しようとする動きがある。その是非も含め「美術」の起源が万博にあることを振り返るなら北澤憲昭『眼(め)の神殿 「美術」受容史ノート』(ちくま学芸文庫・1650円)をまず読みたい。1970年の「大阪万博」、2005年の「愛知万博」に次いで、大規模な登録博としては日本で3度目なら尚更(なおさら)だ。
「大阪万博」は6400万人を超す動員を記録し、その時点では過去最高の成功を収めた。その姿を今日まで伝えるのが岡本太郎「太陽の塔」だ。が、実は会期終了後、取り壊される予定だった。パビリオン=仮設建築の一部だからだ。祝祭で花開く一瞬の「爆発」にかける――だからこそ太郎は、テーマ展示のプロデューサーにも関わらず、「人類の進歩と調和」を真っ向から否定する(太郎の言葉では)「ベラボー」な建造物を構想できた。だが、構想と施工は別次元の問題だ。平野暁臣『「太陽の塔」岡本太郎と7人の男(サムライ)たち』(青春出版社・1430円)は、この前代未聞の塔/アートが、当時どのような「若者」たちに託され、どんなふうに実現に至ったかを知るうえで貴重な証言だ。
磯崎新『空間へ』(河出文庫・1540円)は、「環境」や「装置」という概念を武器に、70年の万博に挑んだ若き建築家の60年代を通じた足取りを追える。いま建築家と言ったが、やがてその体験は磯崎の中で「反建築」や「アンビルト(建たない建築)」という概念に結実する。
残念なことに本当に「建たなかった」が、2020年の東京五輪(実施は2021年)のために設計競技を勝ち抜いたザハ・ハディドの、あの「ベラボー」な新国立競技場案を思い起こしてほしい。そのザハが世界で最初に評価されるきっかけを作ったのも磯崎の「反建築」な万博の思想だった。
では、テストランの大阪・関西万博に足を運んでどうだったか。前評判は決してよくなかった。方々から批判の声も聞こえてきた。事実、万博が過去のものという感は拭えない。そうでなくても会場ではかなりの数のパビリオンが運用前で、中にはあからさまに工事中の施設もあった。けれども、それらのほぼすべてを呑(の)み込んで、夢洲(ゆめしま)を舞台に巨大な輪を描く「大屋根リング」(設計=藤本壮介)は、とてつもない代物だった。
今回の万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」だが、この巨大なリング=ゼロ記号は、掲げられたテーマを無化し、まさしく「ベラボー」というのがふさわしい。まちがいなく万博の歴史に刻まれるであろう。
ここに至る設計者の歩みを知るには、藤本壮介『地球の景色』(エーディーエー・エディタ・トーキョー・3190円)を手に取るのがよい。だが、もともと万博のパビリオンは半年を会期とするため建築基準法の適用が緩く、見たこともない建築が立ち並んだ。その意味ではアート(美術、反建築)に近い。大屋根リングは会場を結界のように守りつつ、万博の歩みをメビウスの輪のようにねじって、ひもとく。=朝日新聞2025年4月19日掲載